―Sky Clouder―




〈4〉

 「――シプセルス、離陸許可を確認。発進して下さい」
 「了解。いくぞ、シプセルス――テイク、オフ!」
 海天季二十五日、午前九時二十分。数多の白雲に僅かな青空の切れ目、と『白晴』の天候であるラムーニア上空に、
白と蒼を基調にした一機の飛雲機が踊り行く。何時もならばこのまま雲取り場へと突っ込み、マテリアル採取を行う
のが常々の日課であるのだが、今日に限っては高度をある程度低めに取って速度を調節し、じっと息を潜めるかのよ
うにして勝負の相手を待っていた。
 『――――』
 カイトはシプセルスの席上で、そしてハルカは、ラムーニア市街のクラウダーギルド内にある小部屋で貸与専用の
ナビコンを前にして、それぞれの口を真一文字に結ぶ。以前、かの天才クラウダー夫妻がルーセスの街に来ていた折、
ナビパートナーのレドゥア=ラバルクはラップトップ型の最新型ナビコンを持っていたが、生憎と新米二人には高嶺
の花の代物。些細な勝手の違いはどうあっても出てしまうが、今まで培った経験を生かして順応する他無い。
 『…………』
 沈黙は年若き二人のみならず、地上で今しがた息子と飛雲機を送り出したレーヴェス夫妻をも包み込んでいた。飛
び立っていった機影は既に豆粒程の小ささにまで縮み、雲に塗れて既に見えない。だがそれでも、ジンクとフレアは
空の一点にじっと視線を定め、言葉にならぬ想いを、そして願いを馳せる。
 雲取り勝負を受けてから今日を迎えるまでの五日間、カイト達はひたすらにシプセルスを操り続け、久方ぶりに飛
ぶ故郷の空へ少しでも順応しようと努めていた。クラウダーとしての意地、プライド、託された思いと責任――それ
に応えようと足掻いたこの日にちは、どれだけ短かろうと決して無駄にはならない筈。考えられる限り、出来る事は
やった――我が子らの勝利を願い、私たちはここで、その帰りをじっと待ち続ける……!

 「……っ!」
 カイト、と耳に馴染んだ少女の叫びは、続く言葉を聴かずともそこに込められた意味が分かる。操縦席のキャノピ
ーガラスをすり抜けて感じ取れるくらい、周囲を流れる大気にざわざわと急激な波が立ち始めていた。
 「後方12、斜め下から来る! カウント3で脇をかすめるよ!」
 ナビの言葉に呼応して、無意識のうちにカイトは胸中で一、二、三と鼓動を刻んでいた。刹那、何者かの存在を明
示してぶわりと空気が膨れ上がり、シプセルスのバランスを僅かに傾けさせ――
 「――これが」
 纏わり付く雲を文字通り切り裂いて、姿を現す相手方の飛雲機。艶のある漆黒を縫ったボディ、その周囲には眩い
イエローのラインが鋭角的な曲線を描いて刻まれている。カイトの瞳に入り込んで来たその機体は、瞬く間に彼の心
へ鮮烈な印象を刻み付け……「雲を裂く雷」と、事前に教えられた異名を思い返させて行く。
 シプセルスに似た長鼻(ロングノーズ)と、その先端で勢い良く旋回する二門プロペラ。前方のエンジンを包むボ
ディは両端に排気口を備え、両側に広がる一対の単葉翼はそれぞれの中心付近がやや複雑な上下湾曲を描き出してい
た。
 「今――見えてる、カイト?」
 「ああ。あれが……ナルティアルの『フィラエナ』」

 「……そろそろ、上空(うえ)でかち合ってる頃だね」
 レナの推測に対するフォートの返答は、首を縦に振るのみだった。
 クラウダーギルドの待ち合い室、その傍らに設けられた長椅子の一角に腰を掛け、弟子の心配をする師匠二人。彫
像よろしくその場に固まるお互いの顔には、拭えぬ不安のざわめきが張り付いていた。
 何かあったら必ず、即刻で連絡を寄越す事――そんな心配の言葉を妹の背中に投げかけて、気付けば既に二十分以
上を刻んでいた。フォートに倣って励ましの言葉にしておくべきだったか、とレナは小さな後悔を胸中に灯す。
 彼女が視線だけをちらと動かすと、先程ハルカが入って行った部屋……「Free Navigate Room」の表札が扉の
上で鈍い銅の輝きを放っていた。過去の思い出を脳裏に巡らせ、呟きを口に出すレナ。
 「狭いんだよな、あの中。ナビコンのデスク一つに椅子一つ、そこにナビ一人が入ったら、後は四方が分厚い防音
壁だ」
 「大部屋を幾つかに区切って、そのスペース内にナビコンと椅子を放り込んでいる感じだからね。……何時もと違
う環境だけど、二人の力が発揮される事を祈るばかりだ」
 「――うん」
 頷く一方、レナの視線は壁掛け時計へと移る。現在時刻は九時二十六分、雲取り勝負が始まるまで後四分。勝敗が
決定する二時間後、ハルカがナビルームより姿を現したら笑顔で迎えてやろう――心にそう決める彼女は、一つ小さ
く息を吐いて椅子上で姿勢を正した。
 片や、フォートも。己を慕ってくれる弟子たちの近くにいてやれない、そんなやるせなさを歯噛みに押し隠す。も
しもまだどこかの空にいるのならば、どうか自分たちに代わって二人を見守っていて欲しい……今や雲上の存在であ
る自らの両親やかつての同胞たちに、彼は胸中でそんな言葉を投げかけていた。

 ――そして。九時三十分、ジャスト。
 「三、二、一、――スタート!」
 ハルカの宣言に、身体は素早い反応を見せてくれた。起動ブーストに点火したシプセルスは駆動音を唸らせるや、
マテリアル採取に適した速度へと到達。蒼色の飛沫を後方に引いて、白い海の中を駆け抜けて行く。
 「カウント5で方向4、速度そのまま2―1―5! 時間はあまり多くない、近場から攻めて行こう!」
 「了解!」
 ナビゲートに従い、方向を調整したシプセルスは細長い機首を最寄りの雲取り場へと向ける。ラムーニアの上空は
ルーセスのそれに比べてマテリアルの量と規模がいささか少なく、ゆえにうかつな取りこぼしは許されない。十一時
三十分までの二時間で、マテリアルをより多く採取したほうが勝者――この他に条件が無いのであれば、尚更の事で
ある。
 「奴は――何処だ? こっちからじゃ確認出来ない」
 「近場にあった別の雲取り場に入っていくみたい。今日のマテリアルの発生状況から見て……真っ向勝負は、早い
うちになると思う」
 「分かった。向こうに動きがあったら、すぐに頼む」
 言葉を切った直後、カイトの視界が白から蒼へと塗りたくられ、飛雲機の雲取り場突入を告げた。場の広さランク
は中の下、自分の他に飛んでいる機体はおよそ十。切り込んでいかなければ、効率の良い採取は見込めない状況であ
る。
 「――っ!」
 奥歯をかみ締め、カイトはスロットルを叩き込んだ。

 「…………」
 同じ頃。ジンクやフレア、レナやフォートと同じく、地上から年若き二人に思いを馳せる老人が、邸宅の二階バル
コニーで専用の椅子に腰掛けていた。
 「――先程から、随分と屋敷の中が浮ついておるの」
 「恐らく皆、空の事が気になっているのでしょう。今日が勝負の日である、という話は、既に屋敷内の誰もが知る
所ですから」
 ヴォルトと会話を交わすのは、彼の傍に直立不動で控えている丸眼鏡のメイドである。後ろで束ねた長髪に乱れは
無く、その下で保たれている静かな面持ちは、マーナフの所作を凌駕して板に付いている。彼女――シルト=キュエ
リアが『婦長』と畏敬の念を持って呼ばれる、数限りなく有りき所以の一つだった。
 「まあ――気持ちは分からんでもないが、急な来客を迎えんとも限らん。今一度、気を引き締め直しておくよう頼
むぞ」
 承知いたしました、と頭を下げるシルトのお辞儀は、定規で測ったかの如く正確に四十五度の角度を保っていた。
そんな所作は彼女に取って何の変哲も無いものなのだろう、ヴォルトの視線はほとんど動かず白い空に吸い込まれて
おり、
 「――む」
 皺を数多刻んだ顔の上で、片の眉がぴくりと震える。老いて尚眼鏡を必要としないその眼は、広大な白面の一角に
不自然なざわめきを見て取るのだった。

