東方ProjectSS「けーね先生の寺子屋日誌」
Exエピソード「ある日の悩み」
挿絵 : ビバ!!
その日の夜。
「………………」
上白沢慧音は、自室にて陰鬱なため息を漏らしていた。
眉間に幾重ものしわを寄せ、空いている片手で頭を抱えて、「はぁ……」と、肩を落とす。そんな彼女の瞳の中に映し出されているのは、窓から差し込む月明かりと行灯に照らし出された、赤黒2色の彩り濃い紙の束である。
「……どうしたものだろうか」
慧音の思考を苛むのは、如何ともしがたい頭痛。
その原因となっている紙束の正体は……有り体に言うならば、まったくもって芳しくない点数がずらりと並ぶ、試験の答案だった。
今朝方、生徒達に実施した抜き打ちの試験。一通りの授業を終わらせ、明日の準備を整えてから、仕上げとばかりに答え合わせを行っていたのだが――一枚一枚、添削を進めていくたびに、彼女の表情は曇っていくことになる。
問題の半分以上が正解していれば、それは希少な方。真面目な子の答案は、一応回答が埋まってはいるものの、正解率は半分を割る。そうでない、いわゆるあまり真面目とは言えない生徒に至っては、点数一桁、正解率一割という惨状も珍しいものではない。
一人二人がそんな状況なら、不真面目な奴がいるものだと断ずることも出来ただろう。だが、ことごとく揃いも揃ってこの有様なのだ。
「……非があるのは、私か」
慧音の胸に芽吹くのは、苦い自責の念。その視線が、明日の準備としてまとめていた資料群に移る。
今日までに自分の教えてきたはずの内容が、生徒達にろくに伝わっていなかったのではないだろうか。こちらの展開した授業に彼らは付いていけておらず、あまつさえ、その事を自分は気づきもしていなかった……その証拠が、この答案ということなのでは。
もしも本当にそうであるのなら、いち教師にあるまじき失態と言うほか無い。
「――――っ」
八割方の添削を終えたあたりで頭を抱えてしまい、気付けば添削筆の動きを止めてしまっていた。その後「とにかく最後まで務めねば」と、慧音は気持ちに喝を入れ、再び採点を行っていく。
それから程なくして、全員の答案に目が行き通ったあと。せめて残った生徒等のうち誰かしら、良い点でいてくれれば――という彼女の願いは、見事に粉砕されてしまったのだった。
「…………まずいな、これは」
こんな点数を明日皆に突っ返して、そのまま普段通りに授業を進めるのは、あまりにも考えなしだ。即刻授業計画の練り直しをしなければ、と心に決め、一度机の上を整理した慧音は、今度はそこにくだんの資料を並べ、端から端まで目を通していく。
「う〜〜……む」
一分が経ち、二分が経ち。資料を見直す都度、口にする頻度が増えていくうめき声。
確かに、軌道修正すれば良い話だが――と、胸の内に呟く慧音。続く疑問は、腕組みをして首をひねる彼女の口から音となって出る。
「……その場しのぎ、だよなあ」
今回の点数の悪さは、やはり生徒たちと言うよりも、自分の教え方に非があったのだろうと思う。実際、答案を見渡してみれば、明らかに正答率の悪い問題が散見していて、それが回答欄に赤色の×を一様に生み出していたのだ。
試験の答案に対する反省と回答を教え、それからこの資料を用いて、いつもの授業に戻る。修正の第一案としてはそんな所、なのだが。
その場を切り抜けるだけではないかと、疑問が残る。胸の内で、こんな事で良いのかと、流せぬ何かが引っかかる。
「〜〜〜〜」
机の上の紙束とにらめっこを続けたり、姿勢を変えようと立ち上がって部屋の中をうろついたり。
そんな事を繰り返して暫し。気が付くと、急須に淹れていた緑茶がすっかり切れてしまっていた。ひとまず夜のお供の補給をしてこなければ、と思い立ち、慧音は急須と湯呑みを盆へと収めて台所へと持ってゆく。
保温していた湯を急須に注ぎ、湯呑みを一度軽く拭き直して、自室へ戻るため足を進める。
と。
「……」
月明かりが差し込むだけの薄暗い廊下。その半ば辺りで、慧音の足はぴたりと止まる。次いで真横へと視線を投げ、とある部屋の出入り口をその視界に収めていた。
自室をはじめ、多くの部屋と廊下とを区切っている襖の代わりに、そこにはしっかりとした造りの木戸が設けられている。その先にあるのは、日々寺子屋の生徒たちを迎え入れる教室。
態勢を保ったまま、黙考する事しばし。
「っ、」
身を屈めて膝を付き、その手に持っていた、湯呑みと急須と茶菓子の乗るお盆を廊下への脇へと静かに置く。懐から鍵を取り出して木戸の穴へと入れ、回すと、カチリという軽い音が闇の静寂を微かに震わせた。
戸を引き開け、中へと入る。大きな窓からは月明かりが入ってきていて廊下よりも明るく、暗闇に慣れた目にとっては十分な光量と言えた。
歩を進め、段差をまたぐ。黒板を背にして、彼女は教卓から整然と並ぶ机を見つめる。
「……ふぅ」
静寂の中に、深呼吸の吐息が溶けて行く。瞳を軽く伏せること数秒間、次にそれが開いたとき、慧音の視界は己が想像の景色を交えて、その場の有り様を捉えていた。
「――皆、よく付いてきてくれている」
思い返すのは、まず今朝方の、次いでここ数日の授業風景。
