―Sky Clouder―


〈幕間・三〉

「絆に歌えば」


 ――ヴォーカルが途切れる。続いてメロディーがゆっくりとしぼみ、そして静寂の中にゆっくりと溶け消える。音楽が、終わってゆく。
 合わせる様に、姿勢を正して小さく呼吸を一つ。完全に音の止むタイミングを寸分違わず見計らい、マーナフ=リオカは眼前のドアを
コンコンと軽くノックした。
 「開いてるよー」と間延びした声を合図に入室し、優雅さを損なわないように一礼。あくまで口調を平静に保って、彼女は己が主に用
件を伝える。
 「レナお嬢様、昼食の時間です」
 「ありゃ、もうそんな時間だったか」
 「分かった、今行くね」
 予想に違い、応える声は二つ並んで耳に届いた。おや、と思って顔を上げたマナの視界に、揃ってソファに身を預けたベルンスト家の
姉妹の姿が入って来る。
 「ハルカお嬢様も、こちらにいらっしゃったのですね」
 「うん。これがあるのって、姉さんの部屋だけだもの」
 ハルカはそう言いつつ、広々と陣取られた部屋の一角を視線で指し示す。そこに鎮座しているのは、横に二つくっつけて並べられた高
さ一メートル少々の本棚と――その上に乗っかっている、一辺五〇センチ足らずの木造の立方体。
 前面と上面に施された、いくつもの木々が規則的に絡み合う装飾は、単なる箱にしては独特の存在感を放つ。ついつい気にしてしまっ
ている為だろう、先程からざわざわと波打つ心の機微を「慣れ」という名の殻で包みながら、マナは言葉を紡いでいた。
 「また、この曲ですか。私たちがこれを発表したのって、もう二年近くも前になるんですよ?」
 「ん――……いやね、気が付くとつい、これに手が伸びちゃってるんだよ。ある意味、習慣みたくなってるね」
 「あ、勿論、他の曲も聴いてるよ? マナの歌って、昔のも今のも、素敵なのは変わらないんだから」
 その時、二人の言葉に相乗するかのごとく、先述の立方体――コンパクトタイプの晶力スピーカーが、新たな音楽を奏で始める。メロ
ディーが数拍紡がれた後にそこから流れて来たのは、紛れもないマナの歌声だった。
 「で、これが、最近作った新曲――だっけか。『風の使徒』の皆は元気でいる?」
 「……はい」
 小さく返した呟きは、レナが口にした言葉の、果たしてどこを対象としたものなのか。三人の言葉が揃って途切れたことで部屋内に遮
蔽の要素が無くなり、空間の隅々にまでゆったりとした歌声が広がってゆく。
 「…………」
 音を立てない範囲で小さく身体を揺らし、曲に合わせてリズムを取っているレナ。全身に歌声を染み渡らせるがごとく、目を細めて静
かに聞き入っているハルカ。様々な感情が胸中で複雑に絡まりつつも、仕えるべき主たちの邪魔をせぬよう入り口近くで直立不動を保つ
マナ。
 無言こそ共通してはいるものの、三者三様に異なった反応。結局その様子は、スピーカーから流れている曲が完全にフェードアウトし
きるまで――もっと言えば、タイミングを見計らっていたハルカが「そういや、お昼の時間だったよね」と、話の発端を場に引き戻すま
で、続く事となる。
 ……その刹那。普通の呼吸に交えてマナがこぼしたのは、それと分からぬ程に小さく、微かな溜め息だった。