 「ブレイクしたって!?」
 「小規模だけど、間違いない! あの飛雲機、一体何を……!?」
 十時五分。勝負開始から三十五分が経過し、機内のマテリアル採取量は六五stに達している。そんな中、カイト
は通信を通して「フィラエナのいた区域で小さな雲崩れが起こった」とハルカからの報告を聞いていた。
 「奴の位置は!?」
 「……正面、斜め上! 目の前の雲取り場に入って来るよ!」
 フィラエナのクラウダーもこちらの位置には気付いている筈――ここで真っ向勝負か、と、二人は続けざまに緊張
の唾をごくりと飲み込む。
 「雲取り場に突っ込む!」
 「他の雲取り場――サーチとマーキング、OK! 遠慮なく、目の前のマテリアルに集中して!」
 一つの雲取り場から別の雲取り場へと移動する間、当然ながら雲の中を突き進む事でキャノピー越しの視界はほと
んどが白一色に覆われる。その色が再び蒼に取って代わると言う事は――言うなれば、雲の通路が終了し、雲取り場
間の移動が終わった証。
 そして、ほぼ同時。マテリアルの光を受けて、その蒼に彩られている雲取り場の外枠が勢い良く突き破られ――黒
と黄のカラーを備える飛雲機が、同じ舞台へと出現する。
 「――――」
 「カイト?」
 両の機体はほぼ同時に舵を切り、その身をマテリアルの群中へと躍らせる。その様子がナビコンの三次元モニター
に映し出される最中、通信機の向こうから聞こえて来たカイトの声――いや、息を呑む音に、ハルカは妙な感覚を刺
激された。
 「――っ、ごめん。けど、なんだあれ――」
 「え、ちょ、何? お願い、視認した情報はすぐに伝え、」
 ハルカの声はそこで一旦途切れ、それから一秒が経つか否かという時間を経て「カイト!」と相方の名を呼ぶ叫び
に変化し、狭苦しい空間の壁に跳ね返る。
 彼女の眼前で、モニターは雲中の正確な情報を提示し続けている。だがそれは所詮、数種類のマーカーとマテリア
ル状態、それらを包んだ斜め見下ろし形の空間を示す以上のものではない。ゆえに、状況の詳細はクラウダーとの連
携が無ければ、一概に知り得ないのである。
 今のハルカはまさにその状態。どうしてシプセルスが、フィラエナとニアミスした瞬間に機体バランスを大きく崩
し、進む筈だった採取コースを外れてしまったのか。混乱の中、彼女は再び「カイト!」と通信機に叫びを叩き付け
る。そのまま待つ事数秒、耳に馴染んだクラウダーの声は、通信機の向こうで呻きになって聞こえて来た。
 「う……、――って〜、くそ、もろに頭ぶつけちまった……」
 「! カイト、無事!?」
 「ああ……すまないハルカ、反応遅れた。あのフィラエナが雲取り場に入って来た時、『尾』が変な形で引かれて
いて……気付けばニアミス、すれ違った瞬間に飛行を乱されたんだ」
 「変な形? 乱された……? カイト、それって」
 シプセルスの操縦席にて、ぶん、と二度三度頭を振り、滲み出た涙ごと鈍い頭痛を取り払うカイト。操縦桿を改め
て握りなおし、前を見据えた少年は、そのままの状態で通信機に言葉を向ける。
 「無闇に近付いたら危険だ。あの機体……空の気流を『壊して』飛んでいるぞ」

 「――『壊す』――とは、いささか物騒な物言いですね。私どもがフィラエナをもって目指すは『大気の流れに抗
う』事。新たな翼を、これまで未開、不可侵と言われて来たエリアにて、大きく羽ばたかせたいと考えております」
 同時刻、ナルティアル・カンパニー本社応接室。フーレの口から放たれた弁舌は、「自ら空の規律を壊そうとでも
言うの」というローラの意見に続こうとしたダインの喉へ、ぴしゃりと分厚い蓋を押し付けていた。
 「セルナスと言う雲に覆われた星の中で、人は歴史を紡ぎ、己の世界を知り、より良く生きる為に数多の術を編み
出し、かくて空晶採取の機械翼を手に入れるに至った。そうして今年、C.R二六〇年を迎える――空を往く為。長
い時の中で磨き上げてきた翼にも、そろそろ方向転換があって良い頃合です」
 「その為の、雲裂く雷――という事か」
 心の中で、ささくれ立った動揺がざらりとした不安を創り出し始めている。それを気取らるれまいとダインは髭の
奥に表情を隠しつつ、眼前の長机にばら撒かれた写真と資料を再び読み通していた。
 「…………」
 ジンクがフーレに電話をかけ、勝負を正式に取り付けてからの五日間で、ダインとローラはギルド間を筆頭に八面
六臂の立ち回りを行っていた。
 ナルティアルに関しての詳しい調査は勿論、彼らがこれまで接触を行った企業、団体、人物などを調べ、接触し、
時には手を差し伸べて、急ごしらえながらも同志を募って行った。オルザリス国内での有力貴族が一つ、ベルンスト
が当主自ら動いている、と言う肩書きも効いたらしく、その成果は上々。もっとも「強引ではあるが野心と力強さを
感じられ、決して口だけではないと思わされる」など、ナルティアルの関与に肯定を示す意見も決して少ないわけで
なかった――それもまた、一つの事実である。
 数多の意見を考慮した結果、件の勝負は「ナルティアルの飛雲機が勝利すれば、ジンクやフレアを始め、提示され
ていた要求を呑む。シプセルスが勝利すれば、『ナルティアルはクラウダーギルドとの相互協力を確約し、飛雲機発
展の為に歩み合う』事を誓約させる」という形に落ち着く。
 深謀の知恵を持った猛獣をただ力のみで遠ざけても、結果としてそれは、相手にさらなる力を蓄えさせる危険性を
孕む。ならば今の内に味方として引き入れ、後々の行動を見ていく方が賢い――ダインを初めとした有力者らにそう
決定付けさせるだけの魅力と危険性を、ナルティアル・カンパニーの飛雲機部門は新参にして既に持ち得ていたので
ある。
 今回の一手で、獣から引き抜くべき力を見極める必要がある。牙か爪か、はたまたそれらを動かす脳か――そんな
思いを抱いてナルティアル本社の扉を叩いたダインとローラは、こうして今応接室に通され、そしてフーレと顔を合
わせている。
 「――――」
 シプセルスの情報だけを知られているのは不公平だ、という各所からの声に、彼女はすぐさまナルティアルが創り
上げた飛雲機の資料を開示した。故に『フィラエナ』と言う名前やその形状、機体特徴も分かっていたのだが――今
現在、二人の前に広げられているデータの膨大さは、それらが単なる氷山の一角だった事を明示している。
 どうして隠していたのか、と彼女を問い詰めたい衝動にかられるが「この分はレーヴェス家で私が出していたシプ
セルスの情報と同価値――つまり、あくまで『公平』に開示したまでです」とでも返されるのが関の山だろう。貴方
がたの力をもってすればさらなる調べも可能だったでしょうに、と付け加えられる可能性も高い。
 「今になって、だけど……貴方がどうしてシプセルスを『道楽品』と呼んだか、分かって来たように思えます。フ
ィラエナとは、つまり――」
 夫と同じくデータに眼を通し、時折手に取りながら呟くローラ。
 「――ええ。我がフィラエナと、シプセルス――両機の基本ラインには、結果論とは言え、多少なりとも似通った
構造とテーマが存在しています。『新たなる空』を呼び込む可能性こそ、両機に共通しているもの……行使されるべ
きの、力です」
 だと言うのに――そう続けるフーレの表情に、険しさと厳しさがじわじわと付加されてゆく。
 「『空飛ぶ魚(シプセルス)』の翼は結局空の表面を撫でさするだけで、当時のクラウダーやギルドを騒がせるのみ
に留まる。そして今をもってすら、単に一機の変り種な飛雲機として、其処に在るのみではないですか。あの力を上
手く使っていれば、それこそ飛雲機と飛行機の世界に変革を呼び込む事すら出来ると言うのに――当時、蚊帳の外で
どれほど私たちが歯痒さに身を軋ませていたか、言葉だけの説明では恐らく分かっていただけないでしょう」
 否定はしない。ある意味、飛雲機と飛行機の狭間に生みだされたと言えるシプセルスに、ナルティアル側が『両部
門間の橋渡しと相互活性、それに伴う利益』を期待していた事は容易に推し量れる。その思いを裏切られたと痛感し
た時、彼らの落胆と憤懣は如何ほどであったか。「所詮、勝手に皮算用を行っただけではないか」と、今になって揶
揄するのみなら簡単な事だが――
 「故に、私たちはこれまで培った新世代の力を用い、今在る定められた空への明確な対抗を表明します。だからこ
その『フィラエナ』――そして、それに備わる機構『ストリーム』です」
 『…………』

