―Sky Clouder―




 ――ここにいる者達の手で、この白き空を動かそう。
 
 変化を恐れず、停滞を拒み、機械の翼に新たな風を送り続ける事こそが、セルナスというこの世界において君達の成
すべき使命であります。
 
 故に、職務を学び、就労に励み、自己の鍛錬を決して絶やす事の無き様、私どもは切に期待しております。多くを学
んで来た我々とて、その条件になんら違いはありません。
 
 夢や希望は各々違えども、その根源に抱く思いは皆一つ……『新たな空を、この手に』!――



(――ナルティアル・カンパニー第七〇期新入社員を迎えての入社式にて、社長ルファッド=ナイアスの祝辞)





 車の窓外を流れる光景に、気付けば目を奪われていた。
 まばゆい白色に面積の大半を彩られた中空の絨毯が、その下に広がる大地を静かな面持ちで見下ろしている。
 遥かな先へと眼を向けてみれば、三六〇度の全方位に渡って軒を連ねる、緑深き山脈。大きく広がったそれらの稜
線は、まるでそのことごとくが白き空へと切れ目無く繋がっているかのようだった。
 「もうちょっとで到着か――ご苦労様、ヴィル。何度も聞いて悪いけど、皆揃って元気でやっているんだね?」
 「ええ、特に大きな病気も無く。誰もが首を長くして、皆様の到着をお待ちしておりますよ」
 ヴィル、と呼ばれた齢若き執事服の青年――ヴィル=リオカは手元のハンドルを軽やかに操りながら応答を紡いだ
後、ちらりと意味ありげに隣の助手席を見やり「特にレナお嬢様に関しては」と、問いかけの主に対して短く付け加
えた。
 「う、あ……ってこら後ろ、笑うなハルカ」
 簡単に括り上げたブラウンの長髪の下、レナ=ベルンストは、あらわとなっているうなじの辺りをばつが悪そうに
かりかりと軽く掻きむしった。その途中、バックミラー越しに見えたハルカ=ベルンストの表情に対して、眉根を寄
せながら突っ込みを入れる。
 「あはは、ごめん姉さん。でもさ――ねぇ?」
 「うんうん、さっきから話を聞いていりゃ責任があるのはどう考えたってレナ姉の方じゃないか。フォートさんな
んて、今回でたった二度目の訪問なんだろ?」
 「ま、僕としては別に構わないんだけど、君への意見はおおむねカイトに賛成だね。今のうちに、最低限の覚悟は
しておいた方がいいと思うよ?」
 「あ、ん、た、達はぁ……揃いも揃って、よくもまあ」
 ハルカの両脇に座った状態で、ここぞとばかりに言いたい放題の少年と青年――カイト=レーヴェスとフォート=
オーティス。二人がその口の端に挙げている「何年振りかの、レナの帰省」という話題は、今現在他の何にも勝る彼
女の泣き所だったりする。
 ゆえに、彼女は満足な言葉を返せず、溜め息と共に恨みがましい視線をミラーにぶつけるにとどまっていた。
 「はぁーあ……全くもう、こんな薄情者たちが将来の旦那に義弟とはね。ベルンスト家の姉妹は二人揃って、男を
見る眼に欠けているって事かなぁ?」
 「ぎ、て……!?」
 「ちょちょ、ちょっと姉さん、いきなり何を……!?」
 が。すかさずの意趣返し、とばかりに投げつけられたレナの呟きは、あまりにもてき面な効果を当のカイトとハル
カに与えていた。
 当人達は、他の皆にばれぬよう湧き出る動揺を必死に抑え付けているようだが、二人揃って両耳まで真っ赤にさせ
ていては、残念ながらどうあっても報われぬ努力と言わざるを得ない。
 こういった言葉を抜き出して見れば、彼らの舌戦はいっぱしの口喧嘩であるものの、実際の所『深い絆で結ばれた
者達が互いの事をからかっているだけだ』と言うのは、一同の口調に滲む和やかさや車内に漂う雰囲気からも明らか
である。そろそろ到着しますよ、と告げるヴィルの声も、それを最初から見越して自然と込み上げるおかしみに耐え
ているようだった。
 程なくして、『ダシュエティス』の車名を冠した自動四輪車はゆっくりと速度を落とし、やがてその歩みを定めら
れた地点にて完全に停止させる。
 ガチャリと音を立ててドアが開けられた瞬間、彼らを包み込んだのは夏季特有の湿気と暑気。そして、
 『――お帰りなさいませ、お嬢様方』
 門前にて、深々としたお辞儀にぴたりと重なる四つの声。一糸の乱れすらも感じられない使用人たちの所作が、ベ
ルンスト家の長女と次女、そして彼女らのパートナー達を迎えていた。

 C.R(天復暦)二六〇年、海天季二十日。
 ラティメリス国の首都ラムーニア、その住宅街よりやや外れた平地の一角を、豪奢にして巨大な屋敷が占拠してい
る。国内有数の有力貴族が一つ――今こうしてハルカとレナが久方ぶりの帰省を行っている、ベルンスト家の邸宅で
あった。
 ハルカは慣れた様子で穏やかに、レナは先ほどと同じくいささかばつが悪そうな顔をしたものの、すぐに晴れやか
な表情となって――明るく声を揃える。ただいま、と。