 ――物心付いた時から、歌は好き。歌うことも好き。けれどそれは、男女問わず遊んでいた友人たちと同じ程度のものだった。幼少の
頃の気持ちは大切なものだけれど、いつか適当なところで折り合いを付けて、過去の思い出の一つになって行く。
 そういうものだと、考えていた……のだが。実際のところはと言えば、マーナフ=リオカの今現在の生活は、歌を抜きにして最早語れ
なくなっていた。勿論、ベルンスト家メイドのサブリーダー的立場を蔑ろにするわけでなく、あくまで仕事と両立できる範囲での活動で
はあるが。
 マナと彼女の弟であるヴィル=リオカが、仲間たちと集って結成した音楽サークル『風の使徒』。今年の夏で結成三年目を迎え、生み
出して来た曲は二桁を超えて久しい。全員が意見を交換し合い、議論を交わした末に生まれる詞と曲を、メインヴォーカルであるマナが
歌い上げてゆくのが基本スタイルである。
 一年目はとにかく、出来る範囲でがむしゃらにひた走ってきた。二年目から精神的な余裕が少しだけ生まれて、やりたい事を考えられ
るようになって来た。小さな会場を借りてライブを行っては、その度に反省をし、次回に活かせる様取り組んで来た。勿論、その為に普
段の生活が崩れては本末転倒なので、各々のスケジュール調整にも試行錯誤を繰り返す日々だった。
 そして、今年の夏でいよいよ三年目。ハルカやレナ、仲間の使用人たちも応援してくれている――ちなみに、一年目の時点でサークル
の存在は彼らの耳にしっかり入っており、色々とからかわれたりした――それに、次回のライブも間近に控えている。その為の予定も組
み上がっている。
 いまのところ、特に大きな問題は無い。無い筈なのだが、マナは時折ふと「これで良いのだろうか」と、それこそ何に対しての不安か
分からぬまま、自問をしてしまう時がある。
 問題が起きてないからこそ、ちょっとしたことでも不安になっているだけだ。そんなに気になるのなら練習して打ち消せば良い、それ
だけの事じゃないか。そう自分に言い聞かせて、彼女はぴしゃりと問答を打ち切る。
 ……前述の、レナとハルカが彼女の新曲を聴いていた折。彼女らがそこに浮かべている表情を見た瞬間にもまた、そんな一連のパター
ンが繰り返されていた。

 当然ながら、そんな状態がいつまでも続くものではないし、また続けられるものでもない。迷走の道に陥りかけていた歌い手は、程な
くして一つの回答を迫られる事となる。
 きっかけは、前触れ無く舞い込んできた、一通の凶報だった。

