―Sky Clouder―





〈3〉

 カイト達とガルとの勝負が空の一角を騒がしてより、二日後のことである。今日の日付は交集季九十日、後十日も
経てば「海天季」の一〇〇日間と共に、ラティオール大陸北部に本格的な夏がやって来る。この日の天気は、そんな
夏季特有の高気圧によって消滅しようとしている低気圧の、あたかも最後の悪あがきだった。
 「……午後三時三十分現在、突然の乱気流による飛雲機同士の激突事故がルーセス上空で目立っています。一昨日
北へと抜けた低気圧が海上で発達する事によって、午前中を中心に風が強く吹き抜け、その影響でこれまでに既に四
機が空中での衝突を……」
 ラジオの情報番組から流れてくるアナウンサーの声は、外を吹き荒れる強風が窓ガラスを叩く音によって、その辺
りで一時的に聞こえなくなっていた。傍らの椅子に座るカイトが慌てて音量つまみを捻った事で、ナビルームの中を
再び、微かな雑音を交えた音声が飛び交ってゆく。
 「……雨の心配はありませんが、クラウダーの皆さんは注意して雲取りを行ってください。特に今日は、気流に乗
った雲の中をマテリアルが流れる事で、不用意な追跡飛行は衝突の原因と……」
 「アンフィプのラストフライトを行うにしては、あまりも良いとは言えない状態だね。低気圧の動きは早めのよう
だし、もう少し待てば風も収まるんじゃないかな?」
 フォートの提案に「そうするべきかもね」と同意するレナ。カイトとハルカは、そんな二人の言葉やラジオの放送
を聞きながらも、いつも以上に早く流れる雲を見つめ続けている。
 「アンフィプとも今日でお別れ、か……」
 「最近のシプセルスもそうだったけど……負けず劣らずあの機体に無茶させてたよね、私たち」
 「ああ。おまけに、その時期も本当に長かったしな……スクールの時に使ったアンフィプまでさかのぼったら、千
日くらい軽く越えていると思う」
 アンフィプリオンを用いた練習飛行を、今日の雲取りで最後とする――それが、ガル達との勝負後に行ったデブリ
ーフィングの後、二日間の話し合いと幾つかの書類手続きを経て、四人が導き出した結論だった。
 「現在までに培った基礎技量の確認に加えて、訓練の心情的な区切りを明確にする」というコンセプトのもと、そ
の性能の限界まで駆動させて詳細なデータを採取。以降はそのデータを基盤に、シプセルスを専門として腕の上達を
図っていくという工程である。
 レナやフォートのように専用の飛雲機一つを何年も操り、その腕が完全に体の隅々にまで染み付いた状態ならとも
かく、カイトやハルカの不安定さと可能性を残した技術は、これ以上アンフィプリオンに引っ張られるべきではない。
他の新米クラウダー達よりも暫し早い、次なるステップへの昇格を余儀なくされた形だった。
 『…………』
 本来、新米のクラウダー達がこの飛行を行う際は『アンフィプリオンの操縦が自分たちにとってデメリットとなる
事を五感で自覚している』――いわば『見切りを付けている』状態が普通だが、カイト達はそこまでに至っていない
まま、こうして飛ぶ時を待っている。飛行によってその見切りをきちんと付けられるよう、緊張を高めている。
 だからこそ、この飛行の意味は重い。重いからこそ、僅かでも天候の状況が好転してくれる事を、誰もが望んでい
た。
 「姉さん、義兄さん。二人がサルディノの操縦やナビを完全に習得した、って感じたの、どれくらいかかったか覚
えてる?」
 「そうだねぇ……まあ、師匠が師匠だったし、元々私はナビパートナーの訓練から入ってクラウダーの方へ転向し
たから……幾分は早いと思うけど、大体一年半強から二年ってところだったかな」
 「僕も軍兵の期間があったから、まったくのゼロから始めたってわけじゃない。それを差し引いて――そうだね、
大雑把に言っても二年かそれ以上か……」
 「二年間……」
 カイトとハルカがパートナーを組み、師匠二人と共に過ごしてきたこれまでの時間は、およそ三百日弱と言ったと
ころ。二年間と言えばその優に二倍以上、八百日である。
 そう遠くないうちに始まるであろうこの長い期間を、果たして意義有るものに出来るかどうか――それは、この飛
行の結果次第。
 「……お。どうやら、風が弱まって来たみたいだね」