 空に抗う――フィラエナの定義を地上でフーレが口にし、ダインやローラと話し合っていた頃。当の黒い翼は彼女
の言葉を体現するかの如く、遥か上空の雲取り場にて比類無きフライトを行い続けていた。
 「――っ!?」
 カイトのみならず、その雲取り場にいたクラウダー達が一斉に瞠目する。言葉を失う者、「無茶苦茶だ」と喚く者、
自分の目を疑う者……彼らの視界の中に等しく、フィラエナの軌道とその只中で確実に減って行くマテリアルが映り
込んでいた。
 仮にその軌跡を辿って一本の線を引いた場合、それは雲取り場の外枠ぎりぎりにまで及び――そして、いとも容易
く突き破ってしまう。普通の飛雲機ならば、機体に纏わり付く大量の水蒸気と視界ゼロの状態が合わさって、幾らナ
ビの助力があろうとも単に速度任せで突っ切って行くだけの場所――そんな所を、フィラエナはまるで雲取り場と変
わらぬかのように飛行し、そしてまた雲を突き破って雲取り場へ入り、マテリアルへと向かって行く。この時、先程
カイトが『変な形』と形容した極端な雲のたなびきが、黒翼を追いかけるが如くその後方に生み出されていた。
 雲取り場の内に渦巻く気流と、その外側や雲の隙間を走り抜ける気流。内と外の流れは両者の狭間に壁を生み出し、
飛雲機はそれに沿って雲取りを行うのがセオリー。だが、フィラエナの動きは、それに真っ向から衝突し、抗い、そ
して破り抜けている。湾曲した翼による抵抗の減少と双発プロペラを勢い良く回すエンジンの強さ、二つの要素が過
不足無く融合してこその飛行だった。
 「――好き勝手、暴れ回ってやがる……」
 好きになれない飛び方だ、とカイトは歯を軋ませ、苦虫を噛み潰す。力強い飛雲機である事は認めるし、そんな力
を振り回している乗り手の腕も相当だろう。だが、自分が知る限りのクラウダーだったら、あんな粗い飛び方は普通
しない。何より――
 「――くっ!」
 操縦桿を捻った刹那、キャノピーをがたがたと風圧が揺らす。フィラエナの飛行コースを追いかける形で、湾曲翼
が大気を激しく攪拌し、乱雑に予測外の風を散らばせているのだ。
 他の飛雲機たちも大なり小なりその力――『ストリーム(奔流)』の影響を受けていた。結果、フィラエナが力づ
くで他者を押し退け、採取される筈のマテリアルを横から掻っ攫う形になっている。一概にその飛行を「否」と断じ
る事は出来ないが……それにしても、あれが果たして、真っ当な飛雲機乗りのやり方なのか。
 「空賊じゃあるまいし……ったく」
 カイトの苦い呟き。と、刹那、その耳にハルカの悲鳴じみた声が突き刺さる。
 「カイト、まずいよ! フィラエナの飛び方が、雲取り場の均衡を……!」
 雲を散らし、気流を乱し、風を起こして暴れ馬の如き飛行を続けるフィラエナ。空中に浮かんでいるマテリアルに
しても、その影響から逃れられる事など有りはせず、あちらこちらへと忙しなく動き回った結果――場のバランスは
崩壊し、雲崩れ(クラウド・ブレイク)を呼び込む事になってしまう。
 「いけない、崩れる!」
 「くそぉ――元凶は、手前かぁっ!」
 雲取り場の規模がそれほど大きいものでなく、加えて均衡の破れ方がじわじわと迫って来るものだった為、その場
にいた全ての飛雲機に逃げ出す時間の猶予はあった。だがそもそも、こういった事態を起こしてしまうようなクラウ
ダーは「恥ずべき存在」とみなされ、同業者たちから負の感情に塗れた視線を浴びるのが常である。
 カイトもまた、その例外ではない。マテリアル採取は自分達の生活に直接関わるものであり、クラウダーのステー
タスにおいて重要な項目の一つ。ふつふつと湧き上がる怒りのままに、フィラエナの飛び去った方向めがけて喉の奥
より叫びをぶちまけていた。
 「あの野郎――ナルティアルの連中め、どこの馬鹿を引っ張って来て、あんな飛雲機に乗せたんだ……!」
 操縦桿を引き上げ、まるで洪水よろしく雲取り場に流れ込んで来る白色の波を直下に、シプセルスはぐんぐんと高
度を上げて行く。
 「カイト――何処へ行くつもり?」
 「決まっているだろ、そんなの! このまま上がって――」
 「フィラエナを追おうって言うの? どうして、何の為に?」
 聞くまでもないだろ、とカイトは通信機に叫ぼうとする。だがその直前、「どうして」というハルカの問いかけに
対して、少年の心情は何一つ明確な答えを見出せない事に思い至っていた。途端、叫びは喉の直前にて押し留められ、
怒りで煮え上がった精神が急速に冷えて行く。
 「――あ――、俺……」
 「カイト。怒る気持ちは、私も凄く良く分かる。あのクラウダーに一体どんなナビが付いているんだろう、って思
うだけで、私も頭に血が昇る」
 そんなハルカの通信は、語る内容と対照的に酷く事務的な、淡々とした調子である。だが、息継ぎの合間に差し込
まれる声の震えなどが、彼女の声無き鋭い怒りを雄弁に物語っていた。
 「負けたくない、勝ちたい。この空を明け渡したくない、あんな翼に好き放題なんかさせたくない。……その為に、
私たちはどうする? カイト、私たちはどうしたら良い?」
 「……、……冷静に、相手を見る。自分を省みる。落ち着くまで深呼吸したら、頭を回して的確な考えを導き出す
……」
 「――だね。じゃあ、何回か深呼吸」
 肩を上下させ、動作に合わせて息を吸い、吐く。繰り返す過程で、カイトの息とハルカの息が同じタイミングへと
合わさって行く。数回繰り返した頃、二人の頭に昇っていた無用な熱はすっかり冷めあがり、心拍も平常値へと戻っ
ていた。
 「……現状を説明するね。今は午前十時四十五分、残り時間は四十五分。シプセルスのマテリアルは一一〇st、
フィラエナは一三四st。雲崩れがあったから、思ったほど差は空いていないよ」
 「……雲取り場は、他に何処が?」
 「近いところだと、西北西44と南西12。フィラエナは後者に向かっているみたいだけど……場の規模は前者の
方が上。シプセルスの最大速度に『ウィング』を合わせて突っ込めば、計算では向こうの採取量を上回れる」
 「ごく短距離での使用、か――了解、備えておくからタイミングを教えてくれ。……有り難うハルカ、抑えてくれ
て」
 「うん――ほんと言うと、カイトが先に怒り始めていたから、こっちがタイミング逃してただけなんだ。まあ、そ
れで私が冷静になれたのも事実だけどね。……カイト、どうせ怒るんだったら、熱を上げるだけじゃ駄目。シプセル
スを動かす力に変えちゃおう」
 「そうだよな――クラウダーたるもの、翼と雲取りで自分を語れなきゃ失格だ。改めて頼むぜ、ナビパートナー」
 「うん、頼まれました――これからも、絶対に支え続けるからね」
 そして二人は、再び前を見据える。ハルカが情報を取捨選択し、伝え、カイトがそれに応えてシプセルスを動かし
ていく。挙動のあちらこちらにいまだ拙さや未熟さを見せながらも、そこにはクラウダーとして、ナビとして、有る
べき一つの形が確かに存在していた。