                            ・Story‐4th・
                         「故郷の空にて」


〈1〉

 宛てがわれた部屋の窓を開けると、吹き抜ける風に乗って夏草の香りが入り込んで来る。その只中に混じっている
陽気は、紛れも無く近しい人たちの営みから生み出されており、今現在のベルンスト邸宅がどんな状態にあるかを明
確に伝えてくれていた。
 「……お帰りなさいませっ! 本当に、本当に本当にレナお嬢様なのですねっ!? あああああ、お久しゅう御座
います……!」
 「ご病気やお怪我などなさっておりませんでしたか!? 私なんてもう、ルーセスの話を耳にする度、心配で心配
で……!」
 「こ、この御方が、婚約を結ばれたフォート=オーティス様ですか……い、一体どんな手を使って、私たちのお嬢
様を見事篭絡なされたので……!?」
 幾つもの扉や壁を隔てた階下から、この屋敷で働く者たちによる黄色い声の喧騒が途切れる事無く続いている。懐
かしさで耳を傾けつつ、カイトは肩に掛けていた旅行用バッグをどさりと絨毯の上に置いた。
 「『そんなに騒がれる事かな』――って、当たり前じゃないですかレナ様ですよレナお嬢様!? お付き合いどころ
か結婚の約束など、空の王に挑むも同義、キュエルの姿を直に拝見するが如し!」
 「私たち、お嬢様と手を取り合う殿方がこの国にいらっしゃるなど、正直想像もしておりませんでした……うぅむ、
やはり将来の旦那様となられるだけはあると言う事ですか」
 「是非に是非に、詳しいお話をお聞かせ――あ、どちらへ? お待ちくださいお二方! みんな、どうか協力して! 
そっちの逃げ道から塞ぎなさーい……!」
 「――カイト?」
 最後の声は、ノック音と共にドアを隔てた先から生まれて、カイトの耳へと入ってきた。今行くよ、と応えて扉に
歩み寄り、静かに開けて、苦笑を顔に貼り付けたハルカと表情を交し合う。刹那、その表情は柔らかな微笑みに変わ
り、少年は自分も無意識の内に彼女と同じ顔をしていたのだと察していた。
 「何と言うか……随分な人気だよなぁ、レナ姉とフォートさん。一人は自業自得だろうけど、巻き添えをくらって
る方は大変だ」
 「およそ二年半、ちょこっと便りを出すくらいでろくに帰省していなかったからね――ま、仕方ないよ。マナが下
で皆の紅茶を入れてくれるんだってさ、先に行こう」
 言ってくるりときびすを返し、先だって歩き始めるハルカとそれに付いて行くカイト。
 細やかな刺繍を施された柔らかいカーペットの上を歩く間も、使用人らが主になって生み出す喧騒は一向に止む気
配が無く、気付けば階下のみに留まらず、屋敷のそこかしこから同じような響きが聞こえるようになって来ている。
 「はぁー……っ、と。何だか、家を飛び出して今日で三季日(三〇〇日。一季日=一〇〇日)しか経ってないのが、
信じられない。二、三年くらいはルーセスにいた気がするよ」
 ゆったりとした足取りの中、ぐいと可能な限り背筋を伸ばしつつ、ハルカはそんな呟きをこぼす。「ま、確かにな」
と応じるカイトは、その顔に共感から来る苦笑いを湛えていた。
 「交集季の間、とくに色々あったし……帰省の日が遅れるだけで済んで、俺はむしろほっとしているけど。下手す
れば、帰省の予定が丸ごと立ち消えていたんだしさ」
 「あはは、それを否定できないのが怖いよ。過ぎた今だからこそ、今は笑って話せるんだものね」
 そして二人は、苦笑を再度交差させる。
 ……本来、交集季と海天季の境界日前後を目安に、カイト達四人は故郷であるオルザリス国へと帰省する手筈にな
っていた。
 都合の良い頃合を見計らってベルンストの邸宅に各々の家族を呼び込み、揃って食事を楽しんだ後は、暫しの里帰
りを満喫する。併せて「カイトが操るシプセルスの雄姿を、祖父を初めとした家族たちにお披露目する」と、以前に
結んだ約束も果たされる算段となっていたのである。
 その日取りをそれぞれの両親たちと相互に話し合って決めたのが、交集季の四十五、六日頃。――『空の王』事件
がその数日後に起こり、街やその住民たちの生活環境を激しく揺るがす事など、果たして誰が想像出来たろうか。
 加えて、カイトとハルカにはギルドからの連帯責任ペナルティとして『五日間、MG(Material Guild――空晶管
理組合)主催の追補教習に終日参加』『最大十日間の飛雲機操縦禁止』と言った罰則が課せられ、海天季の頭から二
人は満足に身動きの取れない有様となっていたのである。
 「ったく、謹慎が解けた途端に『もう〈フェラーザ〉での雑用バイトは止めたのかい?』だの、大げさに肩竦めて
『これでルーセスの空に流れる安寧も終わりかぁ』だの……連中、良くもあれだけ好き勝手言ってくれるもんだぜ」
 「まあまあ、良い経験が出来たと思っておこうよ。その分、久々の羽休めを思いっきり楽しめるんだしさ」
 そんな会話を続けながら、踊り場付きの広幅階段を軽いステップで降りて行く二人。程なくして彼らは屋敷のリビ
ング前へと辿り着き、ドアを静かに押し開けて中へと入る。
 拍子、部屋の中央より「ハルカお嬢様」と女性の声が聞こえて来た。少し耳を傾けてみればそれは、先ほどダシュ
エティスより降り立つ一同を迎えていた四つの声のうち一つである。
 「有り難う、マナ。姉さんはまだ暫く皆と追いかけっこをしているでしょうね――もう、だから『せめてこまめに
連絡はしておくべきだ』って釘を挿しておいたのに」
 「まあ、それでもこの騒ぎが収まっていたかどうかは不明ですが。何しろハルカお嬢様もレナお嬢様も皆にとって
この上なく愛しき花なのですから、長き不在が重なれば誰もがああなってしまうのは当然でしょう」
 マナ、と呼ばれた女性は、見たところ二十代後半の容姿を備える長身黒髪のメイドだった。彼女はハルカとそんな
受け答えを行いつつ、緩やかな手さばきでソファ前のテーブルに置かれたカップへと紅茶を注いで行く。大きく開け
放たれた窓から風が吹き込み、ふわりと軽やかに臙脂のエプロンドレスのすそをなびかせる他、その一連の動作には
微塵も乱れる所が見受けられない。
 「ハルカお嬢様は、まだ皆への挨拶をなさっておりませんよね? 後々に行われるおつもりですか?」
 「うん、何だか今出向いたら、それこそ収拾が付かなくなっちゃうと思うんだ。それより……ヴィルからも聞いて
いたけど、本当に皆、元気にしていて安心した」
 「ええ、折角お嬢様方二人が久方ぶりに揃われるこの大事な折に、私たちがしゃんとしていないわけには行きませ
んから」
 そう言って微笑む彼女に対して、ソファへと腰掛けながらハルカもまた同じく笑顔を返す。紅茶の香りをまず味わ
った後、ゆっくりとカップに口を付けて、
 「――ましてや、フォート様に加えて、ハルカお嬢様を託しているレーヴェス家のご子息がご随伴となれば、尚更
のことです」
 続く言葉を聞いた瞬間、二人は揃って思いっきり紅茶を噴き出してしまいそうになっていた。げほげほと勢い良く
咳き込む事数秒間、その後恨みがましい眼差しで彼女を見据えるハルカと「全くもう……」という言葉で口火を切ろ
うとするカイト。
 「げほ……そういう突拍子も無い切り出しの仕方、ほんっとに変わっていないんだね、マーナフさん。ったく、油
断してた」
 「はぁ……それって、またシルトからの直伝なの……? 好い加減、そんな方面の腕を磨くのやめて頂戴ってば」
 「恐縮に御座います。まあ強いて言うなら、切り出すタイミングは紅茶を飲み終えた後の方が適切でしたね」
 褒めてなどいないしタイミングがどうという問題でもない、というマーナフ=リオカ――マナ、と言うのはベルン
ストの家の者が用いる愛称である――への突っ込みは、カイトとハルカの胸中で「言うだけ無駄」の六文字によって
押し潰され、いとも容易く霧散する。直属の上司とでも言えば良いのだろう、彼女は元よりその他のメイド達の働き
をきっちり統括している眼鏡女性――『婦長(マスター)』シルト=キュエリア、のにこやかな笑顔が二人の脳裏に
浮かび上がり、揃って溜め息を吐かせる結果と相成った。
 「まあそもそも、シルトが今いたら皆があんなにはしゃいでいられるわけないか。確か母さんと一緒に、お祖父様
の診療に付き添ってるんだよね……、……大丈夫なのかな」
 ハルカの語尾は、祖父の体調をおもんばかる過程で沈みがちになって行く。そんな彼女の肩に優しくマナが手を置
き、交錯させた視線に『心配ありませんよ』という揺るぎ無き言葉を込めていた。
 リビングの隅に置かれている通話機がけたたましい音を鳴らしたのは、その直後の事。駆け寄って大きなイヤホン
型の受話装置を耳に当てがい、きびきびと応対を始めたマーナフは、それから程なくして『え?』と繕い無く声のト
ーンを跳ね上げていた。
 「あの、ジンク様? それは、一体どういう――?」
 『ジンク』の語句に耳ざとく反応したのは、改めて紅茶に口を付けていたカイトである。ソファから立ち上がり、
マーナフの元に近付きつつ「父さんからなの?」と小さく尋ねると、肯定の頷きが返って来た。その顔に色濃く張り
付く戸惑いの表情が、彼の心をざわりと波打たせる。
 「――ええ、カイト様だったら、こちらにお着きです。今、私の傍にいらっしゃるのですが……」
 「ちょ――マーナフさん御免、貸して! もしもし、父さん!?」
 叫ぶが早いか、カイトはマーナフの手から受話装置をひったくるとそれに叫び声をぶつけていた。相手側の驚愕が
刹那の沈黙を生み出した後、「久しいな。カイトか」と壮年男性の声が装置の向こう側より聞こえてくる。間違えよ
うも無い、父――ジンク=レーヴェスの口が紡ぐ言葉だった。
 「いきなり叫ぶ奴があるか、思わず心臓が跳ねたぞ」
 「あ――御免。いや、父さんと話してたマーナフさんの様子がちょっと変だったからさ。何かあったんじゃないか、
って思ったら、つい……」
 「ああいや、心配は要らんよ。ただ――ちょっと今、家に厄介な客人が来ていてな。お帰り頂かない限りは、どう
もそちらに向かえそうもないんだ。すまないが到着が少し遅れる事になる、とマーナフさんに言っていたところだよ」
 今も母さん一人に任せているから、なるべく早めに戻ってあげないといけない――と、ジンクの言葉は続く。耳を
通して心に届くそれらの声はカイトの波打っていた心を優しく落ち着かせるが、話の筋を理解するうちにそれとは別
種の不安がむくむくと鎌首をもたげ始めていた。
 「ひょっとして、仕事の関係? 話がこじれていたりするの?」
 「要約すれば、そう言う類だな――何、心配はいらんさ。ベルンストの方々と同じく、少しでも早く用を片付けて
行けるようにするから、皆にくれぐれも迷惑かけずに待っているんだぞ。私たちだって、お前の元気な顔を早く見た
いからな」
 「――うん」
 その頷きを合図にして二言三言簡単に交わした後、父と息子との通話は切れた。「何て言ってたの?」と尋ねて来
るハルカに対し、カイトは先ほどの会話の内容をかいつまんで話す。
 「ふぅん、厄介な客人ねぇ……でも仕事の関係だったら、どうしてわざわざおじ様とおば様の家に直接やって来る
んだろ? こういう場合、普通だったらFG(Factory Guild――工房組合)を通すよね?」
 「余程の緊急か、それとも何かの理由で通す事の出来ないイレギュラーな分野の仕事とか……何せお二方の力は、
ラムーニアのFG内でも随一と謳われるほどですものね」
 ジンクとその妻――カイトの母、フレア=レーヴェスの二人は現在、王都ラムーニア第七地域のFGに所属して飛
雲機の整備や改造と言った職務に携わっている。マーナフの言葉にある通り、一般的な飛雲機関連の仕事であれば、
FGへの要請を通じて行われるのが世界広く共通している至極真っ当な手順である。
 ゆえに、そう言った守られぬ約束事に生じる違和感はカイトやハルカのみならず、ベルンスト家の使用人というク
ラウダーと直接関わりのない者にまで、妙な居心地の悪さを提供していた。
 「さっきの通話ではああ言ったけど――」
 「なんだか、ちょっと心配だよね……」
 言葉を交わして、二人は開け放たれた窓へと視線を向ける。長方形に大きく切り取られた風景の中には白く晴れ渡
った夏の空とラムーニアの遠景が見事に調和しており、そこから吹き込む風は相も変わらず清涼であったが――その
奥底、見えぬ深度に織り込まれている僅かな湿り気を感じたかのように、カイトとハルカはぶるりと小さく身体を震
わせた。それが単なる気のせいなのか、それともクラウダーやナビパートナーとして世界の大気を常時敏感に感じ取
っている為なのかは、どうにも釈然としなかった。