 皆の思いを見越したかのようなタイミングで、窓に視線を向けたフォートがそう呟く。真偽を確かめる為、窓を開
け放ったカイト達は風を肌で感じ、目を皿のようにして雲の流れを捉え――
 「本当だ――ちょっとずつだけど、風が収まり始めている……」
 「この分なら、……いけるね。カイト、ハルカ、用意しな! フォート、私たちもアンフィプで空に上がるよ!」
 声を張り上げ、檄を飛ばすレナ。弾かれた様に立ち上がり、あらかじめ行っていた下準備のもと、皆はそれぞれ、
てきぱきと飛べる態勢を整えていく。
 シプセルスとサルディノを後方に控えさせた格納庫内は、瞬く間にアンフィプリオン二機が奏でるエンジンの駆動
音で満たされた。車輪が回り、格納庫から繋がる飛雲機専用の道路を経て、公共の滑走路へゆっくりと移動してゆく
両機。
 「離着陸途中の飛雲機数、ゼロ。アンフィプリオンの離陸許可を確認しました、発進して下さい。……行くよ、カ
イト」
 「了解。アンフィプリオン、テイクオフっ!」
 遥か上空を流れ行く白い海流に向かって、まず初めにカイトの蒼色機が、次いでレナの朱色機が、勢い良く地上を
離れてゆく。
 「――、――離陸、成功。これより通常飛行に移る」
 エンジンを吹かして加速を付け、高度を上げて行くそれぞれの機体。と、その側面を未だ収まらぬ横風が勢い強く
殴りつけ、危うく操縦桿を取られそうになる。
 「――っ、と! 飛ぶ事に影響は無いけど油断は禁物、って所か。カイト、ハルカ、気流の流れからも目を離すん
じゃないよ!」
 「了解!」
 頭の中に飛行の行程を反芻しつつ、カイトはアンフィプリオンの高度をさらに上げ、そして流れる雲の中へと機体
を突っ込ませる。外からは風に翻弄されているも同然の雲塊だったが、一旦その中へと飛び込んでしまえば、見える
景色はいつもと変わらぬ白一色。しかしやはり、翼の末端に至るまで張り付く風の動きは、飛雲機の挙動に少なから
ぬ影響を及ぼしていた。
 「良いね、今あんた達が駆っている機体はアンフィプリオンだって事を、きっちり念頭に置いておくんだよ。後は、
自分たちのタイミングで事を始めるんだ」
 「了解。カイト――準備は良いね? カウント9でいくよ」
 「ああ、わかった」
 唾を飲み込み、操縦桿を握りなおして、軽い深呼吸を一つ。そして――ハルカの「スタート!」と言う叫びに、カ
イトの操るシプセルスは、本格的なデータ採取の為の飛行を始めるのだった。

 「――――」
 付かず離れず、そして決して邪魔にならずの距離を保った状態で、レナは飛行を続けるカイトに己が視線を向ける。
彼女の瞳に映りこんでいるのは、雲取り場から少し離れた静かな場所にて飛行を続ける、蒼色基調のアンフィプリオ
ン――飛行開始より既に三十分、大きな失敗は今の所見られない。
 この分ならリカバーは必要ないかもしれない、と彼女は胸中で呟いていた。二人が著しく大きな失敗をやらかした
時や再挑戦の時など、急場しのぎにでも正しい飛び方、ナビゲートの仕方を教えてやらなければならない。そんな危
惧を想定して、同型機でこうして弟子の飛び様を見守っているのだが……基本的な速度維持や旋回技能に関しては、
合格点を上げて良いと思う。後は「ラストフライト」や『依存』などと言うプレッシャーを払いのけ、全て首尾よく
運んでくれる事を祈るばかりだ。
 「――ハルカの首尾、現時点においては上々。そっちは?」
 「同報告。段階的に見れば、合格ラインは割れていると思う」
 通信機の向こう側からフォートのささやき声が聞こえて来る。今日に備えて二人のナビコンはある程度距離を開け
ており、フォートにしたって声や唇の動きを気取られないよう注意している筈だが、それでも可能な限り声量を絞っ
ての受け答えであった。
 「シプセルスとアンフィプリオンとの板挟み状態、か。……ここで下手に引きずったりするんじゃないよ、二人と
も……」
 レナの心底に湧き上がって来る不安は、どれほど振り払おうとも消え去ってくれる事は無い。が、そんな彼女をよ
そに、カイトとハルカは持てる技能を力の限り振るい、アンフィプリオンの性能を引き出してデータの要求ノルマを
次々とクリアしてゆく。天候にしても吹く風は少しずつ、だが確実に弱まっていく一方であり、無事に終了出来そう