 ――私服姿のマナがそこに到着した時、既に面子は顔を揃えていた。遅れて御免、と簡潔に詫びの言葉を入れつつ、彼女は仲間達――
音楽サークル『風の使徒』のメンバー達の元へと近付く。
 「ヴィルから大体の事は聞いているけど……今になって?」
 「そう、本当にこの期に及んで、よ。事情が分からないわけじゃないけど……ナコシエじいさんの悪い癖が出たわけ」
 「で、いくつか候補に挙げてた場所に尋ねてみて、全滅したのがつい今しがた。五日足らずじゃ、もうどこもかしこも予約で埋まっち
まってる」
 時刻は既に夜八時を回り、メンバー行き着けの喫茶店『カロンダ』内に他の客は数える程度。その中の一角、四人が向かい合って座れ
るテーブルに、ヴィルを含めた三人の男女が着席していた。
 血を分けているだけあって、彼女と同じく艶のある黒髪がヴィル。他の二人の場合、一番の年長と見られる男性は短く刈り込んだ髪を
朱に染め、それに告ぐであろう年の女性は肩までの金髪をカチューシャでアップに纏めている。三者三様の髪色と髪型は、着席場所が店
のやや奥の窓際席であるにも関わらず、ちょっとした存在感を出す一因となっていた。
 「カウラとレグナ、今までほんとに休み無くあちこちを回ってくれてたんだ。手伝えなくて、すまない」
 「謝らなくて良いよ。まずはこれからの事を考えなくちゃ」
 「そうだな。……で、目の前の現実を受け止めてみると、色々厳しいと思うぜこれ」
 ヴィルの隣に腰を降ろして、肩からかけていた小型の鞄を外すマナ。向かい合って座っている男女二人――レグナ=フェルクとカウラ
=フリープの言葉に、そうね、と相槌を打ちつつ、彼女はこれまでの事の次第を脳内にリピートさせてゆく。
 「これからの事……か」
 ――海天季三十日、つまりこの日の午後五時頃。少し早めの夕立がラムーニアの上空を通り過ぎ、暑気の中に僅かな涼しさが混ざり込
んできた頃の事だった。
 この時、ダインとローラはそれぞれの仕事、ヴォルトはシルトの手を借りて通院中。フォートも明後日まで「養父母の所へ顔を出して
いるよ」と、屋敷から外出している。どことなく、がらんとした空気が邸内に漂っているのは、主と言える立場の者がレナとハルカの二
人しかいない為だろう。
 「――姉貴」
 そんな場の、玄関ホールを横切る途中。間違えようの無い声に振り向いたマナは、そこに執事服を纏った少年――弟の姿を見取って、
いささか驚きの様相を見せる。同じ屋敷で働いているとは言え、分担している職務や役割の違いから、このベルンスト邸内で二人が言葉
を交わす機会はあまり無いのである。
 ましてや休憩時間でもない公務中、唐突に呼ばれては、一体何かと訝しく思うのも無理からぬ事だった。
 「? どしたの、あんたから突然――」
 珍しいじゃない、と続けようとした言葉は、しかし「会場が駄目になった」というヴィルの一言によって「へ?」という疑問符へと変
化する。
 「ついさっき、俺も聞いたばかりなんだけど……二人が、電話で」
 「二人――え、それ、カウラとレグナ? そんな――なんで、冗談みたいな――」
 「……それがさ。ナコシエさん、この前、子供らの合唱団とその親達の剣幕に詰め寄られたらしい。『何とかしてこの子たちに練習場
所を提供して欲しい、歌の好きな子供たちのお手伝いをしていただきたい』――とか言われて」
 「う……わ、っちゃあ〜」
 両の手の平で顔を覆いながら、マナは思わず天を仰ぐ。後になってみればその瞬間、完全に繕いも何も無い「素」の自分がそこに出て
しまっていたわけだが、生憎と気にしていられる余裕は無かった。
 「子供に弱いってのは知ってたけど――ここで、そう来るかぁ……」
 マナの脳裏に浮かぶのは、自分たちとすっかり既知の間柄となった一人の老年男性……ナコシエ=ランベルの笑顔。それも、十数人の
子供たちに次から次へと「ありがとう御座いました」と感謝され、顔全体をすっかりふやけさせた類のものだった。
 彼の人となりを示すに、子供が好きな老人、という表現は間違っていない。数年前に妻に先立たれた時、傷心の彼を癒してくれたのが
近所の子供たちだった為、すっかり彼らに甘くなってしまった、という話も、まあ分からないでもない。
 ただ問題は、それの度を越すタイミングが、時と場所を選ばない事にある。普段なら約束を反故にするような事も、人を騙す様な事も
ない真面目な人柄なのだが……何にしてもまず「大人の都合より子供の切なる事情」を優先してしまう性格が、一番出て欲しくない時に
飛び出してきてしまったわけである。
 「小さな子供がらみになると、ナコシエさんは手強いわね……ここしばらくは大人しかったから、油断してた」
 かつて映画技師の仕事に就いていたナコシエが、老朽化して取り壊し寸前だった一軒の映画館を買い取り、私財を投じて多目的に扱え
るホールへと作り変えたのが十年近く前の事。以来そこは「ランベル・ホール」という愛称の元、ライブハウスやイベントの会場に使わ
れ、多くの者達に親しまれて来た。マナ達『風の使徒』メンバーも、そういった縁で彼と親交を結んだ一組である。