 一秒一秒確実に、刻々と時は重ねられ――午前十一時十五分。残り時間が後十五分というところで、シプセルスと
フィラエナは揃ったように、再び同じ雲取り場へと突っ込んで行った。
 「シプセルスが二〇九st、フィラエナが二〇〇st……! 気を抜けばすぐに追い抜かれるよ!」
 「分かってる! どのみち、この雲取り場で勝負は決まりだ!」
 形成されて間もない事と、気付けばラムーニアより大分距離が離れてしまった事が相俟って、この雲取り場内を飛
んでいるのはシプセルスとフィラエナの二機のみ。故に、両機の操縦席より相手の動きもはっきりと見えるのだが―
―カイトの視界に映り込む黒色黄線の機体は、何時しかあの雲崩れを引き起こした操縦の面影をろくに感じさせない
ような軌道となって、中空に乱流の線を引いていた。ごく短時間のうちに己が欠点と飛雲機の性能をきちんと把握し、
的確に修正を加えて行ったのだろうが、それにしても並の早さでは無い。
 「――――」
 本当に、一体どんな奴があの機体を操っているのだろうか。胸中の呟きに込められたカイトの心情には、相手の力
を認めた事による、誤魔化しようのない驚嘆が在った。
 そんなフィラエナが、自ら創り上げた気流の渦に翼を躍らせ、その勢いを付けて急激にコーナリング。十度前後の
持ち上がり傾斜を保ったまま、斜め下よりシプセルスの鼻面めがけて突っ込んで来た。
 「あいつ――」
 「カイト、機首を!」
 ハルカのナビと同時、操縦桿を握った手が動いていた。フィラエナの狙いは、気流の乱れで生じる風にシプセルス
の翼を巻き込む事。喰らい方によっては、速度と狙いが大きく殺されてしまう。考えられる対策としては二つ――一
刻も早く逃げるか、速度重視の性能を信じて乱流を切り抜けるか。二人の選択は、後者だった。
 「負けるな、突き抜けろっ!」
 機首を僅かに下げ、フィラエナとほぼ真正面から向かい合う形を取って、シプセルスがブーストを点火。距離の縮
まり方が一瞬なら、交差もほんの一瞬――シプセルスの後方から噴出した青色の飛沫が、上下真二つに切り裂かれた
奔流へと巻き込まれ、四方八方へと飛び散らばって姿を消していった。
 「速度は――少し落ちたけど、許容範囲! フィラエナはきっとまた仕掛けてくるよ、油断しないで!」
 「了解っ!」
 ハルカの予測に違わず、それから短い時間の中で、シプセルスとフィラエナは幾度も幾度も様々な方向より近接し、
ニアミス交差を繰り返す事となる。真正面からであれば前述の結果とも成り得るが、突入の度、微妙に傾斜角度や速
度を変更していくフィラエナに、シプセルスが対応しきれなかった事もしばしば。コースを乱されつつもカイトは操
縦桿をへし折ろうかという勢いで曲げ、危ういながらも機体のコントロールを保ち続けていた。
 お互いが交錯する瞬間に放たれるエネルギーは、さながら爆弾の如くびりびりと轟音を響かせ、雲取り場全体を引
っ切り無しに震わせる。その只中で、少しずつ、だか確実に減ってゆく残り時間。両機のマテリアル採取量は今まで
と同じく拮抗が続いているが、現在の雲取り場に残っている採取可能なマテリアル量も、残すところあと僅かになっ
ていた。タイムリミットまで――残り、二〇〇秒。
 「カイト!」
 ハルカの叫びに耳朶を打たれ、反射的にフィラエナへと視線を送るカイト。彼の視界に映った黒色の飛雲機はそこ
で、もはや何度目か分からぬ外枠ぎりぎりまで膨らんだ飛行コースを取り続けている。挙動だけを見れば、その動き
は今までの反復とも言えるものだが、
 「――速い」
 コーナリングの途中でありながらも、フィラエナの速度が一向に落ちない。こちらとのぶつかり合いを経る過程で、
さらに細かな部分まで機体の癖を把握し、コントロール可能なぎりぎりの領域まで踏みこもうとしている。ぞわり、
と全身に走る戦慄の鳥肌を知覚して、カイトは操縦桿を握る手に力を込めた。
 「来るよ! シプセルスの斜め下五〇度後方、少しだけ残ったマテリアルを狙ってる!」
 「ああ、まとめて吹っ飛ばす積もりなんだろうな。……けど、こっちも当たりを付けた!」
 フィラエナ、シプセルス、そして勝敗を左右する程度の採取可能マテリアル群――全てを一つの直線に結ぶ位置に、
起点となる黒翼が後僅かで至ろうとしている。牙を剥き、爪を突き立て、急所を食い破ろうとする一匹の獣が、獲物
に飛び掛るその瞬間を待ち受けている。
 しかしそれは、シプセルスにもまた言える事。カイトの視界は、前述の直線を突き破り、叩き壊した先――フィラ
エナの軌跡を越えた所に散在しているマテリアル群に吸い寄せられていた。乱流の中を通り抜け、その上で逃さず採
取に成功出来れば、勝負は確実に決まる。
 「奴もこれで決めにくる――ハルカ、今の状態から『ウィング』を何処まで使い続けられるか、計算できるか?」
 「採取量と差し引きして、なおかつ勝てるタイミング――ね。今やっているけど、かなりぎりぎりになると思うよ」
 「一stでも上回れば構わない。そこからは、俺がどれだけ巧く動かせるか――だ」
 「うん、そっちは信じてる。……良し、何とか計算終わり! 向こうも動き出すよ!」
 見ると、フィラエナの旋回が今まさに終了しようとしていた。機体がぐらりと小さく傾き、慣性によってローリン
グを行うや、その軌道は緩やかな曲線から鋭い直線へと見る間に変化して行く。
 複雑な湾曲によって巻き起こる奔流は、増幅される速度と先程の回転に伴ってより一層強く、激しく。その真後ろ
にあった雲の壁が一際大きな揺らめきを見せ、凹凸を形作り――そして、ささくれ立つ壁の隅から伸びた一筋の白色
が、長い尾を引いて乱流の只中へと吸い込まれ始める。
 「…………!」
 息を呑むカイト。吸い込まれた筋を起点とし、フィラエナの軌道を追いかけるようにして、次から次へと雲が巻き
込まれ――それはあたかも、雲取り場の蒼を引き裂く白い竜巻となって、黒い翼を先頭に、シプセルスへと襲い掛か
って行った。
 「頼むぞ、ハルカ……!」
 迫力に呑まれかける。眼前の現象が偶然か否かはともかく、竜巻が起きるほどの奔流をまともに喰らえば、本当に
吹っ飛ばされてしまう可能性が高い。鼓膜と手元の神経を研ぎ澄ませて、カイトはパートナーの指示をじっと待つ。
 「……カウント、7! 6! 5、4、3――」
 奔流を引き連れ、フィラエナが迫る。あと少し近付けば、相手の操縦席すら目視出来る距離へと至る。カタカタと
キャノピーに振動が走り、緊張と恐怖を煽る。
 だが――そんなものに、構ってはいられない。今この瞬間、抱く思いは只一つ。ナビを信じ、自分の力を信じ、そ
の先にある勝利を、信じる……!
 「2、1、――Go!」
 「『ウィング』――展開っっ!」
 叫ぶと同時、カイトは握っていた操縦席側面のレバーを渾身の勢いで奥へと押し、一気にスライドさせた。
 機械仕掛けの飛び魚が覚醒を始め、二段目の不可視翼に命の火を灯す。双翼の両端からマテリアルのエネルギーが
凄まじい力を伴って噴出し、蒼色の輝きを放つ光の翼を其処に出現させていた。
 「――ぐ――ぅ!」
 「残量カウント、7! ゼロになった瞬間にカット、くれぐれも忘れないで!」
 瞬間的なGによって体内の血流が動きを見出し、凄まじい力でシートに押し付けられた事と加わって、視界の中を
ぐらぐらとさざ波が走る。息を整える事すらも意識の脇へと追いやって、カイトは通信機から聞こえて来るカウント
だけに耳を澄ませた。
 「5――、」
 ――眩い輝きの蒼銀と、白い渦の黒黄。二つの翼が刹那を待たず雲取り場の中空を走り、接近し、距離を詰め、―
―交差する。
 「4――、」
 シプセルスを覆い尽くす風は、文字通り渦を巻いて荒れ狂う白色の奔流。操縦席が丸ごと吹っ飛んでしまいそうな
振動と内外問わず耳朶を打つ轟音の中、カイトは集中の度合いをさらに高めてナビの声を必死で拾う。
 「2――、」
 翼が、機体が悲鳴を上げる。耐えてくれ、頑張ってくれと若きクラウダーは願いを繰り返しながら、『ウィング』
のエネルギーを切断する準備に入った。
 もしこれで、設定コースのずれが出ていたら。速度が予想以上に落ち、竜巻に呑み込まれでもしたら――放ってお
けば止め処なく湧き上がる不安を振り払い、自らもナビの声に合わせてカウントを行い始めるカイト。
 ――そして。
 「――1――、――Cut!」
 「っ!」