な予感が、皆の心中を徐々に色濃く塗り潰し始めていた。
 「速度、旋回、限界見極め……上昇下降のタイミング、緊急回避行動……うん、調子良くいけてるね、カイト」
 「ああ、俺も感じてる。大丈夫だ、シプセルスと違う事を身体が認識してくれているよ」
 「次は――雲取り場に入って、他の飛雲機をかわしながら十分間の簡易雲取り。良いね、これがラストだよ――他
のどれでも無い、アンフィプリオンの軌道を取って!」
 「了解。これより旋回、近場の雲取り場へ向かう!」
 アンフィプリオンの機首を雲取り場の方へと向け直し、エンジンを噴かすカイト。Eマテリアルの残量も採取すべ
きデータの一つに入っているが、この項目に関しても今の所問題は無い。
 後は、この簡易雲取りで然るべきデータを取る事が出来るか否か。他の飛雲機を避けようとするあまり、アンフィ
プリオンの持つスペックを超えて動かそうとすれば、それは却って事故や墜落へと繋がる。ただでさえ『依存』を抜
け出しきっていない二人にとっては危険度が一段階跳ね上がっているようなものだが、だからと言って立ち向かわぬ
わけには行かない。
 「…………!」
 操縦桿を握る手に力を込め、奥歯をぐっと噛み締めるレナ。決して内なる動悸を悟られぬよう、平静な態度を保つ
フォート。師匠二人の声無き願いを受け、カイトとハルカは、
 『――、――、――、――っ!』
 ――雲取り場に突っ込み、そして一分、二分と時を重ね始めた。見守る立場からはなんともゆっくりに感じられる
時間だが、それでも確実に時間は経過する――三分、四分、五分、と。
 「――心臓に、悪いね」
 「自分でも驚くくらい、びくついてる……こんな姿、ちょっと隊長には見せられないな……」
 フォートの口から出る『隊長』とは、オルザリス国の現王女護衛騎士、セティル=ヴァルキネアの事を指している。
お互い師匠には弱いね、と返すレナの顔には、拭えぬ苦笑が浮かび上がっていた。
 六分、七分、八分――アンフィプリオンの上下左右を、遠慮も容赦も無くかすめてゆく飛雲機郡。雲取りという場
を共有する商売敵な以上、例えそれが練習機であろうとも手加減をしないのがクラウダー達の礼儀である。一方、そ
の覚悟を抱けぬ者、その上できちんと望まれし結果を出せない者に、この場にいる資格は無い。
 レナ達は言うに及ばず、カイトもハルカも、それをしっかりと叩き込まれてこの日を迎えている。――九分経過。
 「あと少し……このまま、行け……っ!」
 カチカチと刻まれる秒針にすら、際限無き焦燥をかき立てられる。ここまで接触などの事故も無かった、マテリア
ルの容量もノルマをクリアした。――九分三十秒経過。
 「――っ!」
 後は、切り抜けるだけ。――四十秒。五十秒。五十五秒……六秒、七秒。――八――、――九――!
 「十分経過……! カイト、全てのデータ採取が完了! 雲取り場を出て!」
 「っ、了解!」
 カイトとハルカの応答は、言葉こそいつもとあまり変化は無いが、声の響きは上擦りを必死で堪えている。レナと
フォートはと言えば、言葉を発することなく、揃って小さく拳を握るガッツポーズで二人を讃えていた。
 踵を返し、方々に飛び交う飛雲機群より離れて行くアンフィプリオン。最後のデータ採取を行っていたのだろう、
と推し量った幾人かのクラウダーが、機の操縦席より懐古の眼差しを去り行く練習機に送っており、

 ――その時。
 ナビコンが警告音を鳴り響かせると同時。一陣の風が、荒ぶる奔流となって吹き抜けた。

 『――っ!!!』
 まるでその時を待っていたかのように、示し合わせていたかのように、強烈な突風が雲取り場へと流れ込んできた。
中空に浮遊するマテリアルも、数多の飛雲機も、そして二機のアンフィプリオンもその影響をまともに受けてしまい、
急激にバランスを崩してしまう。
 雲取り場を包む雲の外壁が、知らぬ間に強まっていた気流に削られ、風の通り道を生み出していた事が災いした。
雲の壁を突き破って雲取り場を掻き乱した風は、今度は逃げ場を求めて再び唸りを上げ、その流れにマテリアルを乗
せてばらばらに吹き飛ばし、場の内に保たれていた均衡を一気に破壊したのである。
 「――!? まずい、雲が崩れるぞ!」
