―「疾戦の絆」―





〈1〉

 ――ポツ、と。何の前触れも無く、中空に漆黒の穴が次々と穿たれる。
 『―――――っ!!』
 言葉に表しがたい雄たけびと悪意が、いくつもいくつも重なって空間を侵食していく。それに伴い、周囲の空気を震わせて、穴の『向こ
う側』から『こちら側』の世界へと、数多の魔物が洪水のようにあふれ出して来た。
 異形としか言えない容姿と、露骨なほどにさらけ出された悪意と殺気。百とも千とも数え切れないその群れを前にすれば、並の者であれ
ば即座に恐怖し、きびすを返して全力で逃げ出す事だろう。
 文字通り、空を埋め尽くす暗黒の壁。そんなものを前にしてなお踏みとどまっているのは、よほどの命知らずの馬鹿者。もしくは、常人
では測れないほどの強い勇気を、胸に秘めた者くらいである。
 しかし。
 「…………」
 年若き小竜にまたがり、その身体の上で眼前の光景を見据えている少女に……果たして、その定義はあてはまっているのかどうか。
 大地の国の第四皇女、ニャルラ=アンホーリー。リボンで二つに纏めた髪の下、彼女の顔には、誰が見ても明らかなほどの怯えが見えて
いる。カチカチと細かく鳴る歯、震える指先、ドクドクと脈打つ心臓の影響で著しく乱れた呼吸、そして何より見開かれたまま激しく揺れ
動く瞳孔――これほど「平静を保っている」事と反対の所作も、そうは無いだろう。
 ぶれる視界の中に魔物の瀑布を映しながら、ニャルラはぽつりとか細い声で呟く。
 「……すごい、数……」
 彼女と、彼女を乗せてはばたく小竜――ミニミ=ミトライユーズ=ブラックドラゴンが魔物の襲撃を受けるのは、これが初めてのことで
はない。
 かつての自分の故郷であり、今は闇に包まれた死の世界になっている――と言われている「大地の国」。数年前、そこに向かったきり行
方の分からなくなった姉――第二皇女、ディアドラ=アンホーリーを追って、ニャルラは空の国を飛び出した。
 平和な大地を離れ、水平線の彼方にまで広がる海を進む途中で、魔物たちは敏感に自分たちと異なる存在を感じ取り、襲撃をかけてきて
いる。一人と一匹はこれまでの旅の中で、そういった事態をある時はかわしきり、ある時は魔法などを使って打ち倒して、か細い命の糸を
どうにか繋ぎ止めていた。
 ――ちょうど、今この時ように。
 「! 来る!」
 群れの中の一団が、見慣れぬ異物の気配を感じ取ったか、ニャルラとミニミに牙をむいた。狙いが定まるや、悪意を載せた魔翼がばさり
と空にはためき、互いの距離を秒刻みで近づけてゆく。
 きぅ、と甲高い鳴き声が、ミニミの口から漏れる。一見、ひ弱そうに見える小竜の双翼は……しかし、空の大気を叩いた一瞬の後、その
身をあっという間に、魔物の手の届かぬところへ移動させていた。
 だが、その先には別の群れの一団がいる。気付けば魔物たちは、その半分以上が彼女らに明確な敵意を向けており、膨大な数によって全
方位を囲んで逃げ場を塞いでしまっていた。
 ばしゅ、ばしゅばしゅ、ばしゅ――と不規則に連なり、放たれる光の矢弾が、思い思いに空を裂いてニャルラ達へと向かっていく。巨大
なエネルギーの圧縮体であるそれらをまともに喰らえば、大怪我はまぬがれない。これほどの高度で傷を負い、意識を失えば、待っている
のは死の他にありえない。
 ミニミの翼が再びはためき、エネルギーの渦巻く只中へと身を躍らせていく。ブラックドラゴン、という種が備えている力ゆえなのか、そ
の挙動は速く、鋭く、淀みが無い。
 弾と弾の間に生まれる、わずかな隙間。ほんの少し挙動が狂えば光の洪水に飲み込まれてしまうようなところを、小さな竜は巧みに翼を
操り、一筋の光と化して駆け抜けてゆく。
 エネルギーの塊がその形状を保てなくなり、中空に溶け消える。或いは力を暴走させ、周囲のそれらをも巻き込んで巨大な爆発を引き起
こす。それら一切合財が生み出す波動を、ニャルラはミニミの背の上、前後左右で感じ取っていた。
 「っ!」
 半ば反射的に染み付いた動作で、魔法の術式を組み上げ、短く口の中で詠唱。力を得たミニミが、キゥ、と小さく一鳴きするや、次の瞬
間それらは魔法エネルギーの光弾に姿を変えて、魔者たちへと襲い掛かっていく。
 生まれた爆光で切り崩された壁に、ミニミは突進。はためく翼に力が宿り、その先から巨大な光の翼が生み出される。
 魔者達からすれば、自分たちよりずっと小さくて弱そうに見える異物たちが、突然自分らの命を刈り取る、巨大な刃へと変貌したように
見えたろう。
 実際、口の端から光弾の奔流を打ち出し、両の翼に魔力の刃を乗せて突貫するその姿は、まさしく、中空を引き裂く巨大な一本の矢だっ
た。
 崩れた壁の一角に、修復不可能なレベルでの破損と貫通孔が生み出される。全速力を出してそこを飛び、駆け抜け、魔物たちから一気に
距離を開けていくミニミ。彼らを追随出来るほど力を備えた魔物は、その場にはいない。
 完全に魔物たちを振り切ったのを確認したところで、ニャルラは大きく息を吐き、全身に纏わりつく緊張を解いた。
 「……は、ぁ……っ」
 そのまま何度か深呼吸を繰り返して、鼓動をゆっくりと落ちつけていく。そんな彼女の様子が気にかかったのだろう、ミニミが首を曲げ
て視線をニャルラへ向けながら、きぅ、と小さく鳴いた。
 丸くつぶらな瞳が、少女の不安げなそれと交差する。
 「……ありがとうね。ミニミ」
 口元をほほえみの形に変えて、ニャルラはその小さな手で、竜の背中を優しく撫でた。心の奥底からじわりと沸き立ってくる不安を、気
取られないように勤めながら。
 「――――」
 竜の瞳によぎる感情。それとまともに正対する前に、幼き少女は再び笑顔を作っていた。