 そして。海天季の三十五日、つまり五日後に、ここで恒例のライブ活動を行う約束を取り付けていたのだが――前述の通り、子供の事
を思い過ぎる老人は、振って湧いたその約束に、頷きで返してしまったと言う。
 せめてもの救いは、このライブのチケットが明日から前売りを始めてもらう予定であり、まだ誰の手にも行き渡っていなかった、とい
う事くらい。町の掲示板に貼り付けさせてもらった宣伝ビラに関しては、早急に剥がさねばならないだろう。
 「姉貴の言うとおり、レグナが粘ってくれたんだけど、何時もの『子供らの事を思うとなあ』って台詞から、どうあっても話を進めて
くれなかったって。……相手が小等部の低学年じゃ流石にきつかった、って、電話の向こうでぼやいてた」
 「……そ、っか。早いうちに二人と話、出来る?」
 「今日の七時半に『カロンダ』のいつもの席にいるらしいよ。仕事が終わったらで良いから来て欲しい、ってのが、電話の切り際のメ
ッセージだった」
 「分かった。……私は少し遅くなるかもしれないけど、なるべく早めに行くから。あんたは先行しておいて」
 マナの言葉に対するヴィルの首肯を以って、その時点での会話は終了。その後、互いに己がすべき仕事を済ませた上で主人たち――こ
の時はダイン達が外出しており、実質上レナとハルカの二人となる――に「少しだけ外出して来ます」と許諾を貰い、他の使用人たちに
残った諸々の雑用などを任せて、ここまで飛び出してきたというわけである。
 「ここも、ここも、ここも……だめ、か」
 テーブルに広げられたA3サイズの街の地図上を、マナの指先が次々にポイントして行く。自分達の手で紙面に記載したライブハウス
やライブ可能な会館は、ざっと見るだけでも二十箇所を超えているが、今やその半分に「見込みなし」の烙印を押さねばならない状況と
なっていた。残りの半分にしても、あまりに街の外れだったり設備や広さの面で問題があったりと、正直なところ押し切るには難しいと
いわざるを得ない。
 「せっかくこのライブから、俺達の三年目だってのに……変なケチが付いちまうのかなあ」
 「早いよ、諦めるの。確かに後四日しかないけどさ、あがけるだけはあがいてみないと」
 まあ、そりゃなあ――と、顔にも声にも渋さを含ませつつ、レグナはこめかみにぐりぐりと拳を当てる。
 「俺とカウラの二人で行ける所は、ひとしきり行ったと思うんだが……ヴィル、マナ、二人ともどうだ? つてとか何か、無いか?」
 言われて地図に眼を落としつつ、頭の中にある情報の引き出しを引っ掻き回し始めるリオカ姉弟。上下左右に視線を巡らし、険しい表
情を浮かべたまま、時折ぽつぽつと意見を挟んでゆく。
 「――ライブハウスで、『スライト』と『ラクエス』」
 「どちらも予約済みだ、キャンセルの話も無い」
 「じゃあ、『リダムの森』――」
 「ハイスクールの子らが、一週間の予定を組んでバスケトーナメントの真っ最中。あの会館、最近は体育館も同然ね」
 「じゃあ、他の候補は……」
 思いつくまま、足を広げられる範囲のライブハウスやホールの名前を挙げてゆく二人。だがそれらのことごとくは、名前を出した瞬間
にレグナとカウラが即刻「否」を唱えてゆく。三年と言う年月の中で培った、メンバー達の顔が割合効き易い場所、いわゆる「穴場」の
ような場所に一抹の希望をかけてみても、戻ってくる回答に芳しいものは無い。
 「――ん? 待った」
 と。名前の羅列を聞き取っていた最中、考えに耽って両方とも半開き状態だったレグナの瞳がぴくりと反応した。右の目蓋がゆっくり
と開かれ、その奥にある瞳にゆらりと小さな火が灯る。
 「ヴィル――今、何て言った? もう一度頼む」
 「え? えぇと……『コルヴスの憩い』。だけど、ここも予約が、」
 「……そう、だな。確かに、そうなんだが……その、コルヴスってのは、コルヴス・パークだよな? 遺跡の並んだ広場をそのままで
かい公園に仕立て上げている、あの」
 確かにレグナの言葉通り『コルヴスの憩い』は、ラムーニアの中でも特に大きな公園の一つ、コルヴス・パークと隣接したところにそ
の入り口を開いている小規模のライブハウス。「穴場」の一つであるここも、生憎と既に先客が入ってしまっている状態だった。
 「そりゃ、コルヴスって言ったらそこしかないけど――それが?」
 「……もし、俺の記憶が正しいなら……ちょっと待っててくれ、話をしてみる!」
 そう言うや否や勢い良く席を立つと、レグナはどたどたとその長身を勢いよくばたつかせ、店の奥へと駆けて行く。その後ろ姿を呆然
と見送る三人は、しかしそれぞれの胸中で先程の言葉を反芻し、やがて思うところを口に出した。
 「姉貴、カウラさん……俺、あそこの公園、特に『でかい』って言うイメージくらいしか無いんだけど」
 「同じく。……まさかあいつ、休日の白昼堂々、公園のど真ん中で歌おうとか言いだす気なんじゃ……」
 「いや、流石にそれは……無いと思うんだけど」
 硬い苦笑を滲ませて、レグナの向かった先を見つめるマナ。今の席からは死角になって見えないが、あそこには確か公衆の通話機が設
けられていたはず。時折、ボリュームの上がった彼の声が漏れ聞こえてくるが、それでも何を言っているかは判別しようがない。