 そもそも雲取り場とは、一定以上のマテリアルが一つ所に集まった事で、それぞれの持つエネルギーが相互に干渉
して大きく纏まり、周囲の雲をある程度の距離まで等間隔に遠ざけて成立する。なら、そのエネルギーのバランスが
急激に崩壊すれば、一体どうなるか。
 勿論、クラウダー達にとっては周知の事。それゆえ、雲取り場を破壊する程までに、彼らがマテリアルを採取する
事は無いのだ。
 ――それもこれも。その果てに起きる『雲崩れ(クラウド・ブレイク)』を強く恐れている為である。
 「う、わあぁぁっ!?」
 堰を切ったかのように、怒涛の勢いをもって膨大な量の雲が流れ込んで来る。四方八方より、先ほどまでマテリア
ルの散在していた空間に向かって。
 さながら雪山の雪崩の如く、襲い掛かってくる白色の質量。一刻も早い雲外への脱出の為、多くの飛雲機は咄嗟に
操縦桿を引き上げ、最も雲取り場と外界との距離が近い地点――この場合は上へと機首を向け、そして最大速度で上
昇を始めていた。
 「く――規模がでかい! アンフィプで行けるか!?」
 「上方を右に5度修正、崩れの僅かな継ぎ目を確認できる! ハルカ、カイトにも伝えるんだ早くっ!」
 フォートの指示に従って、レナは上昇を続けるアンフィプリオンに微細な傾きを与えてゆく。下方を見れば、既に
雲の奔流は雲取り場の蒼を白一色に塗り潰してしまっていた。
 確かに、上の方からやって来る雲は少ない――これなら、ひ弱なアンフィプであってもなんとか――
 「カイト! おい、聞こえるか!? 付いてきてるか!?」
 通信を開いて呼びかけるレナだったが、其処から聞こえて来るのは雑音のみ。他の奴らも無事を確認しあっている
だろうし、一時的な混線にでもなっているのだろうか、と、もう一度呼びかけようと、
 「……カイトぉっ!!!」
 ――瞬間、何かの激突音、次いで聞く者の心を凍らせる爆砕音。フォートとの無線を通してさえ、ハルカの絶叫が
鼓膜を貫いていた。

〈4〉

 ばしゃぁ、と言う水音を伴って、身体が一気に引き上げられた。
 「……くぅ……っ、げほ、げほげほ、ごほぉっ!」
 ドタ、と肩から甲板に転がり落ち、次いで何度も激しく咳き込む。目や鼻や口に勢い良く入ってしまった海水で、
眼と言い喉と言い、そして鼻の奥までもがジンジンと痛い。そのせいで暫しの間、助けてくれた人の顔を見る事も、
何かを呼びかけられていると言うのに満足な返答も出来なかった。
 「かはっ、こはっ、……う、ぐ……っ」
 「――カイトだ! やったよ兄貴、甲板に上がった!」
 それでも、どうにか五感が平静を取り戻し始めた時。波音の間を縫うようにして、カイトの耳に聞き慣れた声が飛
び込んで来る。
 「親方、カイトは!? 無事ですか――!?」
 「なんだシオ、セーメ! この小僧、お前らの知り合いなのか!?」
 「はい、クラウダーの友達なんです! この前はフォートさんで、今度は君なのかよ……飛雲機から落っこちたの
か、大丈夫か!?」
 ドタドタと駆け寄ってくる足音にゆっくり顔を上げると、果たして予想に違わず、横付けされた小型漁船から新米
漁師の少年と少女――シオ=アヤノとセーメ=アヤノの兄妹がこちらへと駆け寄って来ていた。
 「ぐ……、……シオ、セーメ……」
 「ちょっと待って、そのまま。――傷とかは無いね、眼も意識もしっかり開いてる」
 「親方、すいません。俺たち、一足先に港へ戻っていても良いですか? 早いとこ、彼を陸に上げてあげたいんで
す」
 「……むう、仕方ねぇ。俺たちも少し早めに戻るとしよう、さっさと行って来い」
 親方と呼ばれた無精髭の大柄な男は、カイトやシオ達を一瞥すると、そんな言葉を投げかけて「後はお前らで勝手
にやれ」と言わんばかりに背を向ける。二人にとってはそんな態度で充分なのだろう、カイトに肩を貸して自分らの
船へと向かい始めた。
 「……げほ……っ、幾つか船が見えたから、思い切ってその近くに降りて行ったんだが……二人がいるとは、思わ
なかった」
 「それはこっちの台詞だよ。……セーメ、カイトは俺が運ぶから、先に船に行って水を」
 シオの言葉に頷き、先を駆けて行くセーメ。フックによって固定された甲板を跨ぎ、二人が船を移ったところで、