 ――このままで良いのだろうか――という、自分に対しての問いかけを、旅を始めて以来ニャルラはどれだけ繰り返したか分からない。
 空を駆け行くための翼を魔女から借り受け、己が心の赴くままに城を飛び出した。時に優しく、時に冷たく吹きすさぶ風をこの身に受け、
高度著しい天空で何度となく沈む夕陽と昇る朝陽を目にした。
 そして、大地の国を住み家とする多くの魔物たちと戦い続けてきた。ろくに魔法の修練を積んでいたわけでもなく、飛竜を操る訓練も受
けていない自分だが、それでもここまで生き残ってこれたのは、よほどの幸運に加え、竜が備える力が助けてくれていたからだろうと――
そう、ニャルラは思考を固めて疑わない。
 魔法に関しては、正直なところ、姉の見よう見まねでしかない。
 最低限度の手ほどきを、魔女アルテニャンから受けはした。だがそれを別にすれば、記憶の残滓として残っている姉の姿を必死に思い起
こしては、それを頭の中の引き出しから引っ張り出し、術式を結ぶのが常。事実、その手順に手間取ったことで、ミニミを危険にさらした
ことがこれまでに何度あったことか。
 一つ一つ危機を乗り越えて目的地に近づくたび、ニャルラの心には見えない重石が音を立ててのしかかる。心の奥底から焦りと不安が生
まれて、心臓を見えない茨できりきりと締め上げてゆく。
 大地の国へと向かい、姉を探して再会する。ぶれることのない願いと決意は、まぎれもないニャルラの本心。だが、今の彼女の中で、そ
の言葉と想いの強さは、無意識のうちに半ば不安を押し隠す免罪符へと、姿を変えようとしていた。
 旅立つとき、ミニミの瞳と視線を交わした、あの瞬間。自分の心の中に響いてきた声がどんなものだったか――少女の記憶の引き出しは
今や、他のさまざまな事柄によって、少しずつ埋没し始めている。
 一人と一匹。近いようで遠く、不確かな絆を抱えたまま、この日の夜は完全な静寂に落ちていく。
 「…………」
 ごめんなさい――と、胸の内で言葉を紡ぐニャルラ。
 自分の至らなさが、この子に必要以上の負担をかけてしまっている。わたしがもっとうまく出来れば、ミニミがいらぬ苦労を背負うこと
も無いというのに。
 どれだけ回数を重ねようとも、魔物に向き合った時の恐怖と悪寒が消えることは無い。心の中に巣くった弱気の虫は、気づけば自分の心
根を、彼への依存にゆだねていってしまう。
 こんなわたしを、姉さまは果たしてどう思うだろう。強く気高く、私が最も尊敬するディアドラ=アンホーリーは、大地の国の果てで、
わたしを迎えてくれるのだろうか。
 「……」
 尽きない不安はやがて疲れとなり、幼き心身に降りかかる。ミニミの羽ばたきはいつしか規則正しい子守唄と重なって、ニャルラの意識
を重い眠りへと追いやっていくのだった。
 静かに、静かに、ミニミは空を駆け続ける。戦いで少しでも失った体力を回復できるように、しかし、魔物の襲撃を受けても対処できる
ように。