 それは、時間にして一秒強を数える程度の、ごくごく短時間の出来事だった。シプセルスとフィラエナが一メート
ルに満たない隙間を開けて、共に背面飛行でニアミスした直後、今度は『ウィング』の光翼が『ストリーム』の竜巻
と接触したのである。
 両者の放つエネルギーは、共に他の飛雲機すら押し退けてしまえる程の強力なもの。その二つがまともに激突し合
った事で、雲取り場の中は大型爆弾の破裂が如く大気が震え、瞬間、文字通りの爆音に覆い尽くされた。
 白の竜巻に食い込む蒼き刃は、奔流の勢いを強烈に受けて一瞬動きを止めてしまう。もしもそこで、機体を揺るが
し続ける振動にカイトが躊躇を感じていれば、フィラエナの勝利は確定していたであろうが――しかし、次の瞬間。
一枚の巨刃となったシプセルスは一気にその身を押し進め、竜巻の芯を突き破り、そして……白渦をその下側から斜
め上側へと、逆袈裟に切り裂いていった。
 外部からの干渉によって、ただでさえ危うかった均衡を急激に、著しく乱される奔流。エネルギーの開放される先
を求めて暴れまわる風は、両機のぶつかり合いが生み出していた大気の振動に乗って、シプセルスとフィラエナへそ
れぞれ向かって行く。
 その時――シプセルスの『ウィング』、残りカウントは、一。瞬間的とは言え、数多の飛雲機に勝る速度を叩き出
していた翼は――乱流の欠片に翼端を絡め取られ、ガクリと速度を落として行くフィラエナを下目に、スピードとコ
ースを保ったまま上昇を継続していた。襲い来る気流の牙を振り払い、蒼く輝く勝利へと向かって真っ直ぐ突き進ん
でいったのである。

 ――雲取り時間、終了。
 シプセルスのマテリアル採取量、二五九st。フィラエナの採取量……二五一st。終盤にて、意図せぬ態勢の立
て直しを余儀なくされ、数秒のタイムロスに見舞われたフィラエナが、九st程度のマテリアルを取りこぼした――
その、結果だった。