生徒一人一人の顔を、態度を、思い浮かべる。既に何日、いや何十日と顔を付き合わせ、名前を覚えてきた、年も性別もバラバラな人間の子供たち。
騒いで、暴れて、迷惑をかけられることだって少なくはない。けれどもそれ以上に、明るくて楽しく、思いやりの有る子たちだ。
そんな彼らに、自分は勉強を教えていく。その復習と習熟具合を見るために試験の答案を作成したり――ほかにも、色々。
「――――」
勉強すると言うことが、これから生きていく上でどのように必要になっていくか。年の違う、自分と年代、立場の異なる少年少女たちに、何を学んでいってもらうべきか。
そう言ったこと一つ一つに、思いを馳せ、胸の内で咀嚼して。噛んで含めて、舌の先へと乗せた声は、
「何を、やっていたんだろうな。私は」
自嘲と呆れの入り交じった、そんな一言だった。
何のことはない、よくよく考えてみれば、そもそも自分の態度にこそ問題があった。何をおいても、どのようにして知識の中へと授業の内容を織り込ませていくべきか――という姿勢が、知らず知らずの内に頭の隅っこに生まれ、意識せずとも表に出てしまっていたのだ。
今回の正答率が悪い問題にしても、まるっきり何一つ教えていなかった、という訳ではない。だが、授業においてさわり程度しか触れていなかった内容を、さらにそこから応用を利かせて、深く読み込んでいる事が前提の問いかけうを行うには、いささか敷居が高かった。時期尚早だった。
今ならば、それが分かる。拳を一つ、こつんと額に当てる慧音。
「――甘えていたんだな」
甘え。そう、甘えと言うべきなのだろう。
何だかんだと言い合ったり、口ごたえをしたり。そんな風でありながらも、この寺子屋での授業を聞いて、その内容理解に務めようとしてくれる生徒たち。その姿勢が嬉しくて、そんな光景を見れる自分は良く出来た教師なのだ、なんて事を、心のどこかで思うようになって。
ここまでの問題なら、きっと皆大丈夫に決まっていると――舞い上がった心持ちのままに、生徒等の力量を度外視した領域にまで、試験問題の範囲を広げた。その結果が、あの点数というわけだ。
つくづく、思い至る。自分が今から本当にすべきは、あの資料を改変する事でも、ましてや点数の悪さを咎める事などでもないと。
「…………」
慧音は、いつしか下がってしまっていた頭を上げ、視線を今一度教室全体へと戻す。
暫しの間、彼女はその姿勢を崩さないままでいた。静かな夜更けの中、月の明かりに照らされながら、凛とした表情で教室に視線を注ぎ続けていたのである。
翌日。
「……亮! 小太郎! 綾子! ――よし、これで全員に返したな」
生徒たちに、昨夜採点し終わった試験用紙を返していく慧音。自分の席に戻った生徒たちの顔は、お互いの点数を見比べたりする中で、一様に曇っていく。
こんな点数を取ってしまって、先生に怒られるのではないだろうか。そんな、声無き言葉がまともに表情へと出ている事を確かめて、
「――皆、今回は悪いことをした。私の落ち度だ」
慧音は、言葉と共に頭を下げる。教室にどよめきが広がった。
「今回の試験問題の出し方は、明らかにこちら側に非がある。触りだけ少し教えた程度で、本来出来る問題ではなかった。……正解した者達は、自分でここまでの自習を進めていてくれたんだよな?」
その言葉に、数人の生徒たちから頷きが返ってくる。
そう。この教室にいるのは、そんな子達ばかりではない。自分一人が知識をひけらかして、付いてこれる者だけ付いて来れればそれで構わないなどと――人の親から多くの子供達を預かっておいて、いち教師としてそんな姿勢を取るのは、否だ。
「今日は、その試験を元に、今一度これまでの勉強を振り返っていこう。試験の用紙を教科書の横に置いて、とことんまで考えて、自分の分かるように書いていくと良い。私も、皆の質疑には最後まで付き合うからな」
そんな言葉を、教室に響かせて。反省も新たに、いつもとは少しだけ異なるこの日の授業が始まっていた――
「…………」
不意に、昔のことを思い出していた。
自室の闇を照らす、行灯の明かりと月の光。「あの時」から多少模様替えをした部屋だが、机の位置などは変わらぬままである。
教師となって、まだ日が浅い頃だった。寺子屋を開講してから年月がそんなに経っておらず、経験不足故の失敗や反省が幾つも目立っている時期だった。
その頃の思い出は、胸の内で色あせることなく残り続けている。どれ一つとして捨てることなど出来ない、今の自分を作り上げてくれた大切な糧だ。
「――で、だ」
視線を落とし、はぁ、とため息。――そこにあるのは、純然たる、真面目でない生徒の試験答案であった。
間違いは多いだけならまだしも、字はよれているし、うっすらとよだれの後が紙の隅っこに残っている。添削用の赤筆も、その動きが鈍ろうかというものだった。
「……返した後で、頭突きコース決定だな」
頭を抱え、そんなことを呟く慧音であった。
たとえ、時代が移り変わろうとも。子供たちに悩まされ、また、子供たちと共に悩む日々に変わりはない。
夜が更けていく中、上白沢慧音は今日もまた、教師としての悩みを抱えながら業務にいそしんでいくのだった。
・了・
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