 ちなみに。
 それから少し経って、フォートを巻き添えにレナがリビングルームへと転がり込み、それを追って来た一部のメイ
ド達がハルカ達を発見するや「何年ぶりか分からぬ、ベルンスト姉妹の揃った姿」に屋敷の中が沸き立つ事になる。
この家にて働く面々がどれだけ自分たちの使える主らを愛しく思っているか、という事に由来する、小さな余談であ
る。
 同時にこの時、そんな姉妹二人と一緒にいた男二人にも数多ある視線が突き刺さっていたのだが……片やカイトは
元からベルンスト家に親交があり、多くの者達にとって既知の存在。片や馴染みの薄いフォートにしても『あのレナ
お嬢様を見事惚れさせた殿方』と、妙な尊敬が半分、やっかみが半分と言ったところであり、何にしても本気の敵意
がそこに込められる事は無い。
 邸内にて織り成される騒がしさは、やかましくも何処かしら心地よいものとして、暫しの間止まる事無く続いてい
たのだった。

 ――やがて。来るであろう客人を待ち始めてから五分が経ち、十分が経ち、二十分が経ち、三十分が経つ。屋敷の
騒がしさも一段落が着き、レナとフォートがマーナフに紅茶を入れてもらっても、四人全員がそれをお替りして飲み
終えても、レーヴェス夫妻が屋敷の玄関口に立つ事は無く、また通話機の向こう側から声が聞こえて来る事も無かっ
た。
 『…………』
 帰省した事で昔話に花が咲くも、それが延々と続くわけも無く、静寂の中で一行はひとまず解散して各々の部屋へ
と戻る。
 約束事や内外問わず連絡をきちんと守る二人の性質からすると、いささか妙な事態であると言わざるを得ない。や
がて、電話が掛かってきてから一時間が経とうかと言う頃、唐突にカイトの居る部屋をレナがノックしていた。
 「出てみようか」
 ドアを開けて顔を合わせた直後、開口一番彼女の紡いだ言葉である。あまりの簡略語句ゆえ一瞬呆気に取られたカ
イトだったが、その表情に滲む緊張を気取って即座に首を縦に振る。レーヴェス夫妻の身を案じ、家へ行ってみよう
と彼女は言っているのだった。
 「気になる――っていやあ、やっぱり気になるんだよね。ついさっきの事なんだけど、アルムの口からちょっとし
た話を聞いてさ」
 玄関に向かって廊下を突き進みながら、レナは後方のカイトにそう切り出す。あくまでも自分の歩調で、しかも後
ろを全く振り返らずに言葉を放つのは、きちんとそれを弟弟子が受け取ってくれていると確信するからこその行動な
のだろう。事実、カイトも早歩きと小走りを織り交ぜつつ、彼女の言葉を聞き漏らすまいと耳を傾けている。
 「あの子がメイド達の中でも熱烈なクラウダー業界のファンだって事、あんたも覚えているだろ? その筋からの
話でさ、何だかこのオルザリス界隈で色々と動きがあるらしいんだ――曰く『何処かの巨大カンパニーが飛雲機業界
への参入を目指して、有能な技術者を片端から誘い、次々と引き抜きまくっている』ってね」
 「え――じゃあまさか!?」
 「勿論、実際に確かめなきゃ何とも言えないけど――最近、このラムーニアで特にその動きが顕著って話さ。事を
成す為であればいささか良識に欠けるやり方さえも厭わない、っていう、きな臭い話まで耳に入ったんだよ」
 「――っ!!」
 ルーセスの空気に染まり過ぎていたかね、とレナの口調は苦い。騒々しい交集期の一〇〇日を乗り越えたあのラテ
ィメリスの古都ではクラウダー稼業が他の諸都市と比べても一際地域と密に関わっており、予備知識も無しに同じよ
うな手法を用いようものならば『無作法者に好き勝手させてたまるか、俺達の街から出て行け』と、雲取りの担い手
たちに加え、一般市民も加勢しての袋叩きに会うのが関の山である。
 だが、今彼らが居る場所はオルザリス国の首都ラムーニア。幾ら南北一続きの大陸上とは言え、都市どころか国も
違っていて、同じ価値観が易々とまかり通る道理は無い。
 「カイト、姉さん!」
 玄関口に辿り着いた二人は、緊迫の面持ちを湛えたハルカとフォートに迎えられる。四人で揃って玄関を開け放ち、
外庭へと続くステップを降りた先には、つい先ほど彼らを此処まで送って来たダシュエティスとヴィルの姿があった。
 「お話は既に、マナより聞き及んでおります。レーヴェス様宅へ、ですね?」
 「姉弟揃って、手回しが早いから助かるよ――あまり時間は掛からないだろうけど、なるべく急いで頂戴ね」