〈5〉

 ぎぅ、と車輪の摩擦音が甲高い音を立て、滑走路に敷き詰められたアスファルトへと吸い込まれて行く。
 「…………」
 管制塔からの指示に従って機体を動かし、所定位置へ。車輪の動きを止め、速度ゼロの状態となったシプセルスの
席上で、カイトはふぅと大きく息を吐く。
 「――最後――締まらなくなっちまったな」
 「まあ、仕方ないって……見落としていた私も悪いんだし。とりあえず、本当にお疲れ様、カイト」
 ハルカの言葉に耳を傾ける少年の視界の中、大型の貨物運搬艇『シルラス』がゆっくりと地面に足を着け、その内
に載せた荷物を降ろす為、所定位置へと移動していく。
 ラムーニア中央空港、第十一滑走路――それが、今現在シプセルスを迎え入れている場所の名であった。
 勝負の終了とその結果をハルカと確認し合い、喜びもそこそこにシプセルスを帰路の途へと付かせていたカイトだ
ったが、クラウダー・セクション上空の近くまでやって来た時に、『他の飛雲機が重複して離着陸を行っている為、少
しの間滑走路へ入れない』と言う、思わぬハプニングに見舞われる事となった。
 それでも普段であれば、滑走路に空きが出るまで上空で待機するだけの事……だったのだが。今回の雲取り勝負に
よって予想以上に著しく減少していたEマテリアルはその猶予をどうにも与えてくれそうになく、空と地上の両地点
にて二人は頭を抱えてしまう。
 他の滑走路にシプセルスを降ろす事を許可してもらえないか、ギルドに釈明してみる――と、席を立ちかけたハル
カを押し留めたのは、カイトの「付いて、来い――?」と疑問符の付いた呟き。その時、彼の瞳に映り込んでいたの
は、速度を落として接近してきたフィラエナと……その操縦席上より、誘導の意を示す身振りを二度三度と行ってい
る、相手クラウダーの姿。何の気なしに注視してみたが、ゴーグル一体型ヘルメットに包まれた顔は生憎と判別のし
ようがない。
 先行するフィラエナ、後に続くシプセルス。両機はやがて、前述の滑走路へと降り立ち――そして、今の状態に至
る。翼を休める蒼き機体のおよそ百メートル手前、黒の機体が静かな佇まいを保っていた。
 「残っているEマテリアルなら、どうにかセクションの滑走路まで飛んでいけそうだね。タイミングを見計らない
といけないし、ラムーニアの航空管制にも連絡を入れないと」
 「ああ、俺も手伝うよ――って、……あ!」
 喋りつつ周囲の様子を窺っていたカイトの視点が、瞬間、ある一点へと集約される。見間違いではないかと眼を凝
らしたのもごく僅か、「御免ハルカ、ちょっとだけ待っててくれ!」と通信機に叫んだ少年は、操縦席を開けて勢い
良く立ち上がり、そこから機体の側面を伝って路上へと降り立っていた。
 ――フィラエナの操縦席が開き、折りたたみ式の簡易梯子がそこから下へと垂らされている。それを伝って地上へ
と、あの飛雲機のパイロットが降りていた。加えてその人影は、シプセルスの方へとゆっくり歩み寄って来ているの
である。
 「――――」
 一体誰だ、どんな奴なんだ。好奇心に急き立てられ、足を速めるカイトの眼前で、人影の輪郭が徐々に明確さを強
めていく。
 濃いグレーで統一されたパイロットスーツの下、精悍さを帯びて引き締まった長身は、少年のそれを確実に超える。
ヘルメットは既に脱ぎ去っており、露わとなった頭部は墨を塗りたくったかのような艶のある黒髪。両者の距離が近
付くにつれ、少年の瞳は髪の下にあった相手の鋭い瞳を見据えるようになって――
 「……! あんた、は……!」
 「こうして直接出会うのは、ルーセスの議事堂以来だな――シプセルスの小僧。いや、カイト=レーヴェス」
 「オルザリスの――ロバート=ディフック! 貴方が、フィラエナを操っていたのか……!」
 顔を上げ、見開かれた眼が、その斜め上に在る忘れ得ぬ眼光と交差していた。以前ルーセスで起きたタンストゥー
ル騒ぎの折、数日がかりの大きな掃討作戦に参加していた青年兵士――オルザリス国空軍のシーフィアス乗りが一人、
ロバートである。
 「けど……なんで軍兵士が、飛雲機を?」
 「上からの急なお達しがあってな、一日二日程度の簡単なテスト飛行をやらされて即刻この勝負だ。――君を含め
て、クラウダー達には済まない事をした」
 「それって、雲崩しの事か?」
 「あれを起こして恥と思わぬ様では、シーフィアスに乗るどころか空に上がる資格すら有るまい。機体の慣らしに
手間取ったのは、明らかに俺の力不足だ」
 言葉に伴い、気まずそうな表情を浮かべて視線を逸らすロバート。実際に声には出ずとも、その顔が「至らぬ事を
しでかした不甲斐なさに、忸怩たる想いを味わっている」と何より雄弁に語っていた。
 しかし、とカイトは胸中に呟く。だからこそ、こちらが勝てる可能性は残っていたのだ、と。
 ルーセスで始めて顔を合わせた時は、単純に自分と心情の重なる部分のある相手という程度だったが……こうして
同じ土俵の上へと昇り、そして勝負を終えた今、彼の持つ操縦技術の高さは一目瞭然。そこに明示された力の差を、
クラウダーの少年は否応無しに直視する事となる。もしもこの勝負で、ロバートがフィラエナの操縦を完全にマスタ
ーしていたとしたら――
 「……今しがた、ルメイに連絡は付けておいた。向こう側の滑走路に戻るのならば、そちらのタイミングで好きに
飛んで貰って構わないそうだ」
 「ルメ……? ……ああ、あの人の事か」
 ロバートの投げかけて来た声に、悪寒混じりの思考を中断させて応じるカイト。ルメイ、という聞き慣れない語句
に暫し首を傾げるも、直後、それがフーレの苗字であったと思い出す。
 「フィラエナは、これからどうするんだ?」
 「もともとここに着陸の予定だった。後はナルティアルの連中に機体を渡せば、俺の任務はそれで終わる」
 「俺の――? 貴方とナビで二人一組だったんだろ、なのにまるで自分だけみたいに……」
 カイトの呟きに、今度はロバートが眉根を寄せる。暫しの沈黙を経てその意味を理解したのだろう、「ああ」と頷
きながら、青年は返答を寄越す。
 「そうか――クラウダーならば、そう考えて当然だな。……この飛雲機に、ナビはいない。飛んでいたのは実質、
俺一人だ」
 「――へ?」
 ナビがいないって、そんな馬鹿な事――と口を開きかけるカイトだったが、ロバートの話はまだ終わっておらず、
それが少年の喉を塞ぐ形を作る。
 「航空艇や旅客艇のフライトシステムを飛雲機に応用した――つまり、地上で管制を行う数多の人間が情報を集め、
それがフィラエナへと送り込まれて来る。俺はそこからデータを取捨選択して、状況に当てはめ、マテリアルを採取
していったと言うわけだ」
 この辺りはナルティアルの得意分野だよ、と続けるロバート。
 「信じがたい話だろうが、事実だ。これならば、俺達シーフィアス乗りのように、一人で空へと上がっていく事が
出来る。ナビとクラウダー、二人で一組の関係性が必要でなくなる」
 報告書でも読み上げるかのように、淡々と事実を告げるロバート。その内容を耳に入れながら、カイトはここまで
飛び出して来て良かったと心中に呟き、ごくりと一つ喉を鳴らす。クラウダーとしての性分ゆえか、それ以外の理由
なのかは不明だが――この話をハルカには聞かせたくない、彼の胸にはそのような想いが去来していた。
 「今回の勝負で集めたデータを、ナルティアルの連中がどういう形に使っていくか――まあ、想像出来ない事では
ないがな」
 「? それって、一体……」
 カイトの質疑は、しかしロバートの応答が形となる前に、突然のクラクションによって押しつぶされる事となる。
音のした方向に眼を向けてみると、そこには小型の飛行機にサイズを合わせた、一台の牽引車の姿があった。
 「どうも、行かねばならないらしい。……先程の事だが、あいつらの立場で少し考えてみれば、それほど労せずに
分かるだろう。じゃあな、レーヴェス」
 「あ、ちょっと――」
 牽引車の運転手と話をする為だろう、去っていく黒いその背中に対し、カイトは半ば無意識に声をかけ、一歩二歩
と踏み出してロバートの後を追おうとする。
 「もし時間が有ればフォートの奴に伝えておいてくれ、『身を固めるのならさっさと済ませて、勝手にやるがいい』
とな。……今日、自分が操った翼の動き……その腕を上げたければ、決して忘れるんじゃないぞ」
 「――っ」
  だが、振り返らずに投げかけられた最後の台詞は、彼の両足をそれ以上前に進ませないよう、がっちりと地に縫
い付けてしまう。受け答えの範疇外にあった、しかし何処かしらで期待していたのかもしれない言葉に、少年の胸が
緩やかな熱を帯びた。
 「…………」
 ぺこり、と頭を下げている内に、牽引車の移動を示す駆動音が響いていた。これからフィラエナを移送する準備に
入るのだろうと考え、自らもシプセルスの方へと踵を返したカイトは、すぐ後方で行われている作業をあえて見ない
ように足を踏み出す。
 「ナルティアルの、立場に、立つ……」
 歩みの中途にて思い返すのは、先程の問いかけとそれに対する回答の足がかり。今までのナルティアルの行動は―
―飛雲機部門の設立に伴う、様々な機関や会社、人物に対してのアプローチや引き抜き。そして今日の雲取り勝負で
現れたフィラエナ――ナビ不要の飛雲機――今までの関係性が、必要でなくなる。そして――
 「……って――まさ、か……」
 これまでに在った幾つもの要素を点とし、その間を幾通りかの線にて繋ぎ合わせてみるも、どうもしっくり来ない。
そんな最中、それらの点にもう一つ、『シプセルスの糾弾』という点を並べ加えてみると――おぼろげながら、決し
て高い可能性であるとは言えないながらも、確かな形を取って浮かび上がって来る一つの答えが在る。
 シプセルスの真下にまでやって来ると同時、カイトはその考えを声に出し、静かに吹いて来た一陣の風へと載せた。
 「ひょっとして……奴ら、『セカンドアンフ』を――?」