 ――数時間後。
 水平線のかなたより上る朝陽が、海を覆い尽くす分厚い雲を照らし始めていた。

〈2〉

 ――きぅ、という、ニャルラのいつも以上に甲高い咆哮。
 その鳴き声と――ぞわ、と肌があわ立つ程の悪寒と。はたしてどちらが先に、ニャルラにまとわりつく眠気を吹き飛ばしていったのだろ
うか。
 はっと顔をあげた彼女の瞳に――低く厚く垂れこめた雲と、そして、
 「……陸……!」
 時間からして陽が昇っているはずなのに、空の色よりなお暗く見える岩棚が映っていた。視界を真横にめぐらせても稜線は長く続いてお
り、そこにあるのが巨大な陸地であることを確信させられる。
 ついにたどり着いた、目的の地。だが、ニャルラの心には、冷え冷えとした悪寒ばかりが吹き込んでくる。
 否応なしに、分かってしまう。何か、とてもまがまがしくて恐ろしいものが、自分たちを敵とみなしている。姿が見えないだけで、すぐ
そばにいる。牙をむき、爪をとぎ、襲撃しようと機会をうかがっている――!
 「――っ、ミニミ!」
 叫びに重なる羽ばたきが、竜のしなやかな肢体を真横にスライドさせる。一瞬ののち、空間を突き破って出現した魔物が、彼のいた場所
を鋭利な爪で貫き通していた。
 ばさ、と羽ばたく翼は、続けて襲い来る二の手、三の手を次々にかわしていく。その挙動に振り回されながら、ニャルラは必至で魔法の
術式をくみ上げ、敵めがけて魔力の光弾をばらまいた。
 二、三、四、五、六――連なる光の連鎖が、雲に閉ざされた暗黒を、刹那の間照らす。力の奔流に飲み込まれ、消し飛んでいく魔物は、
全体の半分にも満たなかった。
 間髪を入れず、次の攻撃。びゅごう、と中空を切り裂き、悪意を乗せた稲妻が横殴りに竜を狙う。同時に、その前方に立ちはだかる魔物
は、自分たちの敵を包囲せんと間隔を一気に詰めていく。
 「――!」
 込み上げてくる恐怖にどうにか蓋をしつつ、ニャルラは魔法を編み上げた。竜の翼が光となり、一人と一匹を包み込んで、巨大な光の弾
丸に変化させる。
 その攻撃力は申し分ない。ごう、と空気が唸りをあげて、引き裂かれたそばから渦を巻き、魔の壁に風穴をぶち開ける。
 ――が。
 「えっ!?」
 ミニミが再び動こうとする前に、ニャルラの予測をはるかに超えて、壁の穴はあっという間にふさがってしまった。魔物たちが浮き足立
つことなく、的確な軌道を選んで、失われた戦力のカバーにすぐさま回ったためである。
 今までの魔物たちとは、違う。つばを一つ飲み込んだニャルラの心臓が、どくどくと早鐘のように鼓動を刻む。
 「きゃ……っ!」
 彼女の抱いた予感は、次なる襲撃によって裏付けられる事になった。
 一見、ミニミに――いや、竜に似た魔物たちの群れは、まず何より、早かった。系統だった動きでニャルラとミニミをかく乱し、触れた
だけで切り裂かれそうなほどの速度をその身体に乗せて、己が敵にぶつかっていく。
 さながら、引き絞られた弓矢のような一撃を回避しても、次の一撃、さらに次の一撃が間断なく襲い来る。そのたびに、彼らの動く範囲
は少しずつ狭まって行く。
 全方位からひっきりなしに、攻撃は続く。四度、五度、六度――そして、
 「!」
 立て続けの斬激を寸前で回避した拍子、ぐら、と、竜の態勢が崩れる。一秒もあればすぐに立て直せる程度の隙だったが、魔物たちから
すればそれは十分に致命的なものだった。
 二つの命を刈り取らんと、凶刃が宙を踊る。縦、横、奥と三次元をことごとく埋め尽くす害意は、完膚なきまでに逃げ場を奪っていた。
 「――……っっ!!」