〈2〉

 「――重ねて尋ねるのだが。これほどまでに私たちが頑とした態度であっても、引き下がってくれるわけにはいか
ないのかね?」
 「それが叶うならば、そもそもこれほどまでに時間をかけて粘る事など致しませんよ……ジンク=レーヴェスさん、
フレア=レーヴェスさん。貴方がたの力を何としても我が手に欲しい、と言うのが、上司の勅命ですので」
 「その為の有力なる使者、というのが、フーレさん、貴女と言うわけね。飛空機械関連の事で貴社が特に強い力を
備えている理由、少し分かった気がするわ」
 ベルンストの邸宅から車を駆る事およそ二十分前後、ルーセスと同じく王都ラムーニアの一角に設けられた『雲取
り人区画(クラウダー・セクション)』――もっとも、その規模は標準と比べてやや小さめだが――の中に、レーヴ
ェス一家の住居と彼ら専用の個人工房が軒を構えて隣り合っている。そこから論争と言う形で延々と聞こえて来る三
つの声は、一種のこう着状態を保ったまま既に一時間が経過して久しかった。
 「私としては逆に、お二方が我が社のお出しする優遇条件を前にして、拒否なさる理由が正直分かりかねます。事
実、フレアさんも先ほど『悪い話ではない』とおっしゃられたではありませんか」
 「『悪い話ではないけれど』、よ。良い条件を提示されたからと言って、はいそうですかとFGを簡単に抜けるわけ
には行かないわ」
 「何より、先ほど君が挙げたエンジニア達の名前……それだけの人材を獲得しているのなら、ナルティアル・カン
パニーの飛雲機部門など、本格稼動の前からとうに磐石だと思うのだがね。今更私たちを引き抜く必要があるとはと
ても感じられないよ」
 ナルティアル・カンパニー。先述のレナの言葉に織り込まれていた『飛雲機業界への新規参入を狙う巨大企業』の
名であり、その実績は飛雲機以外の主だった飛行機――AP(エアロ・プレーン)のジャンルにおいて非常に名高い。
そこから遣わされた使者である、ビリジアンカラーのスーツに身を包んだ角縁眼鏡の女性――フーレ=ルメイと、ジ
ンクにフレア二人との話し合いは、このような感じで双方の主張が交わらず、延々と平行線を辿り続けていた。応接
間の机に置かれている三杯のコーヒーは全員のそれが並々と注がれたままとうに冷め切っており、どれだけの時間ろ
くに口も付けられていなかったかが容易に推し量れた。
 互いの口から言葉が一旦途切れ、部屋に設けられた大窓の隙間から風が入り込んで来る。仄かに青紫がかったフー
レの紺髪、しっかりと息子に遺伝しているレーヴェス夫妻の口元や目じり、髪の生え際などがゆるりと撫で上げられ
て、部屋の中に沈殿している重い雰囲気が心なしか僅かに薄らいだ。
 「――お二方は、自らの事を過小評価なさっておいでです」
 長くもあり、短くもあった静寂を、フーレの凛とした言葉が破っていく。ギュ、と小さくソファの軋む音がそれに
伴ったのは、彼女が改めて姿勢を正した為だろう。
 「エンジニアとしての腕、下の者を的確に指導していく事の出来る統率力とリーダーシップ。そして……企業が新
たな分野を開拓する際、非常に大きな比重を占めることとなる独創性。それらを私どもは高く買っているのです」
 言いつつ、フーレは足元に置いていたやや薄手のビジネス用鞄に手を突っ込むと、そこから数枚の写真を引っ張り
出して机の上に並べ始めた。視線を向けた拍子、ジンクとフレアの喉がひくりと小さく鳴ったのは、小さな長方形の
中によくよく見知った光景が切り取られていた為である。
 「これは――」
 全体を統一する蒼のボディカラーと、その中心に真っ直ぐ刻まれた一本のシルバーライン。鋭いやじりか何かの如
く先端を尖らせ、鋭角な二等辺三角形を思い起こさせるフォルムはいかにも『より巧く、より速く空を飛ぶ』事を主
眼に置いて生み出された事を連想させる。故に、写真の中にあるものを『飛行機』ではなく『飛雲機』と紹介された
時、セルナスに生きる数多の人々は容易にその事実を受け入れる事が出来ないだろう。
 「Unfナンバーの刻まれていない希少種、その中でも特に変り種とされる飛雲機……ナンバーSip―001『シ
プセルス』。勿論、調べは付けさせて頂きました。あなた方二人は、コンセプト段階からしてこれほど一般の飛雲機
にそぐわぬ代物を考案するに留まらず、実際に創り上げてしまった。なおかつ、あなた方の息子さんは今現在もこの
飛雲機に乗り込んで雲取りを行い、隣国の街にて生計を立てている。貴機の存在が公になった折の大騒ぎは、当時飛
雲機の部門に眼を向けていなかった我々すらも聞き及んでおります」
 『…………』
 沈黙に苦い響きが滲んでいるのは、少しの間とはいえ、二人が当時の頃に想いを馳せた為だろう。気配の変調を鋭
く感じ取ったフーレは意識して発する声のトーンを僅かに変化させ、己が話の雰囲気に相手を引っ張り込もうとする。
 「既存の枠に捉われぬ発想力と、それを実現させてしまう事の出来るスキル。我が社の新たな工房においては、そ
う言った腕を存分に振るう事の出来る、万全の体制をもってあなた方二人をサポートさせて頂きたいのです。それは、
今現在のラムーニアFGでは決して叶わぬ事だと確信しております」
 「それは、また――随分とはっきり言うものだな」
 淀みも迷いもなく、流麗な響きで次々と紡がれていくフーレの言葉だったが、台詞の最後に小さな棘を感じ取って
ジンクが口を挟む。続けて「私たちには」と、阿吽の呼吸で二人の総意を言葉にし始めたのはフレアの方であった。
 「貴方の言葉が――『今の私たちのポジションが、宝の持ち腐れである』と、そう聞き取れるのだけれど?」
 「ほう――流石、聡明でいらっしゃる」
 揺らがぬ自信を基盤に据えて、はっきりとフーレはそう答えた。口元の両端を僅かに吊り上げたその表情からは、
角縁眼鏡の奥に設けられている童顔と相まって『大人びた若い女性が見せる、どこか無邪気さを伴った純真な微笑み』
という不思議な雰囲気を感じさせる。そこから醸し出される陽性の雰囲気が、時には交渉相手を圧倒し、時にはその
心に鋭い楔を打ち込んだりして、今の今まで彼女に確かな成功を勝ち取らせてきたのだろう。
 彼女の言葉はさらに続く。
 「シプセルスを創り上げ、そして今をもって見事にこの空を渡らせている。その事自体の評価はいささかも揺らぐ
ものではありませんが――しかし。私個人から言わせてもらうなら、それらの事は『費やされるべき貴重な労力と時
間を無駄にした』、それ以外の何物でも在りません」
 『――っ!!』
 息を呑む気配が一つならずと相乗され、刹那の間その場を支配した後、静かに空気に溶けてゆく。
 「相反するコンセプトの飛行機と飛雲機、それら二物を纏め上げて一つの飛雲機へと昇華させた――そのようなモ
ノの制作の為、あなた方はどれだけの貴重な力を注ぎ、そしてその結果何を得ました? 飛雲機の基準から考えれば
失格寸前、そう言われても何らおかしくない機体をわざわざ生み出す為に、一体どれだけの個人的浪費を繰り返して
来たのでしょう?」
 「――――」
 分かっておらぬ筈は無いでしょう、心当たりが無いとは言わせません。視線の中に込められた鋭い光が声無き言葉
となり、ジンクとフレアの瞳から入ってその胸を突き刺す。
 「先ほど私が宝の持ち腐れ、と言ったのはそれです。それだけの技術を正しく有用に使いこなす事が出来ない、し
ない等、一体どれほどの損失を世に生み出してしまう結果となるか……」
 「――――っ、」
 「私どもナルティアル・カンパニーは、今まで培ってきた経験と技術力を活かして、飛雲機と飛行機の両分野を必
ず有用に発展させていきます。だからこそ、是非ともFGではなく我が社でお二方の力を振るって頂きたい。それこ
そシプセルスの如く――あのような、物珍しさありきの道楽品等を作る暇があるくらいなら、」
 「――いい加減にしやがれってんだっ!!!」
 怒りも露わな大音量の叫びによって、びりびりと震える部屋の空気。だがそれは彼らの内誰かによるものでなく、
つい先ほどまでそこにいなかった筈の第四者――カイトによる、少年特有の甲高い声調を帯びていた。

