・ マーキュエル・ストーリー ・







 宇宙という名の海に、1つの惑星が浮かんでいた。
 そこは人々に、後に「ユートピア・プラネット」と呼ばれる、青い星。
 全体の8割が海に覆われ、陸は小さく、いくつにも分かれている。
 人々は漁と交易で生計を立て、争いを起こすことが無い。
 平和で静かな世界。星の名を、「セーラス」。
 …物語は、この星にある小さな島から始まる。

  <FIRST STORY・天使たちの場所へ>

 少年が、両親と遊んでいた。
 乗っていた船の甲板を、全力で走り回る。
 海に潜って、魚を捕ってみたり、さんご礁に触れたりする。
 …楽しい、日々。
 と。景色が割れる。
 次の瞬間、炎に包まれる漁船が目に入った。
 逃げ惑い、海に次々と飛び込んでいく漁師達。
 音を立てながら、海へ引きずり込まれていく漁船。

 海の中で、少年はもがく。
 漁船に、少しでも近づこうと。
 …だが。
 信じられないほどの速さで、船は完全にその姿を消した。
 −瞬間。
 凄まじい音を伴い、水柱が上がる。
 船の、爆発だった。
 少年は、それに飲み込まれ−

 一粒の涙が、彼の頬をつたって行った。

 少年−シオ=アヤノの両親、ショウとエナが、彼とその祖母−ミナギをこの世に残して3日が経った。
 漁船の調整不備による、ここ十年無かった爆発事故。
 乗船していた漁師の半数が命を落とし、その中にショウとエナが入っていたのである。
 彼らの死を嘆く者は数多く、葬儀には次々と人がやってきていた。
 だがシオとミナギは、空の棺の中を2人と考えたくなかった。
 遺体は体の一部分さえ、発見できなかったのだ。
 −ねえ、婆ちゃん。父さんと母さんは、海の底に行ったのかな?
 −…そうだと思うよ。きっと、マーキュエルが迎えてくれるさ…。
 −マーキュエルって…海の中に住んでいる、天使のこと?
 −ああ。…もしかしたら、ショウとエナは、マーキュエルになっているかも知れないねえ。
 −どうして?
 −澄んだ魂は、マーキュエルになれるんだよ。魚が死んだ後、マーキュエルに。鳥が死んだ後、エアキュエル(風の天使)になるように…ね。
 −マーキュエル…か。

 ザパッ…。
 月明かりを反射する海面。その一部が小さく揺れる。
 続いて現れたのは、シオの頭部。
 「…はぁっ、はぁっ…。」
 10分以上水中にいても、平気な身体。
 彼の母親、エナから受け継いだ能力だった。
 最も、銀色に輝く髪とエメラルドグリーンの瞳は父親譲りであるが。
 シオは全身の力を抜き、海面にその身を委ねる。
 セーラスの海は、昼夜間で温度がそれほど変わらない。彼が夜中に泳げるのも、それゆえである。
 「…マーキュエル…か。海の天使らしいけど…。」
 「そうだよ?」
 「!?」
 いきなり横から聞こえた声に、シオの心臓は跳ね上がり−
 ドボゴォ!
 思わず力が入った身体が海に沈んだ。
 海中でしばしもがいた後、顔を出し、激しく咳き込む。
 「…大丈夫?」
 「…いきなり声、かけないでよ。びっくりし…げほっ!」
 「ごめん。マーキュエルの話だったから、つい…。」
 マーキュエル、好きなの?
 そう言おうとして、声のほうを向いたシオは動けなくなった。
 そこにいたのは、彼と同じくらいの年齢の少女。
 青色の長髪と瞳。水の青に酷似したそれらはまるで、海水がそのまま身体に溶け込んでいるように思える。纏っているローブにも、同じことが言えた。
 だがシオの瞳は、彼女の肘に吸い寄せられていた。
 「…え…?」
 「? どしたの?」
 「そ…、その手…。」
 「…?」
 少女がシオの言いたいことを理解するのに、数秒かかった。
 −彼女の肘は、海面に突いていたのである。
 あたかも、机に肘をついているかのように。
 「…あ、そっか。人間は、こういうこと、出来ないんだったね。癖って、直らないなあ。」
 「そ、それと…。」
 シオが次に目を奪われたのは、彼女の肩甲骨の辺りから伸びる、一対の鋭角的な翼だった。
 それを例えるなら、トビウオのひれ…というのが、最も近いだろうか。
 その後で、彼女の手に水かきがあることにも気づく。
 「…あ〜、そうだった。人間に、これ無いんだった…。」
 肯定と否定。相反する気持ちがぶつかり合い、シオを混乱させる。
 疑問の言葉が、するりと彼の口から滑り出てきた。
 「…マーキュエル…?」
 「…天使っぽくない…って、思ってるんでしょ? 固定観念を捨てられないのよね、人間って。」
 「…じゃあ…!」
 彼女はうなずき、
 「私は、セーメ。正真正銘の、マーキュ…」
 「だったら!」
 シオは、彼女の肩を掴み、
 「きゃっ!?」
 「俺の父さんと母さん、知らない!? 知っていたら、教えて! 3日前に死んで、シュウとエナって名前で…」
 「や…っ!」
 ドン!
 思わずシオを突き飛ばす、セーメ。
 拍子に、彼のバランスが崩れ−
 ゾボォ!
 シオは再び、海の中でもがくはめになった。

 「げほ、げほっ! …ごめん。」
 ひとしきりむせた後、セーメに謝るシオ。
 「あ…ううん、こっちこそ。…ショウに、エナ、ねぇ…。」
 「聞いたこと…無い? こっちで、遺体が見つからないから、てっきり…」
 「…あのさ。鳥がエアキュエルになったら、鳥の亡骸は見つからないわけ?」
 「…。」
 頭を掻く、シオ。
 「まあ…でも、魂はいつの日も、やって来るから…。あってもおかしくはないわね。」
 「…そっか。」
 「そんなに、気になる?」
 「どうしても、2人に…渡したいものがあって。」
 「…ふうん。」
 セーメは、しばし考え込み−
 「…よし!」
 「?」
 「じゃあ、私の仲間に、聞いてみる! あなたの両親が来ていないかって!」
 「…えっ!?」
 「で、もしもいたら、渡してあげる!」
 「…いいの…!?」
 彼女は笑顔でうなずき、
 「私たちの住んでいる所って、人間じゃ来れないから。…で、渡したいものって?」
 「あ…、…。」
 「?」
 「…父さんと母さんが見つかったら…で、いいかな?」
 できれば、自分で渡したかった。気まずそうなシオの表情が、言葉を物語っていた。
 セーメはそれを察し、
 「…分かった。見つかっても、聞かないことにする。」
 「…! ありがとう…!」
 「いいっていいって。…あ、そうだ。君、名前は?」
 「…シオ。シオ=アヤノ。」
 「シオ、か。…じゃあ、見つかったら、知らせに行くね!」
 バシャッ。
 音とともに、彼女は、海中へと消えた。
 …重大な事実にシオが気づいたのは、彼が陸に上がったときだった。
 「…彼女…セーメ、だったよな…。…彼女、俺の家とか、知ってたっけ?」