 「――本気、ですか」
 「ええ。『セカンドアンフ』の成功こそが、我々ナルティアル・カンパニーの定めし目標です。飛雲機業界に参入
を表明するからには、それだけの事をやりたいと」
 セカンドアンフ――その言葉が脳髄の中身にまで染み渡り、どきりと心臓を跳ね上げさせるまでに、数秒の時間を
要していた。
 「あのフィラエナという飛雲機が――本当に、そんな事」
 「出来ると、そう確信しています。今回の雲取り勝負を通じて、その可能性はさらに引き上げられました」
 声の調子は強く、しかし感情の起伏を根こそぎ取り去っているかのような、抑揚の無い響きだった。言葉の紡ぎ手
の傍ら、直立不動で立つフーレの顔にも、先程の話し合いにあったような表情の揺らめきは見られない。ダインとロ
ーラ、二人の心身を包み込んでいる緊張は、最早先程とは別種のものであると言えた。
 「先程――フィラエナに関しての資料に眼を通させて頂いた、テスト映像もこの眼で確認させて貰った。だが、正
直な話……幾ら、ナルティアルの社長が直に断じているとは言え、」
 「このルファッド=ナイアスという男は、世迷言を口にしているとしか思えない……直情に任せた反論は控えまし
ょう、お二方の気持ちは良く分かる」
 専用机の上にて両の手を口元で組み、男――ルファッドはダインの言葉に自ら結びを付ける。その顔に浮かぶ表情
は、さながら能面か何かの如く読み取る事が出来ない。白い肌にも頬の皺も、眼球の中にすっぽり収まる小さな瞳孔
も、この会話が始まってそよとも動いていなかった。
 「ですが――数多の飛空機械と共有が可能な航空コントロールシステム、フィラエナそのものが持ち得る基本性能
の高さ。これに、最終調整中である高い汎用性が加われば……我々ナルティアルは、セルナスの空に『セカンドアン
フ』を起こす事が出来る」
 セカンドアンフ。それは、今現在のセルナスにおいて数多有る飛雲機の原型となっている機体『アンフィプリオン』
の次世代機を意味し、同時にそれが世界の空に与えるであろう大きな影響そのものをも指す言葉である。
 考え無しにこの言葉を口にすれば、その先に待っているのは「大馬鹿者」「身の程知らず」を初めとした、数限り
ない蔑称。セルナスの空を舞う飛雲機群の始祖は、それだけセルナスのクラウダーのみならず市井の人々にとって『其
処に有って然るべき存在』と見なされているのである。
 自分達の手で次なるアンフィプリオンを生み出そう、新たな歴史を切り開いてみせるのだ――頂の見えない遥か高
き夢に挑み、そして敗北を喫していったエンジニアの数たるや、単純に「多い」というレベルを完膚なきまでに超え
る。そういった意志の灯が今現在、全て消滅してしまったわけではないだろうが、それでも甚大なるリスクとそれを
承知の覚悟を備え、自ら動き、革命に臨もうとする者は出て来る気配が無かった。誰も責めはしなかったし、それが
当然だという気風が現在のセルナスには蔓延していた。
 だが、しかし。ここで動こうとする者がいるならば――ましてやそれが、その存在自体セルナスに影響を与え続け
ている、ナルティアルであれば。或いは、と思惑を持つ者が少なからず出てきてもおかしくない。
 それを裏付ける一つの要素が、今しがた追加提示されたフィラエナの映像データ。今回の勝負で用いられた湾曲翼
の他にも、換装可能な形状の異なる幾種類もの翼が用意されており、加えてエンジンのパワー制御をより容易く行う
事が可能な機構――それこそが、フーレの口にした『ストリーム』の真なる姿。セルナスの上空そこかしこに存在し
ている、奔流の如き不可侵区域――それを文字通り突き破る為に組み上げられた、強大なる力だった。
 そもそも今回、湾曲翼タイプが用いられた意味からして『製作実験機の中で、最も負荷とパワーが高く、扱いにく
い組み合わせ』のテストを兼ねた、一種のデモンストレーションと言うべきもの。テスト飛行を含めたロバート――
実績のあるシーフィアス乗りが見せた巧みな操縦は、企業側にとって充分すぎるほどの効果を上げていたのである。
 「どれだけの者に、その考えを……?」
 「多くはありません、頭ごなしに冷静さを欠く批判を受ける事は避けたいところですから。中でも、クラウダーギ
ルドの耳にこの情報が誤った形で入れば、全世界のクラウダー達がナルティアルを冷笑し、罵倒する――そう言った
可能性すら秘めています」
 だからこそ、多方面、多角度のアプローチに関するデータが必要でした――と、ルファッドは言葉を続ける。それ
に伴い、椅子からゆっくりと立ち上がり、そしてダインとローラの下へと足を進めてゆく。
 「そして、今回の雲取り勝負……その勝敗如何に関わらず、ベルンストを筆頭にしたあなた方の勢力を足がかりに、
我々は今の飛雲機業界と歩み寄らせて貰う積もりでいました。クラウダーとナビの有用な在り方を模索し、我らの分
野と力を合わせて、より良い相互発展に努めてゆきたい――それが、ナルティアルに属する皆の気持ちです」
 「…………」
 す、と。スーツの袖から白色の腕が伸ばされる。同意と承諾、そして和解を求められているのだ、と悟ったダイン
は、それに応じるか否かの葛藤を、喉の内で飲み込む唾に乗せていた。
 「あなた――」
 ローラの瞳にも、不安が色濃く表れている。当然だ、どうしてこの手を易々と取る事が出来るだろう。周到に牙を
隠し、巧妙に爪を隠し、しかしその体内には強い毒を備えている獣……それは、例え力を封じて味方に引き込んだと
しても、今まで積み上げられて来た人の努力や歴史、その全てを崩壊させる危険を孕んでいる。自分達の見通しの甘
さに、己が頬を張れたらとさえ考えてしまった。
 ――だが。仮に、先程の言葉が嘘でないとしたら。ここにいる者達を初めとした、力有る者らの手腕を存分に振る
えれば――セルナスの空に、世迷言で無く新しい風を吹き込む事が出来るかもしれない。強い毒はたちまち、そんな
新たなる世界への橋渡しを担う力へ変貌するだろう。
 「……この為に――あなた方は、レーヴェス夫妻を狙い定めたのか。シプセルスを批判し、今の空に不満を持ち、
それ故に――改革の旗手として、あの二人を」
 ダインの搾り出すような声に、返ってくるのは沈黙と静寂。暫しの後、やがて「――おっしゃる事は、良く分かり
ました」と、同じその口が開かれて、
 「しかし……いえ、だからこそ。雲取りの世界に無闇な破壊を呼び込み、空の安寧を乱してはならないと考えます。
これは、ギルドからの意見も考慮した、我々側の総意とお取り頂きたい」
 少しばかりの勢いを付け、腰を沈めていたソファから立ち上がると、ダインは眼前のルファッドと視線の高さを等
しくした。その状態のまま、喉は元より腹の奥から湧き出す気持ちをはっきりとした言葉へ形作ってゆく。
 「あなた方の思い描くセカンドアンフにどのような青写真が存在しようとも、そこにクラウダーとナビパートナー
の存在が織り込まれていなければ意味が無い。今在る空への対抗――大いに結構であると言いたいが、それがこの世
界の空をただ蔑ろにするような行為に繋がるのなら、待つのは何も残らぬ破滅です」
 自分の表明を引き合いに出されるも、フーレの直立不動は保たれ続けている。もっとも、その口元からは何時もの
微笑がすっかり消え去っており、眼に宿る光も冷たさを増しているのだが。
 「今一度――ここで、お約束して貰いたい。ナルティアルはギルド側との相互協力を行い、空の発展に尽力する、
と。そして、セカンドアンフはその結果として、誰もが認めるであろう形での表出を目指していく事を。……白き空
の下、共に生きる者として」
 そう言い放つと、ダインは差し出されていたルファッドの手を取って、ゆっくりと握り締めて行く。刹那と見なし
て差し支えぬ間、企業の頂に座る男と数多の貴族を取りまとめる男――二者の視線に挟まれた空間の中で、バチリと
一つ火花が散り、
 「――ええ――それは、こちらとしても望むところです。共に生きる者として、是非に」
 ルファッドの手が内側へと向かって動き、それが握手の成立を一同に知らしめる。
 「ギルドや他の皆様方にも、どうぞお伝えください。このルファッド=ナイアス、今この瞬間にキュエルにも勝る
味方を得た心境です」
 「ええ。このダイン=ベルンストの名において、必ず。ナルティアル・カンパニー、そのお力に期待しております
よ」
 両者の口元で紡がれる笑みは、果たして真か偽りか。ともあれ、ナルティアルとの会談は、かようにして「和解」
の形を取り、ここに終結したのであった――