 ――もしも。
 その先に訪れた結果に対して、何かしらの答えを求めようとするのなら。

 「――ミニミっ!」
 まさに土壇場、と言うこの状況が。
 ニャルラという少女の足踏みを続けていた心に「このままで良いわけが無い」と、そう渇を入れさせたからに他ならないだろう。
 叫びと同時に彼女がやった事は、魔力の伝達を四肢に集中して、ミニミの背に出来る限り身をかがめてしがみつくというものだった。ミ
ニミが次の瞬間、どれだけその挙動に全力を傾けたとしても、決して自分がその背から転落しないようにする為に、である。
 刹那――先ほどまでのそれよりも挙動のレベルを一段階上げて、若き竜が光と化した。
 ギィ……と、魔物たちの中から漏れ聞こえる声は、ミニミの力を孕んだ翼によって、その存在ごと呑みこまれ、微塵となって空の只中へ
溶けて行く。
 瞬間的な最高速度、僅かな時間での切り返しと方向転換は紛れもなく、背中に乗せた人間の事を考えていては、到底行えないであろうレ
ベルの代物。一見逃げ場のない包囲網を、コンマ数ミリ、鼻先や皮膚の焼けそうなぎりぎりのところまで弾に接近して、――回避すると同
時、その身体は既に敵の眼前にある。
 続けざまに放たれる竜の攻撃は、魔物たちの回避能力を完全にしのいでいた。凶刃を光に返す力の塊がぶわりと膨れては破裂し、海面に
さざなみを作って広い台地の海岸線にその波紋を届かせる。
 それを追いかけるように、ごう、と音が響き――そこにあったはずの空気をまるごと身体の脇に押しやって、一条の光が走りぬける。そ
れは、大地へ接近したところで、ミニミへと姿を戻していた。
 魔者達が追いかけてこないのは、彼らの姿と気配を完全に見失った為だろう。数秒前まで一人と一匹がいたその場所には、今現在、置き
土産である爆光の残滓が漂い続けている。
 「……は、ぅ」
 ミニミの背でうつむいたまま、力ない声を絞り出すニャルラ。魔力障壁を展開させていた事も有り、その身体に直接的な傷は無いが、縦
横無尽に振り回されたのはやはり応えるようだった。
 「ミニミ――ごめんね」
 無茶をさせてしまって――という以外、別の意味を声の内に孕んで、ニャルラの謝罪が紡がれる。未だに張りの戻っていない響きではあ
るが、そこに質の暗さは見て取れない。
 「私……いつの間にか、あなたと距離を置こうとしていた。私の願いのせいで、むやみに傷つけちゃいけないって」
 ――自分が至らないのは、あくまで自分の責任。このままでは、いつまでも頼ってばかりで、何も変わらない――いつしか、心の隅っこ
でニャルラに芽生えていた、そんな一つの想い。それは、旅の中で育っていくにつれて「竜の力を、どこかしらで抑えなければ」という、
いびつな形へと歪んでいった。
 ミニミに対し、あまりに無茶をさせてはいけない、という、彼女生来の優しさも手伝っていたのだろう。激しくなる襲撃を直にその瞳に
焼き付けて、竜の力に頼らずあくまで自分が成長しなければいけない、と、強迫観念じみた想いにも捉われてしまっていたのだろう。
 嫌ってなどいない、むしろ竜を大切だと思うからこその思考。だが、追い詰められて姉の姿を脳裏に浮かべた瞬間、ニャルラは自分の間
違いを悟る。
 姉さまは、そんな竜の乗り手だったか? 竜をいつくしむのは当然としても、自分みたくその力を拒んでいたか? 自分ひとりだけが強
くあり、竜の力をかたくなに無視するような人だったか?
 ――否。断じて、そんな事はない。私の尊敬してやまないディアドラ=アンホーリーは、絶対にそんな事はしない――!
 胸の内で叫ぶと同時、彼女は竜を信じ、その命を預けた。そしてまた、ミニミもそんな彼女を信じ、守り抜くことを誓い、見事願いに応
えたのである。
 「ありがとう、ミニミ」
 感謝の声には、久しく出てない明るさがある。きゅぅ、と答えるミニミの声も、どこかしら弾んでいるようだった。