 「へえ…マーキュエルに、そんな子がいるんだねえ。」
 シオの話を、ミナギは、笑って聞いていた。
 「本当に、天使なのかなぁ…って思った。俺たち人間と、ほとんど変わらないよ。」
 「初めのうちは、そうなんだよ。」
 「初めのうち…?」
 ミギナは、適度に冷めた茶を、音をたてて飲み、
 「マーキュエルに限らず、天使たちっていうのは、時がたって、力が強くなるにつれて、人の目からは見えなくなるのさ。」
 「…そうなんだ…。」
 ガン…、ガンガン…。
 窓ガラスを叩く音がしたのは、その時だった。
 「?」
 怪訝な顔をする二人だったが−
 窓の方を見て、シオは、すぐにその疑問を払拭した。
 窓に近寄り、開けて、
 ゴッ。
 「!」
 さらに窓を叩こうとしたセーメの拳を、鼻に受ける。
 「あっ! ご、ごめん!」
 彼は、鼻を押さえ、
 「…ううん、大丈夫。にしても、家の場所、よく分かったね…。」
 「この島の人が、親切でよかった。」
 「…水かきと、翼は?」
 「海から上がると、消えるようになってるの。」
 ちなみに、今の彼女の服も、島民のそれと全く変わらない。
 ミナギが、シオのそばにやってくる。
 「…この女の子かい? セーメっていう、マーキュエルは。」
 「うん。…あ、こっち、俺の婆ちゃん。」
 「あ、どうも。…それより、あなたの両親って、何者なの?」
 「へ?」
 「仲間に、色々と聞いてきたんだけど…確かに、ショウって人と、エナって人は、こっちに来たことがあるって。」
 「…そっか…。」
 シオは、悲しみの色を表に出さなかった。
 二人の生存を、密かに期待していたのだが−
 「…でも…『フーティ』として迎え入れられてる、なんて…。聞いたときは、冗談だと思ったわ。」
 「!? フーティ!?」
 「え…あの、知っているんですか? シオのお婆さん…。」
 ミナギはうなずき、
 「ああ。あんたが『ティクス』で、『フーティ』に会うことが出来ないってこともね。」
 「!」
 「…?」
 話がわからない、という顔をしているシオを見て、セーメが説明する。
 「私たちは、3つのランクに分かれているの。最初、マーキュエルとして生まれた頃は、『ティクス』。その次が、『ノルム』。普通は、その中から選ばれた1人2人が、最上クラス『フーティ』になる、って具合にね。」
 その後を、ミナギが続ける。
 「…けど、クラス内のマーキュエルは、別クラスのマーキュエルと、接触できないのさ。」
 「…! …じゃあ…。」
 「…シオ…ごめん。」
 「…あ…いや、…気にしないで。」
 何とか自分を取り繕おうとする、シオ。しかし、落胆の色を、隠し切れずにいた。

 夜。
 アヤノ家。
 「…それを…あの2人に、渡したかったのかい?」
 シオの手の中にある物を見て、ミナギが言う。
 「…うん。魂が、マーキュエルになって、この世にとどまるんだったら…何とか渡せるかもって、思ったんだけど…。」
 「…いい息子を持ったねえ、あの2人は。」
 「……。」
 ザ…。
 島の中心に近いとはいえ、彼らの家が海の近くにあることは変わりない。
 小さく、波音が聞こえてくる。
 「…。…もしかしたら…。」
 「?」
 「もしかしたら…渡せるかもしれないよ。」
 「え…?」
 「…フーティ達がいる所に、行けるかもしれない。」
 「…!?」
 言葉の意味を悟ったシオの目が、皿のようになる。
 「どういう…どういうこと!?」
 「…そのためには、協力者が必要だよ。」
 「…協力者?」

 月明かりが、海面で揺れる。
 周囲からは、波の音以外聞こえてこない。
 パシャ…ッ。
 出来るだけ波しぶきを立てないように、シオは泳ぎ始める。
 「(…昔は、俺の隣に、父さんや母さんがいたっけ…。)」
 胸中の思いを、僅かに起こる波に溶かすように、彼は静かに泳ぐ。
 「…。」
 感覚を研ぎ澄ませる。
 …先ほどのからの、妙な感覚が、よりはっきりと、彼の体に触れていく。
 それは、彼のちょうど右側から来るものだった。
 誰かが、一緒に泳いでいる。その波が、微かに、伝わって来ていた。
 「(…海中を泳いでいるはずなのに…、ばた足のような波が起きていない…。)」
 仮に、シオ以外の者がそれに気づいたとしても、巨大な魚と思うであろう。
 …マーキュエルという存在に直に触れた、シオ以外には。
 彼は泳ぎを止め、その場に浮かぶ。すると−
 ザパッ。
 予想に違わず、マーキュエルの少女が顔を出した。
 「…人間にしては、随分慎重な泳ぎ方ね。」
 「…魚が眠っているから。」
 シオは、セーメに少し近づき、
 「…頼みが、あるんだ。」
 「?」
 「…<胎動の海>に、連れて行って欲しい。」
 「…。」
 彼女の表情が、一瞬の驚愕の後に、厳しいものに変わっていく。
 「君も、行くんだろ?」
 「…そこまで…そこまでして、<フーティ>に会いに行く気なの…!?」
 うなずく、シオ。その表情は、彼の決意を明らかにさせるものだった。
 「…あそこは…誰も近づかないし、おまけに、あまりにも遠い。マーキュエルでなければ、行くのは無理よ…。」
 「でも…<フーティ>に会うことが出来るのは、そこだけ。」
 「…どうするのよ…拒まれたら!」
 「構わない!」
 「…!」
 「2人が幸せなら…俺が拒まれても、構わない! …受け取ってもらえれば…それだけで、いいんだ!!」
 「…。」
 肩を震わせる、シオ。
 セーメには、彼の言葉が虚勢に聞こえてならなかった。
 拒まれても、構わない。…本当に、そう思っているとは信じられない。
 自分の両親だ。もしも会いたくないなんて言われて、構わないと思えるだろうか?
 …しかし−
 それでも渡したい。どうしても渡したいものがある。
 「…そこまでして渡したいもの…私に見せて。」
 「…。」
 「…協力するかどうか、それで決めるわ。」
 微塵も譲る気配を見せない、セーメの顔。
 それを見て−
 シオは、ゆっくりと、しかし強くうなずいた。