 「父さんと母さんの作り上げた、たった一つの飛雲機だぞ……あんた、仮にも勧誘しようとしている二人の前で、
よくもしゃあしゃあとそんな事言えるな!」
 応接間の入り口に大股で立ち、大きく肩を上下させる雲取り人の少年。鋭く吊り上がった彼の両目には胸の奥より
湧き上がる強い怒りが渦巻き、それが今、真っ直ぐにフーレを射抜いていた。
 「カイト――」
 呆然とした表情で、息子を見つめるジンクとフレア。どうしてここに、と動きかけた口は、しかし続けざまに近付
いて来た複数の足音とそして「カイト!」と言う聞き知った声に遮られる。間を置かず、カイトの後ろに三つの人影
――ハルカ、レナ、フォートの姿が現れ、部屋の内に流れる感情の揺らめきがじわりとあからさまに増幅した。
 かような状況の発生には、幾つもの要因が重なっている。話し合いの場であった応接間の大窓が換気の為にある程
度開けられていたという事、ダシュエティスから降り立って家に近付いたカイトがそこから漏れ出て来た言葉を丁度
耳に入れた事、そしてその内容が『シプセルスを作った事は、労力と時間の無駄だった』と言うフーレの主張だった
事。――直後に在った、息を呑む複数の気配の中には、紛れも無いカイトのそれが介入していたのである。
 自分にとって掛け替えの無い飛雲機であり、両親の苦心の成果でもあるシプセルスを、遠慮も容赦も無く踏みにじ
られた――激情を爆発させ、玄関を手加減無しの力で開け放つや、勢いそのままに応接間へとなだれ込んで行ったカ
イト。その後を慌てて追いかけたハルカ達三人だったが、追いつくには流石に距離が足りず……かくて、現状が成立
するに至る。カイトの怒声が響いた瞬間より、数えてみれば十秒と経たぬ時間であったが、それまでと一変した場の
空気は等しく誰しもの心を捉え、千差万別に揺らめかせていた。
 「――カイト? そう……貴方が、カイト=レーヴェス君ですね。初めまして、私はフーレ=ルメイ。飛空機械製
造企業、ナルティアル・カンパニーの者です」
 「ここに来る途中で、大体の話は聞いたよ。前々から名前だけは知っていたけど……ナルティアルが、まさか飛雲
機を頭ごなしに馬鹿にするような奴らだったなんて、流石に思ってもみなかった」
 「馬鹿に――? 私が、飛雲機を?」
 少年に向けられるや微かに瞠目した瞳、それに相乗するあからさまな疑問符。ソファに腰掛けた姿勢を変える事も
無く、叩きつけられた言葉に打ちのめされるでもなく、ただ『言っている意味が分からない』と、彼女の態度が純粋
にそれだけを告げていた。途端、カイトの思考は、再び激しい怒りによって白熱する。
 「『貴重な労力と時間を無駄にした』って――あんた、今さっき自分が言った事を覚えてないのか!? 一体、どう
やったらあんな言葉をすらすらと――」
 「私は事実を言ったまでですよ、カイト君。当のシプセルスを操り、日々の生計を立て、最も飛雲機を知るその身
であるなら、誰よりも良く分かっている事――そう思っていましたが?」
 「な――こ、のぉっ!」
 「待ってカイト、落ち着いてよ!」
 怒りのボルテージをさらに上昇させて今にもフーレに掴み掛からんと足を踏み出すカイト、そんな彼の身を引きと
めようと必死になって真後ろからその肩を掴むハルカ。自身から一メートルと離れていない所のやり取りであると言
うのに、当のフーレはつゆほどの身じろぎも見せる事無く、先程からじっとカイトに視線を送っている。
 「…………」
 何か、妙だ――騒ぎ立てる二人の後方で、場の様子に視線を巡らせていたレナの感覚だった。フーレと名乗ったこ
の女性が、何の理由をもって突然の介入者であるカイトに視線を定め、こうも挑発を続けているのかが分からない。
レーヴェス夫妻との話し合いが本来の目的なのであり、幾らその二人の息子であるとは言え、どうして彼女は一向に、
夫妻へとその視線を戻そうとしないのだろうか。隣にいるフォートも、そしてジンクとフレアの二人も、レナと同じ
く沸きあがる疑念を隠せず、気付いてみればその場に居る全員がフーレ一人に視線を集中させた形となっていた。
 「謝れ――今すぐ父さんと母さんに、シプセルスに謝れよ! 大体、あんたみたいな人のいる会社に引き抜かれた
って、二人が満足な仕事を出来るなんて思えない! どれだけ飛行機造りが上手くたって、人の飛雲機を馬鹿にする
ような所なんかに――」
 「――なら。今の状態のままでも十二分に、この二人は素晴らしい飛雲機を作れると――貴方はそうおっしゃるの
ですか? その確たる証明が出来る、と?」
 「――っ、そんなの当たり前――」
 「今、私が『無駄』と、『道楽品』と見なしたシプセルスを使っても――貴方はそれを、証明して頂けるのでしょ
うか? 私とて自社の誇りを持ってここにいる身です、その言葉に伴った確かな結果でも無ければ、はいそうですか
と納得するわけにはいきませんよ」
 隠し持っていた抜き身のナイフを、喉元に突きつけるが如く。急激に鋭さを増したフーレの口調から冷たい声音が
滑り出で、カイトのみならず全員の耳朶を痛烈に打つ。
 証明とは、一体――一様の胸の中で疑念が渦巻き、それが心の奥にまで浸透する時期を見越したかのように、彼女
は一拍の呼吸を置いた後、一度皆と視線を合わせてはっきりと告げた。
 「シプセルスの力は予想以上に素晴らしい、それこそ我がナルティアル・カンパニーの生み出す飛雲機すらも凌駕
してしまう程に――その事をしっかりとした形をもって証明してもらえるのならば、先程までの私の言葉は全てが嘘
偽り。直ちに心よりの謝罪を行わせて頂きます上、レーヴェス夫妻お二方に対しての望まれぬ勧誘も金輪際行う事は
ありません」
 『……っ!!』
 驚愕の息を呑む音は、きっかり六人分――レーヴェス親子にハルカ達三人のそれが重複して、部屋の隅々へと染み
渡る。
 「凌駕? 証明……? あんたまさか、この場でシプセルスに雲取り勝負でも吹っかけるつもりかい?」
 「そう解釈して頂いて構いません、レナ=ベルンスト嬢。そこにおわす貴方の妹君や婚約者の方共々、皆様で証人
となってくださって宜しいかと」
 その言葉が語る意味を理解したレナが、全身にぶわりと悪寒の鳥肌を立たせるまでに、約一秒。それから二秒、三
秒と時が刻まれるに連れて、ハルカ、フォート、そしてカイトまでもが呆然と眼を見開き、冷水でも浴びたかのごと
く全身を硬直させていた。
 彼ら四人がフーレと顔を合わせたのは、この瞬間が初めての事である。だと言うのに、彼女はベルンスト姉妹に留
まらず、レナとフォートの婚姻関係まで――それこそ、一般にはまだ公表もしていない情報を抱いて、自分のペース
を欠片も崩す事無く、凛とした姿勢のままソファに腰掛けているのだ。
 元来がレーヴェス夫妻に持ちかけている話であると言うのに、こうも異なった情報がすらすらと紡がれるのは何故
か。創造の範囲ではあるが、浮かび上がってくる結論は一つ――圧迫の度合いが増し、息苦しい空気が場に滞留を始
める中「ちょっと待ってくれないか」というジンクの声が、一旦なりともそれを切り裂いて部屋に響いた。
 「この話は私とフレアに関する問題であって、カイトとシプセルスを巻き込む必要はなかろう? 幾ら何でも、そ
んな無茶な条件をぽんと出されて気軽に了承する事はできんよ」
 「主人の言うとおりです。正直、今の貴方と私たちが、このままきちんとした話し合いを続けられるとは、とても
思えません。先程の話に考える時間を下されば、お返事は必ず致しますので……状況も状況ですし、今日のところは、
出来るなら」
 搾り出すような口調で懇切丁寧に告げる二人の瞳には、しかし硬さを増した拒絶の色が見え隠れしている。暫しの
間、フーレの備える一対の瞳はそれらと視線を交わらせていたが――やがて、
 「――そうですね――分かりました」
 そう告げたフーレが瞳を逸らし、ソファから腰を浮かせた瞬間、応接間の中を漂っていた空気の圧迫が心なしか和
らぐ。手馴れた動作で机上の資料を集め、足元の鞄へと仕舞い込んで一度姿勢を正した彼女は、
 「すっかり長居もしてしまいましたし、今日のところはこれでお暇する事に致します。――ご迷惑でなければ、次
は直にお仕事の場で、話のお時間を頂きたいと思っておりますので」
 最後まで取って置いた切り札、とでも言わんばかりに、そんな言葉を部屋の中に放り投げ――今度こそ完全に凍り
付き、言葉を失う一同の隙間をすり抜けて行った。
 「では――失礼いたしました」
 玄関口にて挨拶と共に頭を下げ、レーヴェス家をゆっくりと後にしてゆくフーレ。ぴんと背筋を張ったその後ろ姿
を、屋内にいた面々の誰一人として見送ろうとはしない。彼女自身もその事を心得ているのだろう、歩みの中で背後
を振り返る素振りは微塵も見せなかった。
 『…………』
 誰もが、喉と四肢を石の如く硬化させていた。
 部屋に落ちた沈黙は、これまでの中でも最も重く、最も性質の悪い部類に該当されるものだった。彼女の言葉にあ
った「直にお仕事の場で」――それはつまり、ジンクとフレアの職場であるラムーニア第七地域のFGにて、先ほど
までと同じように話し合いの席を設ける、と言う意味を内包している。
 仮にもそんな事になれば、必然的にそれはジンク達二人という個人の問題を軽々と飛び越え、一組合と巨大企業の
会談というレベルにまで発展してしまう。両者の間に存在する力の差は厳然たるものであり、それだけに、どんな悪
影響がFGに及ぶか分かったものではない。最悪の場合、第七地域FG丸々一つがナルティアルに取り込まれ、ギル
ドの均衡が大きく乱されてしまう、という事も考えられる。
 「…………」
 席を立つ際に彼女が残していったのであろう、気付けば机上には小さな長方形の紙が置かれ、時折外から吹き込む
夏風にその端をなびかせる。単なる名刺でしか無い筈のそれは、しかし主が退席してさえ物言わぬ圧力を未だ放って
おり、カイトを初めとした一同の影をしっかりその場に縫いつけ、縛り続けていた。