 ――その、刹那。
 何度目か分からぬ悪寒が、弛緩し始めていた空気をはるか彼方へと吹き飛ばす。
 『!!』
 弾かれるように、暗い空を見上げる一人と一匹。

 ――今までになく巨大な漆黒の穴が、頭上に出現していた。

〈3〉

 ごうごうと逆巻く旋風を伴い、穴の奥から出現したのは――今までにない巨躯を緑に輝く翼で包んだ、一体の魔獣。否応なくのしかかっ
てくるその重圧から察するに、こいつがおそらく、これまでに出現していた魔物たちの大将なのだろう。
 魔物たちからすれば、大地の国を守る番人といったところか。長細い瞳の中にはらんらんと赤い光が瞬いており、こちらに対しての敵意
は疑いようもない。
 そして、同時に――その光の質からは、ある一定以上の知性を見てとれる。簡単にはいかない、と悟ったニャルラが、眉間に小さなしわ
を寄せた。
 ぎぃ、と、静寂を引き裂く後方からの声は、こちらに気づいた魔物たちだろう。向かって来ているのを分かってはいても、彼女は魔獣か
ら視線をそらす事ができない。
 手綱を握る手と、鞍を抱え込む足。両の四肢に力をこめ、ニャルラはゆっくりと羽ばたくミニミの背で、ごくりと唾を飲む。