 数日後。
 2人は、定期船の甲板で、海を見ていた。
 「この船に乗って、3時間。…そろそろ、次の町に着く。」
 「…もう一度だけ言っておくけど…。<胎動の海>って、そこから、何日もかかるからね。」
 うなずく、シオ。
 「…決意、揺るがず、か。」
 「…ああ。」
 「…シオ。」
 「?」
 気がつくと、セーメの顔が、海の方からシオに向けられていた。
 その瞳は、人を包み込むような、優しい色を湛えている。
 「…約束するよ。」
 「約束? …何を?」
 しばしの、沈黙。
 それを破ったのは−
 「もしも、あなたの両親が、あなたからの贈り物を拒んだら…。」
 「…。」
 「…私、その2人の横っ面張り飛ばして、何としても受け取らせてやる!」
 シオが思わずたじろぐほどの、屈託の無い笑顔を伴う、セーメの言葉だった。

 −To be continued



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それは、広大な海の中で起こった、小さな物語。
「セーラス」の僅か一部分が舞台の、少人数が関わる、静かな物語。
 …しかし。
 その、関わった者達は…この物語の前後で、自らの運命の道を、大なり小なり違えて行くことになる。
 けど。その事を、彼らが理解するのは−
 …今しばらく、後のこと。

  <SECOND STORY・始原地への旅>

−1−

 眩しいほどの太陽が、命を躍動させる海。
 星と月が、静かに命を包む海。
 敢えてどちらかを選ぶとすれば、少年の場合は後者だった。
 だから彼は、夜の海に浮かぶのが好きなのだ。
 …物心ついたときから−3歳の時からだから、12年程前か−そうだった。
 そして、今も。
 半ズボンだけで、海面をベッドのようにして、微かな波に身を委ねている。

 月光と星の光は海一面に広がり、その下で眠る命達を優しく見守る。

 ぴちゃん…と、微かな音。

 エメラルドグリーンの瞳から流れる、数粒の雫。

 「また…お父さんたちのこと、思い出してたの?」
 柔らかく優しい声が、彼の鼓膜を緩やかに刺激した。
 「…いたのかよ…。」
 涙を指で軽く拭って、姿勢を変えずに声に答える。
 「寝ようとしたら、シオが浮かんでたんだもの。」
 「海の中で寝られるなんて…便利だなぁ、マーキュエルって。」
 マーキュエル。海の中に生き、数多の生命を見守る天使。
 シオと呼ばれた少年の隣で、海面に肘を突いている少女も、その1人だった。
 「…明日、だね。」
 「…ああ。」
 「念を押すけど、決意は揺るがない?」
 「…ああ。」
 「…そ。」
 少女は肘を海中に降ろして、潜る体勢を取り−
 「セーメ。」
 自分の名を呼ばれ、少女−セーメは、シオの顔に視線を戻す。
 「ん、何?」
 「ちょっと気になったんだけど…。マーキュエルって…何でそんなに、自分のランク上げにこだわるんだ?」
 マーキュエルには、3段階のランクが存在している。
 セーメに代表される、人間と接触することも可能な最低ランク−『ティクス』。
 彼女達がこれから上がろうとする中級ランク−『ノルム』。
 そして、さらにその上−未だ数えるほどしかいない、最上ランク−『フーティ』。
 マーキュエル達は、自分のランクを上げるために、遥か南の地「胎動の海」へ向かって、旅をする。
 「う〜ん…。…こだわるっていうか、本能みたいなものかな。」
 「本能?」
 「そう、本能。…私たち、時が経つにつれて、自分の力が強まっていくの。」
 「ああ…それ、婆ちゃんから聞いた。」
 「でも、その力を…このままの姿で保つことは不可能なわけ。」
 「…ひょっとして…その強まっていく力が、体内に収まりきらない…とか?」
 セーメはうなずき、言葉を続ける。
 「だから…私たち『ティクス』は、ある時期がきたら<胎動の海>へと向かうわけ。新しい力の器を手に入れるために、ね。」
 「…なるほど。」
 数秒の、静寂。
 「…って…あれ? でも、何でその…<胎動の海>への行き道が分かるんだ?」
 「…分かるんじゃないんだ。『知って』るんだよ、気が付くと。」
 「…知って、いる…。」
 「うん。マーキュエルはね、教えてもらうことは無い。自分がマーキュエルになったと気づいたとき、必要な知識は全て持ってるんだよ。」
 「…凄いな、なんだか。」
 思わず、ため息が出てしまう。
 自分が探究心の塊と思ったことはあまり無いが、こうやって自分の知らないことを自分の手で解き明かしていく…というのは、つい気分が高揚してしまう。
 …だが…今は、それ以前にやることがある。
 「…じゃあ…、…また、明日。」
 「ん…、ああ。」
 セーメの姿が、静かに海の中へ消える。

 「…。」
 少年は、思う。
 父も、母も、この月を見ているのだろうか。
 この海の中に、セーメのように身体を委ねているのだろうか。
 中睦まじかった、昔のように−

 −そして。
 太陽が、海を輝かせる。

 −2−

 「…セーメ?」
 それは、人ごみの喧騒を突き抜けて、彼女の耳に届く。
 自分の名がやって来た方向を向くと、1人の少年の顔があった。
 年齢は、セーメより少し上…18歳くらいだろうか。
 淡い青色の長髪とコバルトブルーの瞳を併せ持ち、微笑を口元にたたえている。
 「…あ…。」
 ゆっくりと近づいていくセーメ。
 「…来てたんだ、ここに。」
 「ああ…、昨日着いた。セーメもか?」
 「うん。…あれ…ねえ、カイリは?」
 「…え…、さっきまで一緒に…」
 「クロルっ!」
 弾むような声を伴って、簡単に髪を結わえた1人の少女が二人のもとに駆けて来た。
 年は同じくらいだが…セーメより、少し背は低い。
 漆青の瞳と、銀色と水色を組み合わせたような髪を持っている。
 「もう、1人で勝手にどこかに行かないでよ!」
 「あ…っ。…悪い悪い、いなくなったの気づかなかった。」
 「ったくも〜…。」
 手をあわせて謝る少年に、少女は頬を膨らませ−
 その肩越しで微笑むセーメを、目に止める。
 「…何、笑ってるのよ。」
 「ううん…ただ、いつも仲がいいなって…。」
 「羨ましいんだったら、セーメも見つければ? あたしがクロルを見つけたみたいに。」
 「…いや…今は、そういうの…別にいい。」
 セーメの言葉を聞いた途端、少女−カイリが、眉をひそめる。
 「…あんたねぇ…まさか、ちょっと前に同じ質問したときと、全然考え変わってないの?」
 「な、何よ…悪い?」
 たじろぎながらも答えるセーメに、カイリは大げさに肩をすくめ、
 「…はぁ…あんたってさ、マーキュエルになる前からよっぽど海が好きだったんだね…。…まさか、前は人間じゃなくて、鯨とか魚だったんじゃない?」
 「…はは、は…。」
 頭を掻きつつ、返答に困って苦笑いを浮かべる。
 と、その瞳が一点に集中した。
 「…あ…っ、シオ!」
 人ごみをかき分けて、彼女の元へとやって来るシオに向かって、手を振るセーメ。
 「どうだった、舟の件?」
 「ああ、話つけてきた!」
 『!』
 瞬間、少年−クロルと、カイリの顔に、緊張が走った。
 「…人間…!」
 「セーメ…どういうこと!?」
 その反応は、シオにも変化を与える。
 「…まさか…マーキュエ、ル…? …セーメ以外の…?」
 「あんた…!」
 カイリの叫びは、そこで止まる。
 人ごみの中での議論は、さすがにはばかられたのだろう。
 4人そろって、人気の無い場所に移動し−
 「…で…あんた、一体誰? どうして、私達のことを?」
 「……。」
 解答の是非を、視線でセーメに問う。
 …彼女の首が縦に振られたのを見て、シオは話し始めた。