〈3〉

 「――と、まあ……大体、そんなとこかな」
 流石に唇の筋肉が疲れてしまったのだろう、言葉の奔流をそこで区切ったレナは、眼前の紅茶を口に運んで静かに
啜り、ふぅ、と細く長い息を吐き出した。ハルカとカイトは揃って目を白黒させつつ、そんな彼女に労いの言葉をか
ける。
 「……ご、ご苦労様、姉さん……」
 「お疲れ様です……と言うか、よくもそれだけあの時の話し合いをきっちりと覚えていたね。俺、あの時は頭に血
が上っていたから、詳しい部分は正直全然」
 「ん――まあ私からすれば、あんな異常極まる一幕、忘れる方が難しいさ。第一私だけじゃなく、フォートにした
って大分覚えていたろ?」
 話を振られたフォートの反応は、小さく肩を竦める苦笑のみ。君ほどじゃ無いさ、という台詞が、言葉は無くとも
柔らかなその表情にしっかり表れている。
 レーヴェス家での出来事より数時間、ラムーニアの街はすっかり夏の宵闇に彩られていた。今現在、カイト達四人
はベルンスト家の食卓で夕食後の紅茶を味わっていた折であり、同じ場にはジンクとフレア、また当然ながらベルン
スト家の者達も揃い、長方形のテーブルにて各々の顔を付き合わせていた。
 表面上こそは和やかながら、どこか張り詰めた雰囲気の食事が過ぎた後、事の次第を言葉にして放ち始めたのはレ
ナである。彼女の口から紡がれる説明はその一々が細部にまで行き渡り、加えてフォートからの的確な場面補足も手
伝えば、そこに生まれるのは臨場感すら伴う確固とした再現。有無を言わさず、聞き手を納得させるだけの力を持っ
ていた。
 「成る程、と言うべきか……道理で、先程までの夕食に仄かな影が漂っていたわけだ」
 「ジンクさん、フレア――お二方も、しっかりナルティアルに目を付けられていたわけね。漠然とした予感はあっ
たけど……ここまで手が早いとは、流石に」
 「お二方『も』――? お母さん、それって」
 言葉に込められた意味を感じ取り、不安の面持ちを伴って母親――ローラ=ベルンストに尋ねるハルカ。次女の眼
差しを受けた彼女は長髪の下の首を小さく縦に振り、その返答を穏やかな声音に乗せた。
 「ここ数日、私とダインの所にも、続けざまにナルティアルの者が交渉目的で訪れていたわ。貴方達には後々言う
つもりだったのだけど――つい先日には、お爺様の枕元にすらも、ね」
 「ローラの言葉に重なるが、もしかしたら大陸諸地域の各FG、果てはレーヴェスとその細君にまで手を伸ばすか
もしれない……そう危惧した途端にこれだ。いささか予測を見誤ってしまったよ」
 年を取ったかな、と、ベルンスト家現当主――ダイン=ベルンストは、苦笑の皺を口髭豊かな顔面に刻む。もっと
も、五十代半ばに届こうかと言う彼の年齢は、平均的ながらもしっかり伸びた背筋や引き締まった筋肉から容易に想
像出来るものではないが。
 「あいつら――おじさんとおばさんの家だけじゃなく、うちにまでずかずか入り込んで来ていたわけか。あたしの
事やハルカの事、フォートの事まで知られていたのも、そう考えたら当然か……」
 「だけど……一体何なの、あれ? おじ様達の作ったシプセルスは頭ごなしで馬鹿にするし、カイトを散々煽って
勝負なんか吹っかけるし、挙句の果てにはあんな脅迫めいた事まで……どう考えても、無茶苦茶だよ」
 語尾に重なる、ドン、という鈍い音は、わなわなと震えるハルカの握りこぶしがテーブルを叩いた為だった。声音
の調子と言い、その顔に作られた表情と言い、彼女の内より湧き出ている困惑と怒りが如何に激しいか如実に感じ取
れる。声を荒げてこそいないが、それは恐らく、怒りの度合いを困惑のそれが上回り、彼女自身が自らの激情をコン
トロール出来ていない結果に過ぎないのだろう。
 「こんな、こんなのが、ナルティアルのやり方なの――? あんな人達が、今までずっと、シーフィアスやリンコ
ドンや、リガレクスを作って――」
 感情のままに吐き散らされるハルカの言葉だったが、「リガレクス」の名前が出た途端その流れはふつりと断絶す
る。何時しか数対もの視線が彼女に揃って向けられていたが、そこには明らかにハルカの心情を憂慮し、理解する色
が混じっていた。
 「――ご――御免なさい、取り乱してしまいました」
 慌てて頭を下げ、丁寧口調で謝罪をするハルカ。直接身体や視線を向けたわけでは無いにしろ、その言葉は明らか
に、同席する彼女の祖父――ヴォルト=ベルンストへと向けられたものだった。
 齢八十を重ね、身体の節々に故障が見られはするものの、白髪と白眉の下に設けられた瞳には衰えを知らぬ鋭い光
が宿っている。その口を開けばラティオール各王族の耳にまで届く、とまで言われる影響力の強さ、そして何より骨
ばった老躯より滲み出る独特の威圧感は、例え血の繋がった近しい者にとってさえ、畏怖の対象となり得るものだっ
た。
 そんな男の口がゆっくりと開かれ、
 「……なに……気に病むでないよ、ハルカ。寧ろ、わざわざ気を回して自制をしてくれたその気遣いをこそ、わし
はうれしく思う。ナルティアルとて、そのような娘っ子ばかり雇って巨大な形を成しているわけではあるまい」
 ――しわがれた声は、優しく柔らかい響きを紡ぎ出していた。充満している空気の緊張が緩み、ほぅ、という溜め
息が幾重にも連なって吐き出される。恐らくその中には、食卓の周囲で彫像よろしく控えている使用人達のものも混
ざり込んでいるのだろう。
 響きの柔らかさは保ったまま、しかし声の調子を仄かに落として、ヴォルトは次の言葉を紡ぐ。
 「わしの所へやって来たナルティアルの手の者、ダイン達を訪れた連中、そしてレーヴェス君を引き込もうとした
存在……ふむ。連中、どうも様々な方面で、それこそ数多の手法を試しているように見受けられるな。ある意味では、
これもまだ準備段階と言えるか」
 首を傾げる一同の心情を、「それって、一体?」とレナの合いの手が代弁する。
 「ラティオール大陸という巨大な土壌を用いて、自分たちが切り込もうとしている分野で千差万別のアプローチを
試し、方々の出方を探る。効果があれば良し、芳しくなければそれもまた収穫――異なった人脈や力を使い、有効で
ある方法へと変えるまで。……レーヴェス君、少し気になったのだが、こちらに電話して来た時刻と、その時の状況
を覚えているかね?」
 「え? ええ、あの時は、彼女……ルメイ氏との話し合いが始まって十数分経っていました。察するにその後も話
が長くなりそうだったので、席を立って電話を……で、マーナフさんが出て、カイトが」
 「――お義父さん、それは――まさか」
 話を振られたジンクが状況を整理し、回想をしていく中、ダインが放った声には驚愕の色が混じっていた。
 「……ダイン? 私が何か、変な事を口にしたか?」
 「いや――仮にも、の考えでしかないが。……もし、フーレ=ルメイという女性が、その電話の内容に聞き耳を立
てていたとしたら――カイト君らが君たち夫婦の心配をして、様子を見に来る事を……彼女が予想していた、とは考
えられないだろうか?」
 そしてシプセルスを話題に引っ張り出し、己が飛雲機との勝負を吹っかける。勝てば提示した条件はそのまま通り、
たとえ負けたとしても手元には貴重な実践のデータとアプローチの結果が残り、生じるメリットはデメリットに大き
く上回る事となる――時折たどたどしく、けれども一息でダインの口から告げられた内容は、全員を瞠目させて余り
ある代物だった。
 「勿論、仮定の域を出る話ではないし、即断するのも危険だが……実際、ナルティアルの者らが行っている交渉の
手口は、お世辞にも少ないとは言えない種類だと耳に入れている。来訪の兆しが無ければ無いで、また違う形での話
術を駆使していたのだろうな」
 「ち、あいつ――あの時、涼しい顔でべらべらとやたらまくし立てていたけど……可能な限りの無茶をまかり通そ
うって腹なのかい」
 「――そうなると。この食卓においてそんなベルンストの一同が顔を合わせているって事も、この嫌な空気も……
彼女が立てた予測のうちの一つに、入っているかもしれないね。こうして今、僕らが話している事さえも……」
 レナとフォートの沈んだ声音は、この時、ハルカの中に湧いていた怒りに氷点下の悪寒を叩き込んでいた。彼女の