 ――そして、およそ十分後。戻ってきたレグナが開口一番、仲間たちに投げかけた言葉によって、静かだった『カロンダ』の一角が、
にわかに騒がしさを帯びる事となる――

 「……ふ、ぁ」
 明けて朝、海天季三十一日の午前六時。レナとハルカの朝食が整えられてゆき、同時に使用人たちがそれぞれ交代で朝食を取っている
頃。マナは湧き上がってくる欠伸を必死でかみ殺しつつ、屋敷の中を見回っていた。
 昨日、邸内の自室へと戻ってきたのが、夜の十時前。それから日が昇り、いつも起きる時刻まで床に就いてはいたものの、どうにも眼
が冴え渡ってしまい、眠れぬ夜を過ごしていたのである。
 「………….」
 今、ヴィルと顔を合わせたら、二人して「自分と同じ顔をしている」と、呆れあうんじゃないだろうか。昨晩、寝床に入る前に別れた
時の様子を思い返し、マナは喉の奥で呟く。
 ――コルヴス・パークの北側には、石造りの遺跡が浅いすり鉢状に象られて、さながら劇場のようになっている広場がある。そこにこ
のところ多くの人が集まり、賑やかな様相を呈しているのは、姉弟二人揃って知っていた。
 買い物をした帰りにふと足を向けてみると、そこではちょっとした大道芸が行われており、子供達の黄色い声援が止まなかった事を覚
えている。
 昨晩、戻って来たレグナは開口するや「あの場所なら、使える」と言って来たのだ。今現在やっている大道芸の見世物は明日で終了し、
それから四十日くらいまでは特に予約や予定が入っておらず、然るべき手続きを踏めば、演奏も行わせてくれる――と言うのである。場
所を借りる為の駄賃にしても、儲けが主な目的ではない為、かなりの額を抑えていけるそうだ、との事。
 「路上でならともかく、外のホールで俺達の演奏をやった事はない。楽器と歌のバランスだって難しいし、何より音の広がり方がどう
なるかも分からない。色々リスクが高いのは分かってる――だけど、やらずにこのまま終わるよりは、」
 「やって後悔、そっちを取る?」
 彼の言葉尻を受け取り、自分の想いをその声音に上乗せして、問いかけるカウラ。頷きを返すレグナ――そしてヴィルとマナも、それ
ぞれの顔を一度見渡した後、揃って首を縦に振った。心に思う事は、まさに先程の言葉の通りである。
 正直なところ、本気でこの日に場所を変えて演奏を行うと言うのなら、あまりにも時間が無い。各々の気持ちの天秤が揺らがないうち
に、慌しくこれからの事に付いて最低限の方針が決められ、閉店時間ぎりぎりまで粘って可能な限り話し合いが取り交わされた。
 その時の興奮と、頭が冷えてくるに連れて心に纏わり付いてくる不安が綯い交ぜとなり、昨晩のマナから眠気を完全に奪い去っていた
のである。
 「公園で――か」
 それぞれの持ち合わせを足せば、費用の面はなんとかなる。カウラとレグナも「明日は可能な限りこちらで動いて、何かあったら逐一
報告する」と言ってくれた。自分たちに比べて比較的自由に動ける二人に任せきりなのが正直心苦しいが、その分はまた後日、何かしら
の形で返す他無い。
 かつて路上でパフォーマンスを行っていた折、果たして自分はどのような気持ちで臨んでいたのだったか……思索をしばしの間続ける
マナだったが、しかし、いくら見直しても「がむしゃら」という単語しか出て来ない事に気付き、微苦笑を浮かべてしまう。
 あの頃は、歌を歌っている自分がこれからやっていけるのか不安で堪らなくて、それを受け取ってくれる人たちの事を少しも考えてい
なかった。思えば、つくづく幼稚な姿勢を取っていた。
 もしあの頃に、カウラとレグナの二人に会わなかったら、自分は今こうしていられているのだろうか――
 「――侍女長」
 言葉が鼓膜を揺さぶった瞬間、半ば習性として身についたメイドの所作が、それまでの心の揺らめきをぴしゃりとシャットアウトして
いた。同時にくるりと振り向き、自分を役職名で呼んだ者を視界に収め、
 「あら――メイル」
 そして、わずかに力を抜く。そこにいたのは、もう何年も一緒にこの屋敷で働いている、互いに気心の知れたメイドの一人だった。
 緩やかなウェーブのかかった深緑の長髪を肩より少し下で切り揃え、額にかかる前髪の一部を小さなピンで止めている。細長い切れ込
みが入った両の瞳は、右のそれが緑、左のそれが赤と、それぞれが異色のオッドアイ。彼女――メイル=フロッツがその口元から紡ぎだ
す声は、マナと同じく、久方ぶりにラムーニアに戻って来たレナ達を最初に出迎えたものの一つである。
 「何があったかは存じませんが……私たちの上に立つべき者としては、あまりよろしくないお顔ですね」
 「あ――そう、見える?」
 「はい。面識の薄い方ならともかく、婦長やお嬢様方に向けて良いものではありません」