 「…嘘…正気なの?」
 「自分の両親に…会うため、だと?」
 大きく見開かれる、2人の瞳。
 「…あんたも、セーメも…本気で言ってるの、んなこと!?」
 「胎動の海に行くことを許されているのは、俺たちだけだ。ただの人間には…その資格も、力も無いんだぞ。」
 「…そんなこと…、関係ない! 俺は、あそこに行かないと…!」
 「自分が何を言っているのか、分かっているのか!? 身のほど知らずも甚だしいぞ!」
 「だから、そんなこと関係ないって言って…!」
 「っ!」
 激昂したクロルの拳が、シオの頬をとらえる。
 …が、倒れない。
 口からうっすらと血を流しつつも、その瞳は、まっすぐに彼らを見つめている。
 「…。」
 わずかに気圧される、クロル。
 「絶対に、渡さないと…いけないものが、ある。」
 「…。」
 「俺は…もう一度、2人に会いたい。」
 「…。」
 「…そして…それで、自分に…決着をつけたい。」
 『…。』
 「能力とか資格とか…俺は、そういうもので行くんじゃない!」
 シオの拳が、強く握り締められる。
 「…俺の…意志で、行くんだ!」

 軽い排気音を伴って、小型のモーターボートが海へと出て行く。
 それを操っているのは、シオであった。
 そして、ボートの少し前を、セーメがゆっくりと泳いでいく。
 「…。」
 少し腫れた頬を軽く押さえつつ、シオは水平線を見つめる。
 「…。」
 自分に、決着をつける。
 舌戦の最中に滑り出たその言葉は、これから行く場所に由来するものだった。
 「…逃げていた、のかもな…。」
 「どしたの? また考え事?」
 セーメの声に、彼の意識は現実に引き戻された。
 彼女は、こちらに顔を向けつつも、泳ぎを止めてはいない。
 「お、おいおい、魚達をどかせないでいいのか?」
 「ここら辺は人間たちの領域だってこと、分かってもらってるから。」
 魚達と意志の疎通を交わし、船の通り道で彼らが命を落とすことを避ける。それが、基本的なマーキュエル『ティクス』の役割−と、伝えられているものだが…セーメに言わせれば、正しい伝承であるという。
 「あ。言っとくけど、人が魚を捕まえたりする事とは矛盾しないのか、なんて質問しないでよ。生きるための捕食云々については、ちゃんと認めているんだから。」
 …以前セーメと話をしていた時、マーキュエルの役割に話題が移ったときの彼女の言葉であった。
 「で、話戻すけど、考え事してた?」
 「…、…うん。」
 珍しく顔を背け、言葉を濁すシオ。
 「…あ…、まずいこと聞いたみたい…ね。」
 「いや、そんなことないよ。…ただ…これから行く場所が…。」
 「これから…?」
 しばし、首をかしげて−
 セーメは、目を見開いた。
 「…! あの事故現場!」
 うなずく、シオ。
 これから彼が進んでいこうとする海路の先で、あの漁船爆発事故が起こっていたのである。
 「…じゃあ、そのボートに積まれている花束って…。」
 再び、うなずく。
 「…大丈夫…なの?」
 「…うん。…もう…目を、逸らしたくないんだ。」
 「逸ら…す?」
 「今まで…何度も来ようと思ってたのに、どうしても足を向けられなかった。あの場所に、面と向かう勇気が無かった。」
 「……。」
 「…けど…俺の父さんと母さんは、そんな俺に会いたいと思わないはずだ。自分の弱い心に背を向けている…俺なんかに。少なくとも俺自身は、…このままだったら、顔向けできない。」
 「…。」
 「…セーメ。」
 「…何?」
 彼女の瞳を見据え、シオは自分の思いを放つ。
 「俺を…連れて行って欲しい。」
 セーメが、笑顔でしっかりとうなずいたのは、数秒後のことであった。

 −3−

 −ボートを走らせること、約半日。
 柔らかな陽射しが、その色を朱へと変える頃。
 「…見えてきたよっ!」
 前方を泳ぐセーメが、こちらに顔を向け、一点を指さして叫ぶ。
 少しずつ、ボートの速度を落とし−
 「…この下に…。」
 「…うん。船の残骸が沈んでる。」
 …セーラスの海がどれだけ透き通っているとはいえ、やはり光が届く限度というものは存在する。ましてや、今は夕暮れ時。どれだけ目を凝らそうと、ボートの上から眺めるシオの瞳に、船は映らない。
 シオは、花束をそっと海面に置いた。
 数刻もたたないうちに、それは海中へと沈む。
 「…。」
 ずきり、と、彼の心に楔が打たれる。
 覚悟もしていた。目を逸らさないと、誓った。
  …だが…それでも、やはり−
 ボートの淵を掴んでいる彼の手に、力がこもっていく。
 唇を噛み、涙が溢れそうになるのを必死にこらえる、シオ。
 「…。」
 やや離れた所で彼を見守るセーメにも、シオの表情がはっきりと見えていた。
 そこにあるのは…例えようの無い悲しみと、悔恨。
 …定期船に乗っていたときに聞いた話では、彼はいつも、両親の死に様を夢に見るという。
 とは言っても、実際にそれを見たわけではなく、生き残った漁師達の話や、事故を再現したニュース番組によって、頭の中で構築されたものなのだが。
 …当時、漁師の見習いという立場だったシオは、このときの漁への参加を許されていなかったのである。
 −自分が今まで経験した、両親との幸せな思い出。
 −そこに突然、文字通りひびが入り、崩壊し…気づくと、自分が燃え盛る漁船の前にいる。
 −両親が乗っている船と分かるも…何も出来ない。
 −やがて、船は沈み、爆発を起こし−
 …そういう夢を見てよく夜中に飛び起きる…彼は、そう語った。
 「…シオ…。」
 セーメは、願わずにはいられない。悪夢の呪縛が、この旅で解き放たれることを。
 …そして、彼の願いがかなうことを。