瞳の中にある震えは、もはや怒りを根こそぎ呑み込む不安と困惑、そして恐怖などを表出させてしまっている。
 「……どう、なるのかな、これから」
 誰にとも無く問われた彼女の言葉は、寄る辺無き不安を形にして小さくか細い。もっともこの時、広間は静寂が基
盤となっていた為、全員の耳にそれはしっかり届いていたのだが。
 「――ふむ。このまま煩悶し、立ち止まっているだけでは、万事が連中の思い通りだろうな。手の広さとそれを展
開させる速度を考えるに、他のFGに対しても既に行動は成された……退路は断たれている、と考えるべきであろう」
 そんな中において生み出されたヴォルトの言葉は、ハルカに対しての返答に他ならぬ内容のもの。また同時に、全
員へと投げかける宣告の響きを帯びていた。
 「この状況を良しとせぬのであれば――確たる意志を持って、こちらから一歩踏み出していくしかあるまい。時期
がたてば異なる動きも見えて来ようが、生憎と悠長に待っていられる状況でも無いしな」
 「例えそれが、ナルティアル側の思惑にはまっていたとしても――ですか、お父様?」
 「うむ。だが、良いように四肢を縛られ、操られる事は誰にとっても本意であるまい。それに、向こうとしてもこ
の動きには少なからぬリスクを伴っている筈。わしは、連中の用意したのは『舞台』だと考えておる。故に、そこで
力を示し、巧みな立ち回りを見せれば――」
 「付け入る隙も、抗う手段も見えて来る――?」
 「良い様に丸め込まれて、鬱積した気炎を吐きたい連中を焚きつける事だって可能かもしれない。……その先導を
私たちが買って出よう、とおっしゃるのですか」
 ローラの問いかけを挟んで織り成された、ヴォルトの考案と意思表明。語尾を受け、それぞれの胸中を吐露したジ
ンクとダインに頷きを返した後、猛禽を思わせる瞳がある一点でぴたりと据えられた。
 「――ときに。先程から、一言も喋っておらぬな」
 「――――」
 視線を交錯させる為に、カイトは背筋を改めて首を回した。ゆっくりと、ぎこちなくも思える動作を経て、彼の瞳
はヴォルトのそれに正対してゆく。少年の中で揺らめく光は小さくも凛と瞬き、あたかもそれは、彼が話を振られる
時期を待っていたかのようだった。
 「呆けていたわけでは、あるまい」
 「――爺さん」
 ヴォルトの事を恐れも気負いも無く「爺さん」と呼ぶのは、幼少時に身についてしまったカイトの癖である。無邪
気な好奇心の塊だった頃から既に十余年が経ち、尊敬や畏怖といった気持ちも人並みに育っている少年だが、目の前
にいる実祖父も同然の人物が無闇に恐れる存在ではない、と理解している。それゆえの呼称だった。
 「お前は、如何様に考えておった?」
 「俺は――、――飛ぼう、って。飛びたいって、そう思ってた」
 カイト、と少年の名前が数箇所から飛び出す。たった三文字でも、その中に含まれている感情の揺らめきは複雑に
絡み合い、どれ程のものであるか計り知れない。
 「何時の間にか凄く話が大きくなっているし、正直、その事に気圧されてびびっている所もある。だけど――話を
ずっと聞いている内に、俺、シプセルスで飛びたいって、そう思うようになっていた」
 何故、という疑問の視線は、主として二人の両親やベルンスト夫婦、周囲の使用人たちから投げかけられている。
対して、「やはり」という呆れ交じりの感情は、レナ達から向けられる視線に含まれていた。子供じみているかもし
れないけど、と前置きの呟きを挟んで、カイトの言葉は続く。
 「シプセルスを馬鹿にしたあいつらが一体どんな飛雲機で雲取り勝負を挑んでくるのか、知りたい。何より、そい
つらに勝ちたい。父さんと母さん、そして俺たちの力を二度と馬鹿にするんじゃないって、自分の飛び方で語ってや
りたい」
 言葉ではなく、あくまで飛ぶ事による翼の力で己が心を語る――クラウダーの顔と思いを前面に押し出し、カイト
は言い放った。
 「――言うのは容易いが、リスクは小さくないぞ。自分の為だけでない、誰かの為に行動を起こすのならば、それ
に比例して責任もまた大きく、重くなる。どれだけ囀ろうともお前は年端の行かぬ若造、潰れる事無く想いに応えら
れるのか?」
 気付けば、ヴォルトの声は低く、重く、老いを微塵も感じさせぬ鋭い覇気が漲っていた。話す相手を対等なもので
あると見なし、奥底まで値踏みし、品定めし、丹念に探りを入れる――どれだけ馴染みの深い相手であろうと、その
鋭い視線は欠片とて曇らない。
 そのような瞳を、カイトは持ち得ていない。勿論その事は、彼自身として自覚している。だからせめてその瞳を逸
らさぬよう、真っ直ぐに見つめ返して、
 「――皆となら、出来る」
 迷いを振り捨て、偽りの無い答えを口にした。
 空気が、場の全員が、動きを止める。そんな状態が一秒を数え、五秒を刻み、十秒を重ねて――ほぅ、と吐き出さ
れたヴォルトの息で、漸く再動を始めていた。
 「……ふぅ、む……まあ、なんとか妥協点くらいは進呈出来るか。せめてそこで一言、『やる』とだけ答えられる
ようにならんとな」
 「うん――だけど、クラウダーってのは、一人じゃ飛ぶ事が出来ないから。ハルカってナビパートナーがいて、初
めて俺は力を発揮することが出来る」
 「――――」
 呟きを形にしつつ、カイトはハルカに向き直る。視線を交わした刹那、眼を見開く彼女だったが、ゆっくりと表情
をほぐし、少年の顔に微笑みを返して答えていた。
 「――や、すまないなレーヴェス君。本来、これは親である君らの役割……この老体、いささか出過ぎた真似を晒
してしもうたわ」
 すまない、と頭を下げるヴォルトの物腰は、気付けば先程までの覇気を完全に収めたものとなっていた。
 「……いえ。例え私たちが話したとしても、きっと同じ結果になっていた事でしょう。それにこの馬鹿息子の事で
す、下手に話がこじれたら自分一人で勝手に突っ走って、皆さんに多大な迷惑をかけてしまっていたかもしれません」
 「父さん……」
 ジンクの遠慮ない危惧に眉根をひそめるカイトだったが、面と向かって否定出来ないのが弱い。他方、母は母で隣
に座るハルカに頭を下げつつ「あの子が何か粗相でもしたら、遠慮なく怒ってやってね」等と頼んでいたりして、双
方共に息子の株を上げようと言う素振りは微塵も存在していなかった。
 「まあ――とにかく、私たちは出来る限りの事をするつもりです。こうなれば、一エンジニアとして精一杯の働き
をするまでですよ」
 だがそれでも、続けられたジンクの言葉には、陰のある迷いを吹っ切った響きがあった。そんな夫に倣い、フレア
の首もこくりと縦に振られる。そして、両親の顔に灯った輝きの色を目の当たりにして、己が胸の奥芯をじわりと熱
くさせるカイト。
 「――さて、お前たちはどうする? 連中が手探りをしている段階の今ならば、この機会を利用して何かしら手を
打つ事も出来ると思わんかね?」
 ヴォルトは次いで、己が娘と婿養子に話を振る。言葉の内容もさる事ながら、そこに刻まれた老人の笑みは『にや
り』という擬音すら聞こえてきそうな代物であり、ダインとローラはそれに苦笑いを返す事で声無き答えを出してい
た。
 「何ですか、もう――じい様、さっきからやる気満々で皆の尻を蹴飛ばしてるじゃ無いですか。つまる所、ナルテ
ィアルの連中が気に食わなかったりするので?」
 「は、そう邪推するでないわ。――まあ、息子や孫らを誰ともしれぬ連中に軽んじられて、つい苦虫を噛み潰した
くなる、そんな年寄りのつまらん感傷……とでも、考えておいてくれ」
 冷やかしじみたレナの問いに返って来たのは、未だに底意地の悪さを体現するような笑みから紡がれた、独白めい
ているヴォルトの呟き。それが、子煩悩、孫煩悩と言った感情をこの祖父なりに表した結果なのだろうと、隣席のフ
ォートと共にレナは込み上げて来るおかしさを押し殺す。
 「ともあれ――元よりそれほど選択肢の無い話だったが、どうにかこれで、見据える先は決まりそうだの。――精々、
恥ずかしくない先陣を切るようにな」
 「――――」
 再びカイトに向けられたヴォルトの顔は、口の両端こそ吊り上っているものの、その眼が放つ光に笑みの気配は存
在しない。生唾を一つごくりと飲み込み、少年はこくりと首を縦に振っていた。