 あまり抑揚をつけず、歯に衣を着せない喋り方は、主に使用人達の風紀全般を彼女が取り仕切っているからこそである。実質的な立場
としてはマナの方が上に当たるものの、こういった件に関しては、メイルの意見の方がより尊重される取り決めとなっていた。
 ……『婦長』シルト=キュエリアとも個人的な友人であり、明らかに自分よりも年上である彼女を前にすると「果たして自分が侍女長
をやっていて良いのだろうか」と、時折落ち込むマナがいたりするのだが、まあそれは別の話である。
 「アルムに言って、下の部屋にコーヒーを用意させてありますので。後は、私が見回りをやっておきます」
 「――頼むわね」
 色々と逡巡が無いわけではなかったが、先程彼女が言ったとおり、眠気のしこりを顔に僅かでも露出させていては、それこそ主に向け
る顔が無いと言うものである。公の身分上、礼を返すのは心の中に留めておいてマナは踵を返し、階段を降りて目的の部屋へと向かった。
 屋敷の一階、玄関ホールを抜けたところにあるその部屋は、使用人たちにあてがわれた合同の休憩室。全体の広さも設備も一通りのも
のが揃っており、使用人の皆が一日の食事を摂ったり朝のミーティングを行ったり、文字通り休憩や談話をする時などと、多目的に用い
られる場所である。
 マナが静かに入室した時も、使用人たち数人が朝食を摂りつつ、数少ない談話の機会を有効活用している最中だった。侍女長、と、か
けられた声の方向に視線を向けてみると、そこにあった光景は、果たしてメイルの言葉の通り。
 「丁度良かったです――はい、コーヒーどうぞ」
 「お。やっぱり来たんだ、姉貴も」
 亜麻色の髪を両脇で結わえた小柄なメイド姿の少女が、湯気の立つコーヒーをマナ専用のカップに注いでいるところだった。メイルと
同じく、同じ職種を共にする仲間の一人――アルム=ヴァステンである。 
 その傍らでは、ヴィルが一足お先と言わんばかりに、彼女お手製のコーヒーを口に入れていた。あんたも来ていたのね、と声をかけな
がら、マナは自分のカップを手に取る。
 「うん。今しがた執事長に、怒鳴られこそしないけど『君はそんな顔でお嬢様たちの前に立つつもりでいるのかね』って……場所が場
所じゃなかったら、ここまで人目を気にせずすっ飛んで来るところだったよ」
 苦笑いを浮かべてそう話すヴィル。彼を初めとした執事らの直属上司である、灰色髪の老年男性――『執事長』ソーン=レンディスは、
マナ達からすれば非の打ち所なき老紳士の鏡そのものなのだが、それをいつも間近で見ている弟たちには、どうもそれだけでは済まない
側面が見えているようだった。
 「お二人がここで並んでおられるのって、考えてみればちょっと珍しいですよね」
 「ん――そういや、確かに」
 「言われれば、普通は無いわよね」
 休憩室にはいくつもの円形テーブルが置かれ、それを囲む形で数脚の椅子が置かれている。その内の一つに腰掛け、眠気払いの特製コ
ーヒーを口に含みながら、会話をしていくマナ達三人。
 「いつも思うんだけど……アルムの特製コーヒーって、眠気覚ましには特に効くわよね。教えてもらったとおりの淹れ方を試している
んだけど、全然上手くいかなくて」
 「『風の使徒』のみんなで試し飲みしてみて、あまりの苦さに呻いたりむせていたり、だったよな。本家の方もかなり苦いは苦いんだ
けど、不思議と飲めてしまうって言うか」
 「そうですね、やっぱりそれなりのコツはありますよ。私も、マスターするまでは単に苦さばかりがとんがってましたから」
 そんな他愛の無い談話を三人で続ける事、しばし。
 「……あの。聞いても、良いでしょうか?」
 ややためらい気味に、アルムの口から放たれた問いかけ。視線の動きから、それが明らかにどちらかではなく、マナとヴィルの二人に
対して向けられたものと分かる。
 「何、アルム?」
 「侍女長とヴィルさんが、揃って眠れない夜を過ごしていたのが気になってしまって。……ひょっとして『風の使徒』の事で、何か?」
 『風の使徒』の存在がベルンスト邸内で周知である、というのは前述した通りだが、その中には曲を聴いているうちにファンとなって
くれた者達も少なからず存在している。ここにいるアルムも、そんなうちの一人だった。
 「ま、まさかとは思うんですが――次回のライブが中止になってしまった、とか?」
 不安も露わな声音だった。ちらりと視線を合わせた二人は、彼女を安心させる意味も兼ねて、なるべく諭すような口調で事の次第を告
げる事にする。
 「ライブは――中止しないよ、予定通りにやる。ただ、色々あって『ランベル・ホール』が使えなくなってさ、コルヴス・パークの北
広場に会場を移す事にしたんだ」
 「いきなり過ぎて、告知の時間が全然無かったのが痛いけど――結局出来なくなってしまうよりは、ね」
 「じゃあ……外の会場、と言う事ですか――」