シオは引っ掛けていたフックを外しにかかる。カイトはそこで漸く船を見上げ、自分を救助してくれたそれが他の船
より一回り大きい事を確認していた。
 「でっかいでしょ? まあ親方の船だからね、一番多く魚を取っていたらあれくらいは必要なわけ。――はいこれ、
水とタオル」
 セーメに「有難う」と礼を述べ、差し出されたペットボトルの水を口に流し込み、タオルでずぶ濡れの服や顔を拭
いて行くカイト。
 「空から降りてくる時のパラシュートが、海に浸かったらそのまま浮き袋になるって仕掛けなんだね。流石に飛雲
機、良く考えられてるんだなぁ」
 「しかも派手な目立つ色――確か、フォートさんの時もそうだったな。……けど、何でまたこうも続けざまに? ま
さかカイト、また何かと危険な追いかけっこをしているんじゃ……」
 「――いや、違うよ。今回のは――完全に、俺の操縦ミスだ。俺がどじを踏んだせいで、空から落ちてしまった」
 そんな会話が彼らの間で交わされているうち、上へ下への縦方向だった船の揺れに、段々と横方向の動きが加わり
始める。
 飛雲機とは機構の異なるエンジンが、次々に唸りを上げて漁船の群れを進めて行く。それに一拍置く形でシオ達の
小船は舵を切り、同時に再駆動。船の舳先をルーセス港へと向けて、波間を駆け始めた。
 「カイトのせい――って、何で? どういう意味なの、それって」
 「…………」
 暫し逡巡の表情を見せていたカイトだったが、やがてぽつりぽつりと、これまでの出来事や顛末を話し始める。終
始その口端に苦々しい響きを滲ませる声の響きは、あたかも罪に対する懺悔のようでもあった。
 そんな空気を気取ったシオとセーメは、あえて質問を挟まない。舵を握る兄は耳だけを傾け、妹の方もまた相槌を
最小限にとどめて、彼の話を聞くに徹する。彼とハルカが知らぬ間に『依存』状態となっていた事、エースとのバト
ルと敗北、教わった事、そして取り決められた、今日のラストフライトと訓練――
 「で、その直後……突風と『雲崩れ』、か。じゃあ、カイトはそれに巻き込まれて、そのアンフィプって飛雲機から
墜落……?」
 セーメの言葉に軽く首を振って「半分はそうだけど、もう半分。さらにそこから続きがある」と呟くカイト。一呼
吸をおいた後、彼は、瞼の裏に焼き付いた情景を辿って、声に出して行く――

 ――ほんの僅かな気の緩みがクラウダーにとって致命的なミスである事を、世界の大部分を覆いつくす雲が人間た
ちにまだその全貌をさらけ出していない事を、カイトはその瞬間、脳裏にフラッシュバックさせていた。
 「――――っ!!」
 雲取り場の下方面、あまり他の飛雲機が飛び交っていない所を見つけて、そちらで抜け出す為の旋回を行おうとし
ていた瞬間。雲の雪崩が三六〇度全景を舐め尽くし、怒涛の勢いをもってアンフィプリオンへと迫り来る。一秒と立
たぬ間に、つい先ほどまで雲取り場だった空洞の底辺を、白い塊が埋め尽くす。
 条件反射的に、操縦桿を握る手が導き出した動作は、――あくまで「シプセルスにとって」瞬間的に力を引き出せ
る類のものだった。対応しきれぬアンフィプリオンは、一拍僅かに遅れてその指示に従う。高度を上げて、白色の奔
流から逃れようと試みる。
 「しま……っ!」
 だが、遅かった。本当に刹那のタイミングで、動作は遅れていた。尾翼の端へ微かに触れた雲の波は、次の瞬間瞬
く間にアンフィプリオンを捉え、そしてその機体へと絡み付いてゆく。脆弱な飛雲機にそれ以上速度を保つ術は無く
――カイトの五感は瞬く間に、暴力的な回転とホワイトアウトに支配された。
 「…イト! お…、…………か!? 付……きて…か!?」
 レナの叫びが、酷く遠くから聞こえてくるように感じられる。実際の所、声が出て来ている通信機はたかだか数十
センチの距離だと言うのに――激しく翻弄される意識に鞭打って、カイトは何とか操縦桿を握りなおそうと手を伸ば
し、
 「――な――?」
 その時。白く眩い雲の一部分に、ふ、と場違いな黒影が生まれていた。アンフィプリオンのきりもみ状態の中で、
それはすぐに操縦席の視界から流れ消えるが……角度の具合によって再び垣間見る事が出来たりする以上、どうやら
見間違いではないらしい。
 「っ!」
 ――いや、それを考えるのは後だ!