 ――ぎぃ。ぎぃ。
 ぎぃ――

 ――ぎぃ。
 何度目かのそれは、もはやごく近く。
 揺れ動いた空気が、疾戦の開幕を告げる。

 ミニミが、翼で空を打つ。
 瞬間――魔獣が、数百メートルの空間を、文字通り切り裂いて走った。
 「きゃあぁっ!」
 すさまじい衝撃に見舞われるニャルラ。同時にミニミも、大きくバランスを崩してしまう。
 それほど、魔獣の速度は凄まじいものだった。高エネルギーが凝縮された翼は触れるものをことごとく破砕する刃となり、通り道に激し
い空気の乱れを巻き起こす。
 それはさながら、灼熱と暴風をまとった巨大な砲丸。まともに防御や回避のできなかった者、またそれに耐えうる力を持ち得なかった者
は、例え彼の配下の魔物であろうと関係なく吹き飛ばされ、焼き尽くされ、塵となって空に消えていく。
 ミニミがそうならずに済んだのは、彼のとっさの状況判断能力があったからこそ。危険を察知すると同時、全速力をもってコース上から
離れた若竜は、そっと視線を背中へと巡らせ、守るべき姫君の様子を確かめる。
 交錯する二対の視線に、ぶれは無く。それをゆるぎない信頼の証と取って、ミニミは小さく甲高い、だが強さを含んだいななきを発した。
 翼がうなりをあげ、小柄な肢体が鋭い矢じりと化す。その数百メートル後方、方向転換した魔獣の赤い瞳が、彼らを捉える。
意志ある巨大な砲弾が、敵を叩き潰さんと空に踊り始める。
 「――っ!」
 かろうじて薄目を開けたニャルラの視界に、秒刻みで迫ってくる黒い大地。戦いの場所を陸地方面へと変えているのは、勝利の決定と同
時に配下の魔物らに襲われるのを防ぐためか。
 海面が地面にとって代わり、高度が瞬時にして百メートル以上跳ね上がる。それほど低いところを飛んでいないとはいえ、光の射さぬ大
地はまるでそこに分厚いベールでもあるかのごとく、景色の詳細は分からない。
 大地を飛び始めて数秒後。後方から突如として、腹の底へと響くような轟音が聞こえ始める。一体何かと首を巡らせたニャルラは、瞬間、
我が目を疑った。
 ――大地が、削れている。
 低空飛行でそのスピードを一向に落とさず、ニャルラとミニミに追いすがって来る魔獣。その巨躯がまとっている破壊のエネルギーが地
面へと届き、爆発と暴風を引き起こして通り道に巨大な爪痕を残していた。
 力の奔流に弄ばれて、大小数多の岩石と塵が、粉々になって宙を舞う。迫る敵の強大さに背筋を粟立たせながらも、ニャルラは魔力を編
み上げて、疾駆する竜の上からそっと投げ放った。
 後方へと流れる途中、複数に分たれた光の弾丸は、それだけでも十分な加速度を得て、魔獣の顔面や身体へと着弾。一瞬の爆発を起こし、
煙を上げるが、あっという間に後方へ流れ、吹き散らされていく。
 魔獣の表面に刻まれたのは、ごくごくわずかな傷。ろくにダメージも与えられないどころか、速度を落とす役にも立っていない。それを
まぎれもない失策の一手と見なし、魔獣の眼光を優越の色がよぎる。
 速度を落とさぬまま、魔獣の身体が真横へとスライドを始めた。それと同時に、光の粒子に彩られた翼が、煌々とそのまばゆさを強めて
いく。
 やがてそれは、翼から離れて、一つ二つと緑光の球へ姿を変え――はるか上空を目指して、あらぬ方向へ。同時に魔獣も、ミニミの真後
ろから姿を消し、ぐるりと外側へカーブするコースを取り始める。
 何をしてくるつもりだろうか、と、ニャルラがいぶかった次の瞬間。突如、ミニミの進む前方数百メートルのところに、切り立った岩肌
が姿を現していた。
 今の速度を保って上昇をかけるには、ほんの少しだが距離が足りない。このままだと上がりきれずにぶつかる、そう判断してミニミが減
速しはじめた――刹那、
 「!?」
 上空を移動し、降ってきた光の球が、連続で岩肌へと着弾。先ほどニャルラが放ったそれとは比較にならぬ規模で爆発を起こし、生じた
光の波に一人と一匹を飲み込んでいった。
 轟音が空気を揺らし、大量の岩と土砂が曇天に踊り狂う。その光景を少し離れたところから視認して、魔獣は翼に再び光の粒子を纏い始
めた。
 緩やかな旋回を終えた頃、魔獣は爆煙の渦からある程度の距離を取っていた。そこは、全力での突撃を行った時、最も加速度が付き、威
力が備わる地点。より確実に、とどめとなる一撃を放つためである。
 緑の光に彩られた粒子が、魔獣の後方から勢い良く吹き出し、その巨躯を前方へと押し出す。押しのけられ、切り裂かれた大気の悲鳴を
聞きながら、大地の番人が爆発跡めがけて突進を開始した。
 一秒を過ぎるかどうかというところで、粒子の輝きは空に溶ける。持続性に欠ける、文字通り瞬間的なブーストではあったが、速度が落
ち始める前にその身は目標へと届いていた。
 暴れ狂った力の奔流が、そこにある何もかもを消し飛ばしてゆく。戦いの幕が、これで下りる――