 「――素敵だと思うな、私は」
 「うん。これからしばらく晴れの日が続くらしいし、きっと成功するよ」
 アルムのそれに続いて、お世辞でもなんでもない素直な言葉だった。長年の交流からそれがはっきり分かるだけに、マナはかえって戸
惑いの表情を見せてしまう。
 「そ……そう、思われますか?」
 問いかけに返って来るのは、これまたためらいの無い首肯。レナとハルカの表情に、取りつくろいの類は微塵も見られない。
 「カイトと義兄さんにも伝えておかなくちゃ。……あ、でも、チケットの料金ってどうなるの?」
 「いえ――今回は色々と急な事でしたから、そのお詫びを兼ねて無料観覧という形にする予定です」
 勿論、皆の持ち合わせと相談した上で話をつけました、と補足するマナ。性根の優しさゆえ、こういった話題に関して下の嬢が特に心
配性な体質である事を、彼女は痛いくらいに理解していた。
 「なら良いけれど――無理はしないでね」
 ハルカの言葉に、首を縦に振って答える。
 特製コーヒーで脳裏の眠気をこそぎ取り、ひとしきり水で顔を洗って化粧を整えなおした後。通常業務に戻ったマナはベルンスト姉妹
の部屋に赴き、朝食の用意が出来た事を二人に告げていた。一階へと続く廊下を連れ立って歩いている途中、レナが「そういや、ライブ
まであと少しだよね」と切り出した事が、先程からの会話の発端である。必然、会場変更の件も話題に上る事となる。
 「いきなりだから、戸惑う人も多いだろうけど……沢山観に来てくれると良いね」
 「って言うかさ、折角外でやるんだから、その歌で公園の皆を呼び集めちゃえば良いんだよ。あんた達の力なら、難しくないって」
 流石にそれは、買い被りすぎですよ――苦笑を浮かべてそう返しかけたマナだったが、しかしそれは、続く言葉に塞がれる。
 「大体なんだけど。マナの歌って何と言うか、聞くたびにどんどん外へ広がろうとしているし。勿体無い、って思ってたところだった
んだよね」
 「? 広がる――?」
 その一語は、マナの耳からするりと心の奥へと侵入し、近頃忘れていた胸中のざわめきをちくりと刺激した。思わずレナの顔を見返し
た時、さらにハルカが言う。
 「あ、それ分かるかも。時と場合ありきだけど『この歌は部屋の中じゃなく、外の広場で聞いたらもっともっと素敵に聞こえるだろう
な』って思っちゃう時、あるよね」
 「だね。でなきゃあ、わざわざ部屋全体に響き渡らせたりしないって。大人しく音量下げるか、集音機でも使ってるよ」
 集音機、と言ってはいるが、要は晶力スピーカー用のヘッドフォンである。確かに、彼女は他の曲を聴く折に良く集音機を用いている
が『風の使徒』の曲については、部屋全体に流して楽しんでいる方が圧倒的に多かった。
 ……マナからしてみれば、彼女の部屋から流れ出てくる歌が大方自分達のそれに限っていると言うのは、正直に言ってかなり気恥ずか
しい部類に入るのだけど。
 「だから、良い機会だよ。お空の下って囲む壁が無いんだしさ、この際思いっきり声出して歌ってみたら?」
 「うん。マナの歌なら、ずっと遠くまで、高くまで届くよ。それこそ、上を飛んでるクラウダー達の耳にまで入るんじゃないかな」
 「レナ様、ハルカ様……」
 ちくりちくりと、先程から胸の中が刺激され続けていた。二人の言葉を聞いている内にそれは少しずつ深く、強く、マナの心を揺り動