 −その時、だった。

 ざぁ…と、静かな音が響く。
 しかし…周囲を見渡しても、そこに波は起こっていない。

 それに伴って、ボートからやや離れている海面の色が変わる。
 …それは、かなりの速度で、セーメとシオに向かって来た。
 「え…っ?」
 セーメの疑問符は−
 数瞬後、叫びへと変わる。

 魚の、群れ。
 地球での、いわゆる「サバ」。それを2周りほど大きくしたような魚が、大量の群れをなして、彼らへと向かってきていた。
 数百…数千…いや、それを遥かに超える数で、まるでモーターボートのような速度を保ち−

 「きゃぁ…っ!」
 「な…っ!」

 セーメが。次いで、シオのボートが、その群れに飲み込まれる。

 魚群に、悪意や敵意は、微塵も無い。
 第一、そのようなものがあれば、遥か遠方でセーメが気づいているはずである。
 だが、そもそも群れを作るのは、それぞれの個体が弱いからこそ。
 自らを犠牲にして、種を守り抜く…そのような「本能」に支配されている彼らは、こちらに敵意を向けないものをただの障害物とみなし、別の個体に引き寄せられていくなり、そのまま突き進んだりして、その泳ぎを止めることはない。
 …故に、その障害物に対する慈悲や、それをわざわざ避けようという殊勝な心がけなど、持ち合わせていなかった。

 突然の衝撃が、ボートを大きく揺らす。
 「う、わ…!」
 慌てて両脇を掴むも、それ自体が揺れていては無意味。
 あたかもそれは、突然の鉄砲水が襲ってきたようなものだった。
 一瞬の後に、ボートは後方へ引きずられ−
 そして、間を置かずに、バランスを著しく崩し−
 「っ…!」
 シオを、海へ…いや、魚群の真っ只中へ投げ出した。
 「シオっ!」
 魚群から一足先に抜け出していたセーメが見たものは…魚に取り囲まれ、そのまま引きずられていってしまいそうな、シオの姿。
 如何せん、魚の数が多い。加えて、その苛烈なまでの勢いと、それによって生じる海流が、彼の身体の自由を奪っていた。
 「…っ!」
 セーメは、魚達との距離を縮め、彼らに<言葉>を投げかける。
 …それは、実際の言葉ではない。
 思念波…と言い換えるのが、最も近いだろうものであった。

 −今の進路を、変えて…お願い!

 …だが…方向は、変わらない。
 魚群の一部にしか、<言葉>が伝わっていないのである。
 もう一度<言葉>を投げかけるも、結果は同じ。
 さらに、もう一度。…同じ。
 もう一度。…同じ。
 「…そんな…、これが…私の限界…!?」
 彼女の頭を絶望が駆け抜けたのは、ほんの一瞬。
 それは僅かの間に、シオを助けようとする意志に変化し−
 「っ!」
 魚群の中へ、その身を躍らせた。
 瞬間、彼女の身体が、魚の奔流に巻き込まれる。
 流されそうになりつつも、必死に目を開け、シオに向かって手を伸ばし−

 その時。

 <言葉>の二重奏が、魚達の間を巡り、セーメに届いた。
 彼女自身も、咄嗟に自らの<言葉>をそれに乗せ、三重奏へと変える。

 魚達の間にのみ響き渡る、<言葉>の渦。

 魚群が、Yの字型に割れていく。
 その分かれ目から、シオがゆっくりと姿を見せた。
 「シオ!」
 気を失い、沈んでいくシオを、セーメは慌てて抱きとめる。
 そしてすぐに、海上へと持ち上げた。
 …呼吸に、異常は無い。
 思わず、安堵のため息をつき−
 「…まったく、無茶するんだから! こっちが肝を冷やしたわよ!」
 「!?」
 「声をかけようとしたら、いきなり群れに飛び込んでいくんだからなあ…。」
 声の先には…数時間前、先に海へと出ていた2人が、顔を出していた。
 「…クロル、カイリ…!」
 セーメは、シオを抱いたまま2人に近づき、
 「…もう、胎動の海に行ったのかと…。」
 「ま、この身体になって物心ついたときからの腐れ縁だしね。」
 と、肩をすくめて、カイリ。
 「それからすぐに俺も加わって、約束してたもんな…一緒にランク上げようって。」
 「胎動の海で待ってようかと思ったんだけど、どうせこうやって出会ったことだし。あんたとそいつに付き合ってみるのもいいかな…なんて思って。」
 「…2人とも…。」
 セーメの顔がほころびかけた、その時。
 微かに、シオの指が動いた。
 「…う…。」
 「シオ、大丈夫?」
 「…げほ…っ、ごほ…、…ああ、大丈夫…ありがと、セーメ。」
 「じゃ…手、離すね。」
 ゆっくりと、シオから離れていくセーメ。
 「ほんっと不便なんだから、人間ってのは…。」
 「まったくだな。」
 言葉を交わすクロルとカイリに、シオは顔を向け、
 「…2人も、ありがと。セーメと一緒に、魚達に呼びかけてくれて…。」

 …沈黙。

 「…え?」
 「…今…何て?」

 「いや…だから、魚達に呼びかけてくれて…それで、進路が分かれたんだろ?」

 「…え…、ちょ、ちょっと待ってよ、シオ…。」
 「?」
 「…声が…聞こえた、の?」
 「…ん…ああ。」

 『……………。』
 硬直する、4人。

 その言葉の意味を理解し、絶句するセーメ達。
 一方、意味がわからずに戸惑うシオ。

 …上空に瞬き始めた星が、海面に小さく映っていた。

−To be continued




================================================================




 胎動の海。
 いつの頃からか、人々はその場所をそう呼ぶようになった。
 マーキュエル達にもその言葉は受け継がれ、そして…今は、皆が知る言葉。
 セーメ達の旅の目的地であり、シオのそれでもある…生命の始現地といわれる、場。
 彼らの旅は、そこで終わりを告げる。
 果たして何が待つのか、一抹の不安と好奇心を…そして、誰にも妨げられない願いを抱えて、そこへと向かう物語は−
 …1つの結末を、ここに示す。

 <THIRD STORY・永遠の願い>

−1−

 軽い排気音が、暗い海と星空に吸い込まれていく。
 「…よし…異常無い。」
 恐らく、下手にボートの上で持ちこたえて、船底にむやみに傷をつけてしまった…などということが、幸いにも起きなかったためであろう。
 少なくとも、シオはそう考える。
 ボートの速度が、ゆっくりと上がっていく。
 「…。」
 すでに、彼の意識は、数刻前の情景に移っていた。
 「…俺の、身体が…。」