 「――っっっ!!!」
 甲高い少女の叫びは、大音量の咆哮によってかき消されていた。

 叫びは――断末魔ではなく、パートナーである竜の名を呼んだもの。
 咆哮は――勝利の凱歌ではなく、少なからぬダメージを受けた事による苦悶だった。
 「…………っ!」
 ミニミが翼をはためかせ、安全圏にまで離脱していく。同時に、ぶしゅうと凄まじい音を立てて、引き裂かれた魔獣の翼から体液がほと
ばしっていた。
 「うまく、行ったね……!」
 ニャルラの言葉に、きぅ、と応えるミニミ。
 一人と一匹の命を救ったのは、ニャルラの展開した魔力障壁だった。先ほどの巨大な爆発めがけて、少女が放った渾身のシールドは、ほ
んの少しとは言え、彼らを守護する巨大な盾となっていたのである。
 生まれた時間の猶予を使い、ミニミは方向転換して舞い上がる土砂から抜け出す。どのタイミングで動作が遅れていても、ミニミの翼が
炎に飲み込まれるなり、ニャルラが消し飛ぶなりと、彼ら二人が無事でいられる保証はなかっただろう。
 巨大な爆煙を挟んで、魔獣と正対する竜と少女。きぅ、といななくミニミの声に応え、ニャルラは魔力の刃をその両翼にまとわせた。
 少女が身体を固定させた事を確かめ、ミニミは機を待つ。そして――煙が吹き飛ばされるその直前、ゆらりと空気が動いたのを察するや、
スピード全開で突貫。光となった一本の矢じりが、着弾のエネルギーを開放させた直後の砲弾に向かう。
 魔獣は――それを、防ぎきれなかった。「そこにいる」と断じてエネルギーを溜め、そして行った突貫は、それだけに無視の出来ない行
動の隙を生み出していたのだ。
 ぎしり、とひび割れのような音を立てて、瞳の中の鮮やかな赤光が歪む。出し抜かれ、欺かれ、身体に傷を付けられた屈辱で、血を思わ
せるその光がさらに色を強める。
 上空へと昇っていくミニミを視界の端にとらえ、魔獣は追いすがろうと加速する。
 先んじるものと、それを追うもの。先ほどまでと明らかに異なる、縦横無尽に展開する挙動は、次のラウンドに戦いが移った事の証しで
もあった。

〈4〉

 上下に動き、左右へ切り返す。
 奥と手前への回避がそれに加わり、三次元での追いかけっこが続く。大小二本の線は、時に幾何学的な、時に規則的ないくつもの模様を、
凄まじいスピードで中空へと描きだしている。
 「っ!」
 ぼしゅ、という音に、小さな爆発があわさる。ニャルラが時折編み上げては宙に放つ、魔力の弾丸だった。
 時には一つ二つ、時には四つ五つと、その数をランダムに変化させて、彼女は追いすがってくる魔獣に、確実にそれらを当てていく。
 だが、傷はやはり、ごくごく小さい。先ほどの魔獣の翼を穿った力と比べると、あまりにもか細くて脆い。目くらましにすらならないの
なら、完全な無駄――と、魔獣の思考は固まりつつあった。
 幼いながらもあの竜の力は無視できない、それは認めざるを得ない。恐れを忘れず細心の注意を払い、全力を持って叩くべき強敵だ。だ
が、奴がその背に乗せている存在は、これまでの挙動を見るに、どう考えても足かせでしかない。
 いける、このまま追うのだ。竜があの重石を捨てない限り、その翼を叩き折るチャンスは必ず訪れる。か弱き代物を守って飛ぶ、そんな
自分の選択が間違いだったと、戦いの先にこいつは必ず考える――今現在の魔獣の思考を言葉にするなら、恐らくこのようなところだった
ろう。
 少なくとも、魔獣の頭の中は激情を過ぎていた。煮えあがっていた思考はとうに冷静さを取り戻しており、頭に昇っていた血も今は緩や
かに総身をめぐっている。ふつふつと煮える闘志と戦意だけが萎えず、この身を勝利に向かわせている――そう、感じていた。

 ミニミが中空にて身体の向きを反転させ、魔獣と正対。翼を一つ羽ばたかせて加速し、その脇を通り抜けていく。
 それを、決して逃がしはしないと、魔獣もすぐに最小の径で旋回して急加速。巨大な翼と粒子の光は、傷ついてもなお空を駆けるのに充
分すぎるほどの力を備えていた。

 ――その時。
 魔獣が、思考の隅にごくごくわずかな違和感を覚えた事。そうでありながらも、追いすがろうと言う目先を優先した事が、彼らの次の一
手を決定付ける。

 「――――」
 ミニミの背の上。数瞬ほど遅れて、魔獣の瞳にそれは映りこむ。
 ニャルラの手の平を包み込んでいる光が、これまでと比較にならないほどまばゆく、強い。
 魔獣の思考に警鐘が走ったその瞬間、一人と一匹はブレーキによって相手との距離を一気に縮め――反応される前に、たおやかな手が、
その身体へと、