かして行く。
 レナとハルカが食堂まで見送り、一人になったところで、彼女はすぐ傍にある窓の外へと近付いてゆく。全体の大部分を白色に、僅か
な部分を青色によって構成された空は、セルナスにおけるこれ以上無いくらいの好天を見せていた。
 「――――」
 より遠くまで、より高くまで。アルムも励ましてくれたし、二人もああ言ってくれたが、皆の演奏と自分の歌は、外の世界で果たして
一体どこまで届くのだろうか。
 寄る辺は無い。不安も大きい。気がかりを言葉にすれば、それこそきりが無いだろう。けれど、気付けば何時しか「このままで良いの
か」という自答は、聞こえて来なくなっていた。
 今この瞬間にも生まれ続ける、胸の疼き。マナはゆっくりと、しかし眼を逸らす事無く、それと素直に正対してみる。心の中で一つ呼
吸を整えて、もやのかかった胸の内より、該当する言葉の羅列を掬い取っていく。
 「…………」
 そこにあったのは、まず何よりも「新しい場所で歌える」という気持ちだった。未だ知らぬ領域へ踏み込んで行く事への高揚が、まる
で雛鳥が卵の殻を内より破っているが如く、ちらちらと見え隠れしていた。
 それがいつしか心の引き出しにしまわれて、しかし確実に大きくなり続けている事に、自分自身でも気が付いていなかった。そう言っ
た心の在り方と、現状に対しての満足が、知らぬ内に僅かな、しかし確実な齟齬を起こして歌の中に表れてしまっていたのだろう。
 叶わないな、お嬢様方には――と、マナは肩を竦めてもう一度空に眼差しを向ける。
 外で一度歌ったからと言って、全てが上手くいくと考えるのはあまりに虫が良すぎる。この齟齬がきちんと埋まってくれる確証だって、
あるわけではないのだ。
 自分一人では難しいことばかり、だけど。仲間たちがいて、応援してくれる人たちがいて――そんな、彼らとの絆を忘れないようにす
れば、心配は要らないという気持ちがある。
 大丈夫。信じていける、何があっても後悔しない。だから、
 「――歌おう」

 そして。それから四日間など、あっという間に過ぎ去って――海天季三十五日、コルヴス・パーク北部の開放劇場。前々からこの日を
楽しみにしていた者達、突然振って湧いた人だかりに「何事か」と興味津々の者達が、観客席を埋め尽くしていた。
 レナとハルカ、カイトにフォート。休日を貰ってここに来る事が出来た使用人たち、メンバー達のファンや追っかけ。新たな『風の使
徒』を期待する眼差しが、ステージでスタンバイを終えようとしている四人に集まっている。

 「――――」
 壇上にて、すぅ――と小さく深呼吸を一つ。背筋をくいと伸ばすマナの前に、遮る物は何も無い。ライブハウスでなら使うであろうマ
イクも無い。
 だが、ちらりと周囲に眼を向ければ、すぐ傍らに『風の使徒』メンバーがいてくれている。
 新たなステージ上で、新たな気持ちで。今までに培った経験を踏み台にして、大きく一歩飛び出すように――彼女は、歌を歌い始めた。

 それまであった不可視の殻を破るかのように、声はひたすら、遠く、高く。風と絆に支えられて、どこまでも、どこまでも――


――幕間三・了





 



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