 −最初に沈黙を破ったのは、セーメであった。
 「…手?」
 「うん…手、出してみて。」
 セーメの言葉に従い、シオは彼女に手を差し出す。
 「…一体何なんだ…突然?」
 彼女の後ろにいるクロルとカイリも、複雑な表情を抱えている。
 「…。」
 3人は…マーキュエル達は、一体自分に何を見ているのか。
 先程の言葉に、どんな意味があったというのか…。
 戸惑うことしか出来ないシオとは対称的に、セーメは、唾を飲み込むと−
 迷いを捨てた表情で、彼の手を両手で抱え込む。
 そして、目を閉じ−

 …数えること、十。

 「…!」
 弾かれたように、セーメが手を離す。
 その目は、驚愕に見開かれていた。
 「…間違い…ないよ…!」
 『!』
 「…な…!?」
 シオも、湧き上がる不安を抑えられずにいた。
 「…い…一体、何がどうしたんだよ!?」
 「…こんな、ことが…あるなんて…!」
 「おい、答えてくれよ…セーメ!」
 深呼吸と唾を飲み込む動作を、数回繰り返し−
 言葉を絞り出すように、セーメは言った。

 −意識を、現在に戻し−
 「…まさか、そんなこと…。」
 ボートの上で、自分の身体を注視し続けるシオ。
 その前方を泳ぐセーメ達も、言葉を発することは無い。
 …静寂が、周囲一帯を支配していた。

−2−
 「…?」
 シオが、しきりに周囲を見回し始める。
 「…これ…は…?」
 「凄いね…この距離で、気づくなんて。」
 声の方向に目を向けると、セーメがボートに隣接していた。
 「…風の向きや匂い、波の揺れ…こんなことに気づかなきゃ、漁師なんてやっていけないよ。」
 頬を、汗がつたう。
 「…もう少しかかると思っていたんだけど…セーメの話からして…。」
 「…寝付こうにも出来ずに、一昼夜ずっと進んでいたから…。」
 手の震えを、抑えられない。
 頭の中で、警告信号が点滅を続けている。
 …まるで、嵐の真っ只中に自分から飛び込んでいくような…そんな感覚。
 『両親に会うため』という目的が無ければ、すぐに引き返しているに違いない。
 「…ほら…あれが…。」
 セーメの指さす、先。
 「……!!」
 高く昇った太陽の光さえも吸い込んでしまいそうな大穴が、エメラルドグリーンの光に周囲を取り囲まれて、海の一点に口を開けていた。
 ボートを停止させたシオは、驚愕する。
 「…あれが…胎動の、海…!?」
 セーメはうなずき、
 「…正確には、海への道。大穴に見える漆黒の海の先に、胎動の海が広がっているんだ。」
 「……。」
 クロルの言葉が、シオの脳裏にリフレインする。
 −胎動の海に行くことを許されているのは、俺たちマーキュエルだけ−
 −人間には、その力も、資格も無い−
 その意味が、ようやく理解できた。
 まさにそこは、人間を拒む力を放ち続けていた。
 「…。」
 恐怖が、不安が、シオの胸を締め上げていく。
 −来テハ、行ケナカッタ−
 −ココハ、俺ガ来テ良イ所ジャナカッタ−
 −ココカラ、離レタイ−
 −ソウダ…離レナイト−
 「シオっ!」
 セーメの叫びが、膨張を続ける感情に歯止めをかける。
 「…恐いのも、離れたいのも分かるよ…私たちだってそうなんだし…。」
 「…え…?」
 胸に手を当てて、セーメは言葉を続ける。
 「…まあ…私たちは、自分がどうなってしまうのか分からない、ってことで恐いんだけど…でも、あそこへ行くのは、私たちも恐いんだよ。」
 「…。」
 「…理由は違っても、恐いのは同じ。でも、それを乗り越えるからこそ、…あそこへ行く意味がある。」
 「…。」
 「…一緒に、いるから。」
 「?」
 「…ランクを上げるのは、シオが…お父さんとお母さんに会うのを見届けてから。それまで…私は、あなたと一緒にいるから。」
 そう言ってセーメがシオに向けた笑顔は…強張っていた。
 「…セーメ…。」
 胸が痛んだ。
 自分のために…恐いのを、無理に押さえつけて…。
 「…だったら。」
 「え…?」
 「…俺も、一緒にいる。父さんと母さんを見つけて、目的を果たしても…俺は、セーメと一緒にいる。」
 「…。」
 「…出来る限り…そばにいる。」
 「…シオ…。」
 …静寂。
 今まで何度かあったそれは、気まずいものが多かったが…いまは、何故か安らげる。
 「…行こうか。」
 「うん。」

 シオは、ボートから海中へと降りる。
 …ジャケットの内ポケットの中身を確かめると、ゆっくりと泳ぎ始めた。
 そして…数分間の後、出来る限り息を吸い込んで、一気に潜った。
 …セーメ、カイリ、クロル…その奥に、明るい緑色の海が広がっている。
 セーメの<言葉>が、シオに届いた。
 −私たちに、ついて来て…。
 言葉に従い、泳ぎ始めるマーキュエル達の後に続くシオ。
 …視界が、緑一色と化していく。
 そして…徐々に見え始める、漆黒の円柱。
 「…。」
 海の下を見てみるが…それは、果てしなく続いていた。
 −見て、あそこ。
 セーメの<言葉>に顔を上げると、彼女は円柱の一点を指さしていた。
 …光が見える。
 小さいながらも、強い輝きを放つ光が。
 −あそこにぶつかれば、中に入れる。
 −でも…その後は、分からない。あたし達も、知らないんだ。
 …クロルと、カイリ。
 −大丈夫だよ、シオなら。
 …セーメ。
 彼らの<言葉>が、シオの心を揺さぶっていき…そこに、決意を生み出す。
 聞こえるかどうか分からなかったが、彼は、3人に向かって胸中で言った。
 行こう、と。
 …セーメ達はうなずき、光に向かって泳ぎ始めた。
 シオも、進み始める。

 …光が、近づいてきた。

 …小さく見えたはずの光は、予想に反して、彼ら全員をすっぽり包み込んでしまうほどの大きさがあった。
 光は、確かにまぶしい…が、目を突き刺すような強さは感じられない。

 −…後ろから、仲間が来てる。
 −…本当…他のマーキュエル達が近づいてる…。ここでぐずぐずしていられないよ。
 −みんな…、シオ…、行くよ。
 …彼らは、光の中へと飛び込んでいった。

−3−
 ざあ…と音がして、世界が渦巻いた。
 「…!」
 光を抜けた一瞬の後。
 4人は、その中に渦巻く流れに、一瞬で散り散りにされてしまった。
 「…セーメ…ぇっ!」
 声が出ることに驚いている暇は無い。
 昨夜の魚群の流れと、激しさも規模も、比べ物にならなかった。
 どうにか目を開けるが…何も見えない。
 ただ…1つだけ感じる、確かなこと。
 「(……落ちている…!)」
 自分の身体が向かっているのは…確実に、円柱の底。
 しかし、それが分かった所でどうにもならない。
 流れに抗うことが出来ないのだ。
 「(…こんな、こん…な…!)」
 ここまで来ておきながら、何も出来なくなってしまった。
 悔しさが、シオの心を満たす。
 涙が、流れの中へと消えていく。
 その間にも身体は、落ちて…落ちて…ひたすら落ち続け−