 刹那。
 魔獣の巨躯は、膨大な魔力の奔流に弄ばれていた。
 「――――――――――――――――――っっっ!!!!!」
 天の雲すら突き抜けようかと言う絶叫は、しかし、光の中で生まれる無数の爆裂音によって包み隠されていく。
 ほうぼうに、広範囲に渡って飛び散るエネルギーは稲妻となり、地上に落ちては鋭い穴を穿つ。その中心に狙いを定めたミニミは、ばさ
りと翼を大きく羽ばたかせて、勢い良く空を蹴った。
 光が走る。中空に、まばゆい一本線が引かれていく。長く、鋭く伸びたその槍は、狙い過たず正確に――魔獣の総身、その核を貫き通し、
はるか後方へと抜けていった。

 激情を過ぎて、冷静さを取り戻した思考。しかし、一度煮えあがった感情が冷えた折に固まり、いびつな蓋になっていた事に、魔獣はと
うとう最後まで気付けずにいた。
 ニャルラの放っていた魔力の弾丸は、確かにけん制には使えなかった。だがそもそも、真の目的はそれではなく、相手の防御力とその状
態を図る事にあったのだ。
 どれだけ力を溜めれば、あの巨躯に通用するのか。動きを止め、とどめの一手を仕掛けるほどの攻撃には、どれだけの時間がかかり、ど
のようにタイミングと打ち込む箇所を測るべきか。威力の微妙に異なる魔力の弾丸を撃ち込み、生まれた傷を観察しながら、ニャルラは延々
と使える魔力の何割かを蓄積に回し続けていたのである。
 相手に考える知性がある事は、瞳の中の光や光球を用いた複合攻撃などで分かっていた。だからこそ、強力な攻撃に慣れさせないよう、
至近距離での一発勝負を選び、いずれ訪れるであろうチャンスを待っていた。
 「……はぁっ!」
 知らずのうちに、息すらも止めていたか。額から汗を流し、身体を上下させながらニャルラが大きく呼吸をした直後――魔獣の体躯全て
は光の開放に伴って破砕し、大気の中へと溶け散っていった。
 見なくとも分かるほどの強烈な光と、真後ろで広がる衝撃波をちりちりと背中に感じ取りながら、ニャルラはミニミの背で戦いの終わり
を悟る。ばさ、と羽ばたく翼が、門番を失った大地の国の奥へと彼らの身を押し進めていく。
 「う、ぐ……はっ、はっ……はっ」
 大きく肩を上下させ、苦しげに呼吸を繰り返す幼き肢体。手足や額をはじめ、全身のそこかしこに、ようやっと解けた緊張ゆえの汗がぽ
つぽつと染み出している。
 きぅ、と、心配げにニャルラをみやるミニミ。少女は微笑みを作ってそれに応え、「お疲れ様」と小さく言葉を紡いで、戦いを終えた竜
の背を優しく撫でさすった。
 中空を恐ろしい速さで振り回され、下手をすれば意識を失いかねない状況にありながらも、ニャルラはそのわずかな合間でミニミに語り
かけていた。どうか自分を信じて欲しい、二人でこの戦いを乗り切る為に力を尽くして欲しい――と、言葉を使わずに呼びかけていた。
 その結果が、今こうして存在している。ミニミがニャルラを信じて応え、動き、ニャルラもまた、それを確実に気取ってひたすらに集中
を続けた。
 「お疲れ様……ミニミ」
 実際にかけたい言葉は、いくつもあった。だが、あえてニャルラはそれだけを思考の渦からすくいとり、口に出す。
 小さく応える若竜の鳴き声もまた、多くの言葉がそこに乗っているかのように、これまでにない響きを含んで足しあわされているものだ
った。

 ――曇天は、変わらず。
 分厚い雲の下、少女を乗せた竜が飛ぶ。空は暗く、いつ雨が降って来てもおかしくない。黒々と広がる大地の先、果たして何が一人と一
匹を待ち受けているのか、この時点で回答を寄越せる者は誰もいない。

 それでも。
 その果てを目指し、彼らは進む。強い願いを糧に、ただただ、まっすぐに――





<疾戦の絆:了>




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