 ……それから、時間は再び慌しく過ぎてゆく。シプセルスはその後、無事に再離陸してクラウダー・セクションへ
と帰り着き、カイトは迎えてくれた両親に自らの勝利を告げた。
 ハルカは疲労の色を顔に滲ませながらも、晴れやかな表情を浮かべてレナとフォートの元へと向かい、同じように
結果を報告。その後、一同はベルンストの屋敷にて顔を合わせ、事の仔細を皆に告げて黄色い声に彩られた喧騒を生
み出す結果となった。
 ダインとローラの二人はこの日、結局屋敷に戻って来る事は無く、通信での連絡も最低限の報告を告げたのみ。約
束を取り付ける事は出来た、と成功の言葉が電話の向こうから聞こえてきたが、その声音に見え隠れする緊張を感じ
取った一部の者が、不安に顔を見合わせる事となる。
 そしてまた、カイトも。ロバートとの話、そして『セカンドアンフ』についての一件を心にわだかまらせる少年は、
しかしナビパートナーの少女や師匠たちに打ち明けるべきかを、何時間にもわたって逡巡し続けていた。どう言葉に
すべきなのか、そもそもどうやって整理をしたら良いのか……それがおぼろげながらも形を取り始めたのは、この日
の昼が過ぎ、夜も遅くになっての事だった。

 一日の日付が変わる、その四十分ほど前の事。カイトは丁度風呂から上がり、寝巻きに着替えてタオルで頭を拭き
つつ、自室に続く廊下を歩いていた。
 「――あ」
 その途中、リビングを横断しようとしていた時。格納庫から漏れ出ている橙色の電灯を窓から眼にし、ふらりとそ
ちらへ足を向けてみる。近付くに連れて、控えめながらも機械が唸りを上げる音、そして間違えようの無い二つの声
がカイトの耳を心地よく刺激し始めていた。
 程なくして、少年の身体は格納庫へと続く勝手口の前に立つ。下履きへと履き替え、ドアをカチャリと軽く押し開
けて、
 「二人とも揃って、まだ起きてたの?」
 苦笑を顔に浮かべつつ、見慣れた父と母の背中にそんな言葉を投げかけていた。息子の声に振り返った二人は、そ
の顔と作業服に汗や汚れを貼り付けつつ、いささかばつの悪い笑顔を浮かべる。
 「や、すまんな――今日の興奮が思いのほか残っていたようだ。整備をしていたら、色々止まらなくなってしまっ
た」
 「昔の事とか思い出していたら、お父さんとついつい話が弾んじゃって……ああ、シプセルスの整備はしっかり終
わっているわ」
 「全くもう、二人して何やってるんだか……。顔でも洗っておいでよ、コーヒーくらいだったら俺が沸かすから」
 軽く溜め息を吐き、くるりと踵を返しながらも、少年の両親に対する誇らしさはそんな言葉の端々に滲み出ている。
それから数分後、リビングには着替えを終えたジンクとフレア、そして二人の眼前にコーヒー入りのカップを置くカ
イトの姿があった。
 「明日は二人とも、早めに帰って来れるんだったっけ?」
 「このところ色々とごたごたしていた分、溜まっている書類を整理しておかないとな。まあ、ギルド長が状況を憂
慮してくれた事もあって、明日は紙面と顔を突き合わせっぱなしになる」
 「それが終われば、余程の事がない限り帰って来られると思うけどね。……今日の勝負は、仕事場でも少なからず
話題になっているでしょうね……」
 「――――」
 会話が途切れ、リビング内の空気には各々のコーヒーを啜る音のみが混ざる。一口二口、砂糖を控えめに加えた仄
かな苦味を喉の奥に流し入れた所で、カイトは「父さん、母さん」と、姿勢を改めながら両親に呼びかけ、胸の内に
在る話題に関して口火を切った。
 「…………」
 フィラエナの力、ロバートとの会話、そして『セカンドアンフ』。言葉に混ざる不安と迷いはたびたび舌をもつれ
させ、彼の理性を幾度と無く空転させる。ジンクとフレアはその間、自らの意見などを差し挟む事無く、ただじっと
息子の話に対して聞き役に徹していた。
 時間にしてはおよそ数分ほど、しかしカイトの胸の中で巨大な重石となっていた話題は、その全てが吐露された瞬
間に巨大な吐息という形で帰結する。軽く呼吸を整えた後、彼は二人に意見を求めて問いを投げかけた。
 「自分の意見に確信が持てるか、って言ったら、嘘になるけど――何度考えても、行き着くところは同じなんだ。
今の今まで、誰に打ち明けるべきかもはっきりしなくて……父さんと母さんだったらどう考えるか、って事を、聞い
てみたいんだ」
 「そうか……、……ふむ。一つ聞くが、カイト――もし仮に『セカンドアンフ』がフィラエナによって引き起こさ
れたとして、このセルナスはどう変わると思う?」
 「それは……、……今日、何度も考えてみたんだけど、正直、全然ピンと来ない。でも――ナビパートナーがいな
い飛雲機で飛べ、ってもし言われるような事になったら、途方にくれると思う。今まで仕事の時は一心同体であろう
と頑張ってきたし、それが無くなる状態ってのが、考えられない」
 「そうね――私もお父さんも、基本的には貴方と同じように考えている部分があるわ。フーレさんと話をしていた
時も、なんとなくではあるけど『セカンドアンフ』の言葉を頭の隅っこに置いていたの」
 「そんな彼らの眼から見れば、シプセルスは力があるのに成すべき事を成さなかった『無駄骨の成果』という事に
なるわけだ」
 「……っ!」
 ジンクの言葉に喉を詰まらせ、反射的に拳を握るカイト。なるべく感情の表出を抑えたつもりだったが、そんな息
子を正面から見据える父の眼光は、全てを見通すかの如くやさしいものだった。
 「だが――私たちには、シプセルスを革命のための道具にする事は出来なかったよ。セルナスを流れ行く大気に乗
り、何処までも長く、早く、強く飛んでいける……私たちはただ、そんな飛雲機を生み出したかった」
 「そしてその願いは、貴方とハルカちゃんが今、しっかりと形にしてくれている。仮に、私たちが望まぬ形で『セ
カンドアンフ』の波がセルナスを覆い尽くしても、その流れを超えてさらなる飛び方を見せてくれる……今日、フィ
ラエナに勝ったシプセルスが帰って来るとき、貴方たちを迎えながらそんな事を思っていたわ」
 二人の凛とした響きが、リビングの中に、次いでカイトの身体に染み渡ってゆく。
 「父さんたちはエンジニアとして、これから生まれて来る飛雲機を見続けていく。そしてもう、シプセルスは完全
に託したと思っている。だから、言える事は少ないが……お前は自分の好きなように飛んで見なさい、カイト」
 「セカンドアンフそのものが悪いとは思わない。それに応じてエンジニアが何かしらの変化を強いられるのならば、
対処はしていくつもり。でも、それが今、空に生きるクラウダー達を虐げてしまうような事になれば、私たちは真っ
向から対抗していく。それを信条にして、これからも一つ一つ、飛雲機やクラウダー達と触れ合っていこうと思って
いるわ」
 「――うん」
 聞きたかった事が聞けた、得るべき答えを得る事が出来た――カイトの胸を熱い衝動が込み上げて行き、強い頷き
となって表出した。

 ――そして、夜は静かに更けていく。各自で簡単にコーヒーカップを洗い、歯を磨いた後、レーヴェス家の三人は
この日最後の言葉を交わし、そして床に着くのだった。
 「おやすみ――父さん、母さん。また明日」
 「おやすみ、カイト」
 「ええ、また明日ね」

 革命の兆しが世界の表舞台にその姿を現すも、それに触れた者たちの反応は千差万別。夢想する者、青写真を描く
者、戸惑う者――全ての人々を等しく雲の下に包み、次なる日の朝に向かって時は静かに流れ行く。
 大地の上で揺らめく感情を、見えない手で掬い取りでもしたのか。雲の只中にたゆたい続ける空晶が、きらりきら
りと蒼い光を瞬かせていた――

――第四話・了




 



第4話前編へ     NEXT

創作ページへ

inserted by FC2 system