 「…!」
 シオの耳に、微かだが…セーメの声が聞こえて来た。
 …少しづつそれは、はっきりと聞き取れるようになっていく。
 「…。」
 <…意識を…持ち続けて…。…シオなら…出来る…。>
 「…セー…メ…。」
 <…あなたの…力…私達と同じ、その力があれば…。>
 −シオの脳裏に、セーメの驚く顔が浮かぶ。
 −そして…昨夜の、彼女の言葉。

 「…私達と、同じ…力を、シオの中から感じる…。…マーキュエルの、力を…。」

 …目を閉じて、シオは、身体の力を抜く。
 頭の中に、自身の意識を定着させる…そんなイメージを浮かべて、流れに身を任せていく。
 …数分後。
 まるで、川の上流から下流へと流れてきたかのように、流れが緩やかになり…そして、身体が止まった。
 ゆっくりと、目を開ける。
 「…!」
 藍色の海と、数え切れないほどの淡い光球が、視界の全てを支配していた。
 慌てて周囲を見回し、そして…絶句する。
 シオの身体もまた、光球と化していたのだ。
 「…こ…これは…!?」

 「…これが…胎動の海、なんだ…。」
 聞き知った声の方向にあったのは、やはり光球。
 「…セーメ…なのか?」
 「うん。クロルとカイリも、すぐそばにいるよ。」
 さらに2つの光球が、…クロルとカイリが、彼らに近づいてくる。
 「…俺達…一体、どうなったんだ?」
 「…命の素体…みたいなものになったんだと思う。」
 「…素体…。」
 「うん。…ほら、上見て。」
 セーメの言葉に従い、視線を上に向けたシオの視界に−
 分解し、融合し、そして…海面目指して上昇していく、光球が映る。
 「…新しいマーキュエルや、生命達が生まれていく…。」
 『……。』

 −ココガ…胎動ノ海…。
 −ダケド…コレカラ、ドウシタライインダ…?
 −…父サント母サンニ、会イニ行クニハ…ドウスレバ…!
 …その時。
 「…!」
 シオの視界が、突然光に包まれた。
 「な…!?」
 「シオ! それは、この海の<情報>だよ!」
 「…!?」
 「恐がるものじゃない。おまえが強く望んだから、おまえの中にそれが流れ込んできたんだ。」
 「そのまま目を開けていれば、自然とあんたに溶け込んでいくよ。」
 クロルとカイリの言葉の通りに、シオは、その光から目を逸らさずに−
 「…!」

 …光が、消える。
 シオは、<情報>を理解する。
 自分が何をすべきなのか。どうすればいいのかが、はっきりと分かる。
 …彼は、動きはじめた。

−4−
 …2つの人影が、海の中を進んでいく。
 命の根源を司る深海の守り手、マーキュエル<フーティ>。
 その背にある翼は、ティクス以上に長く、大きく、透き通っている。

 …ゆっくりと降り始める、マリンスノー。

 それに混じって。

 『…?』
 同時に気づく。
 光が、彼らに向かってきていることに。
 …4つあったそれが、少し離れた地点で3つ止まり、残った1つが、2人のマーキュエルのすぐそばへとやって来る。
 その美しい光に、2人の顔が照らされた。
 …男女。年は、30代後半であろうか。

 『…!』

 2人の顔が、驚愕に見開かれる。
 そこにある光が何なのか…はっきりと分かったからだ。

 「…シ…オ…?」

 …光が、その形を変えていく。
 緩やかに膨張し…細長くなり…そして、人の形へと。

 「…どう…し、て…。」
 マーキュエルになったその時、その記憶は、思い出の一つとなった。
 自分達の役割がどれだけ大切か、頭の中に刷り込まれていた。
 …だが。今は。

 「…お前も…まさか…。」

 光から姿を現したシオは、首を横に振り−
 彼らの…シオの父親と母親、ショウとエナの額に、そっと掌を当てる。
 瞬間。

 『!』

 光がはじけた一瞬後、ショウとエナに、シオの今までの記憶が伝えられる。
 どうして…どうやって…ここにやって来たのか。何故ここに来れたのか、が。
 …二人の額から掌を離し、シオは自分の内ポケットをまさぐって−
 彼らに、1つの小箱を渡す。

 「…これを…私達に…?」

 うなずく、シオ。
 ショウがそれを受け取り、箱を開ける。

 …2つの、指輪。

 海をその形に切り取ったような、クリスタルブルー。
 流れるような文体で裏に刻印された、2人の名前。

 「…父さんと…母さんが、あの漁から帰ってきたら…渡そうと思っていたんだ。」
 シオは、2人に微笑みかけ−
 「…俺の貯めてた小遣いじゃ…これぐらいのものしか、作ってもらえなかったけど…。」

 「…初めて渡す、結婚記念日の贈り物…受け取って欲しい。」

 …指輪が、そっと小箱を離れ−
 しばし海を漂ったあと、二人の指へと収まる。
 「…シオ…。」
 様々な感情が、彼らの心に入り混じる。
 喜ぶべきことであるのに…安全とはお世辞にも言い切れない旅をしてきたシオを前にすると、とても素直には−
 「…嫌われても…。」
 シオが再び言葉を紡ぐ。
 「…馬鹿な息子とか、親不孝とか…言われて、拒まれても…構わないって、そう思ってた。」
 『……。』
 シオの顔から、微笑が消えていく。
 「…でも…それでも…。…俺…別れの言葉すら言えない事が…本当に、つらかった…。」
 少しずつ、言葉の間に挿入されていく、嗚咽。
 「…御免…な、さい…心配、かけ、て…。…だけ、ど…俺は…!」
 まっすぐに二人を見つめたシオの眼から、涙がこぼれ−

 「…俺は…父さんと母さんが…、世界一、大好きだから!!」

 …静かな、静寂。
 降り積もるマリンスノーの音さえ聞こえるような、本当に静かな…そして、暖かな静寂。

 …ショウが。
 …エナが。

 シオを、優しく、強く抱きしめた。

 …そして。
 時間が経ち…ゆっくりと、シオが2人から離れ−
 「…いつまでも…仲良く、ね…。」
 『…。』
 「…さよなら…。」

 シオの形が、人のそれでなくなり…光となる。

 少しづつ…遠ざかっていく、シオ。

 「…さよなら…父さん、母さん…。」

 彼の視界から、2人の姿が消え−

 その、直前。

 ショウとエナの微笑みが、その瞳にはっきりと映っていた。

 …そして。
 『…。』
 思い出そのものの強さは色褪せることなく−
 彼らは、再び2人のマーキュエル『フーティ』となり−
 再び、深海における生命の流れを、司り続ける。