 ――その翌日、早朝。
 ナルティアル・カンパニー本社の一室にて、ジンクよりの電話を取るフーレの姿があった。椅子に深く腰を掛け、
眼前の机上にあるメモに素早く筆を走らせる彼女の姿には、電話の向こうから伝えられる内容を予想していたかのよ
うな余裕を窺う事が出来る。
 「――ええ――私どもとしては、その条件で構いません。――はい――はい。では、勝負の日取りは五日後……と
言う事で」
 その後二つ三つと社交辞令を交わし、要件の確認を改めて取り合って、ゆっくりと電話を置くフーレ。メモに視線
を巡らせ、的確に整理されたその内容を確かめると、彼女はそれを手に握って席を立つ。
 己が上司の所へと向かい、足を進める。その相貌には今、眼と口の端を鋭く尖らせた微笑の仮面が貼り付けられて
いる。
 「…………」
 窓から差し込む夏光の眩さを受け、鉄面皮が如し笑みはひたすらに硬質な輝きを放つ。相手方がどのような手を仕
掛けてくるか、それに対していかなる手段を講じるか――尋常ならざる速度で数多の論理を組み上げ、思考をフル回
転させ始めたフーレの内面は、その輝きによって完全に外側からの干渉を遮断する形を取っていた。









 



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