 −一方。
 シオ。セーメ。カイリ。クロル。
 4人の身体は、胎動の海に戻ってきていた。
 光球ではなく、元々の形を取って。

 「…有難う…セーメ、カイリ、クロル。ここまで…ついて来てくれて。」
 「…ま、あたし達はセーメと一緒に行くって約束だったからね。」
 「礼だったら、セーメ一人に言うのが筋だぜ。」

 「…良かったね…本当に。…シオ。」
 「…。」
 「…お父さんとお母さん…本当に、幸せだったんだね…あなたといた時が。」
 「…え…?」

 「…マーキュエルの姿はね…死んだとき、それまでの思い出の中で一番幸せだったときの姿なんだよ…。」
 「…!」
 「…あなたが、一目で自分の親だって分かった、あの姿は…その年齢の時が、一番幸せだったっていう証拠なんだよ。…それに、あなたのことを…ちゃんと覚えていた。」
 「覚え…て…?」

 「俺たちは、過去を知らない。死んだときの辛さを抱えて、マーキュエルとして生きるのは…可能だけど、辛い生き方なんだ…。」
 「…死に勝るような幸せな思い出を持ち続けない限り…マーキュエル以前の記憶は、無くなるってわけ。」

 「…それ…じゃあ…。」

 シオが、その意味を理解した瞬間−
 セーメ達の微笑みが、霞んで見えた。

 …やがて。
 3人とシオの距離が、少しづつ離れ始める。
 「…お別れ…だね…。」

 「…うん。…でも…」
 「?」
 「…私達は…ここに、海に…ちゃんと、いるから。」
 「…。」
 「…これからも…シオ達を、生命達を、見守り続けているから…。」

 「…さよなら、セーメ…マーキュエル達。」
 「…さよなら…、シオ。私達の…友だち。」

 セーメの、その言葉と共に。
 マーキュエル達は…踵を返し、行くべき場所へと向かっていった。

−エピローグ−
 …そして…半年後。
 シオは、客船の甲板で、祖母のミナギや大勢の乗客と、海を見ていた。
 彼らの手には、花束が握られている。
 …合図とともに、それが…一斉に、海へと投げられる。
 親族や知人達による、事故の追悼式であった。
 …大半の人々が船内に入っても、シオは海を見続ける。
 「…シオ、温かいお茶はいらないかい?」
 背にかかる柔らかい声は、ミナギのもの。
 「風にあたりっぱなしというのも、あまり良くないよ。」
 「…婆ちゃん…。」
 ミナギの方に向き直り、手すりに体を預けるシオ。
 「…聞きたいことが…あるんだ。」
 「…ああ。分かっている…つもりだよ。…嫌でも、気づかざるをえないことだったろうからね。」
 「…何で…俺に、マーキュエルの力が?」

 −波の音と、客船のモーター音。

 「…子供の、頃…。」
 「?」
 ミナギが、話しはじめる。
 「…私が…お前の半分くらいの子供だった頃の話だよ…。」
 「……。」
 「私は、その時…1人のマーキュエル<ティクス>と知り合った。胎動の海への旅を続けている途中…彼女は、そう言っていた。…見た目は、人間の生を終えたエナくらいだったかねぇ…。」
 「…。」
 「…私は…彼女に、命を救われたのさ。」
 「…命…を?」
 「調子に乗って、泳いでいて…気が付くと、ずっと沖まで来ててね。おまけに、足をつってしまって…。」
 「嘘…溺れたの? 婆ちゃんが?」
 「昔の話さ…恥ずかしいから、あんまり人には言わないでおくれよ。」
 そう言って、ミナギは笑みを浮かべ、話を続ける。
 「ま、それで、マーキュエルに助けられて…その時さ。」
 「?」
 「私は…自分の魂が引き戻されていくのを、確かに感じたんだ。私の、『死にたくない』『生きたい』っていう気持ちがあったから…マーキュエルが、引き戻してくれた」
 「…引き戻す…?」
 「…そう。肉体が無事である限り、命を救うことが出来る…マーキュエルは、ほとんどそういうことをやらないけどね。」
 「…どうして?」
 「自分の役割が第一だし、ほとんどが寿命で死んでいくもの達だからね。…きっと、ショウやエナの身体は、あの爆発で…。」
 「…。」
 「…まあ、その拍子に…私に、彼女の知識と力が入ってきたんだよ。全くの…そして、小さな偶然さ…。」
 「…。」
 「…その力は…私からエナへ。そして、今…お前へと、引き継がれている。」
 「まさか…父さんと母さんが<フーティ>になったのも、そのため?」
 「…否定は出来ないけど、ね。でも…それは些細な事だと思うよ。…ショウとエナが<フーティ>として迎えられたのは…2人の心が澄み切っていたからこそさ。」
 「…そう…だね。」

 「…に、してもねぇ…あれから何十年も経って、こんなことが起こるなんて…。」
 「…どうか、した…の?」
 「…あの子を…セーメを、見たとき…一目で分かった…。」
 「…?」
 「…そっくりだった…私を助けてくれた、マーキュエルに…。」
 「え…それって…。」
 「鏡映しとか、そういうことじゃない。あれは…親子の似方さ…。」

 −静かに、波が音を立てる。

 「…そう言えば、さ。婆ちゃん…マーキュエルの姿の意味、知ってる?」
 うなずく、ミナギ。
 「…父さんと母さん…俺が最後に見た姿と、一緒だった。」
 「…だろうね。悔いは残ったろうけど…でも、私が見る限りでも、本当に幸せだった2人は…その時さ。」
 「…婆ちゃん、は? もし…自分がマーキュエルになったら…」
 「…そうだね…おまえが無事にこうやって、私の前にいてくれる…今かねぇ。」
 「…。…俺は…」
 「シオ。」
 「?」
 「…おまえは、これからだよ。まだ、幸せを振り返るには…早いさ。」
 「…。」
 「…最後の最後まで生きて…どんな形でこの世を去るにせよ、その瞬間に思い出すもの…それが、幸せな思い出だよ。」

 「…。」
 ミナギの言葉を頭の中でかみ締めながら、シオは、海の中に視線を落とす。
 …魚達と一緒に泳いでいるマーキュエル達の姿が、見えた気がした。

 −ティクスは、海の命を守る。
 −…フーティは、命の根源を司る。
 −…そして、その中間に位置するノルムは…海を、浄化する役割を担う。

 「…有難う…マーキュエル。」
 今までの思いを乗せたその言葉を、シオは、海へと投げかける。

 …さぁ…と、微笑むように、海が優しい音をたてて、薙いだ。




・了・


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