 歯を食いしばって操縦桿を引っ掴み、カイトは力任せに操縦を叩き込んでアンフィプリオンに安定を取り戻させよ
うとする。轟々と唸る風の音に、いつからかミシミシという微かな軋み音が混ざっていた。翼からなのかそれとも機
体からなのか、どちらにしても危険度が上がり続けていることは疑いない。
 「く、の……!」
 込み上げて来る嘔吐感を堪え、ぐらぐらと揺さぶられている脳を頭蓋の外から叩いて強引に意識を覚醒させた。ま
だ朦朧としている所があるが、眼は開けている……後は、これで気流の渦を読んで、何とか少しでも風の弱い所を、

 ――ごしゃん、と。今までとは別種の衝撃、そして鈍い音。後ろを振り返ったカイトは、先ほどまでの苦しみも忘
れて絶句する。
 「え――飛雲、機……?」
 アンフィプリオンをベースに改造された、複葉型の緑色機。セルナスでは割とポピュラーなタイプの機体である。
 それが、今……あろう事か、アンフィプリオンの機体に頭を突っ込ませていた。キャノピーと胴体の継ぎ目に片翼
がぶち当たっており、ぎしぎしとそこから機体の痛切なる悲鳴が漏れている。
 「こいつ――何、馬鹿やって――!?」
 途端、折角保ちかけていたバランスを崩し、アンフィプリオンはぐるんと機体の天地をひっくり返してしまう。当
然カイトは慌てながらも操縦間を握り直して、その体勢を必死に立て直そうとした。
 ――が。
 「わ、ああぁっ!?」
 再びの衝撃は、先ほどとは段違い。それは緑の飛雲機が、天を向いたアンフィプリオンの腹部へ――いやもっと正
確に言うなら、カイトの足元にある鋼板めがけて激突した事によるものだった。
 「〜〜〜〜っ!!!」
 成す術も無かった。双方ともにあちこちを破損させ、醜く絡み合う飛雲機とアンフィプリオンを遥か上空に見なが
ら、カイトはキャノピーごと押し出されるようにして、機外へと放り出される。そして、気付けば少しずつ収まり始
めている強風の中、白い闇の中を落下していった――

 「この大馬鹿たれっ!」
 ゴヅン――と言う音が大きく響き渡って、陽の傾き始めたルーセスの雲空に消えて行く。
 「だっ――!?」
 頭の天辺、つむじの中心へと綺麗に吸い込まれたレナの拳は、その勢いと力で容赦の無い痛みをカイトに与える事
となる。港にて一同が顔を合わせた後、カイトの口から再び事の顛末が語られ、そして終わるや否や彼女が渾身の拳
骨を繰り出したのだった。
 「全く、次から次へとあんたは、皆に心配ばっかりかけて! おまけに今回は『クラウダーの誓い』まで破る事に
なったし……本当、こんな事態は出来ればこれっきりにしてほしいよ」
 それって俺一人のせいなのかよ――と思わず言い返したくなるカイトだったが、頭はずきずきと痛むわ、主にハル
カを中心とした皆の心配顔を見てしまっているわで、ただただ頭を抑えて片ひざを付く事しか出来ない。
 「……はは……ほんっと、うちの親方見てるみたい……」
 「親方は、あんなえげつない殴り方しないけどな。さっきの、頭の中心にピンポイントだったぞ……」
 彼らから十メートルほど距離を置いた辺り、己が船の近くにて、半ば呆然としながらそんな感想を漏らすシオ達。
幸いと言おうか、今現在のルーセス港に彼ら以外の人影は無く、微かな波音が規則的に繰り返されている程度である。
 「有難う、二人とも。海にいたという事は、漁の途中だったんだろう? 迷惑をかけてしまったね」
 「気にしないでください、俺たちはここまで送ってきただけですから。うちの親方が海に落ちたカイトを引っ張り
上げたんです」
 「それに、今日の漁はあと少しで終わる予定だったし……あたし達はただ、皆の邪魔にならないようにしていただ
けでした」
 そう、と安堵の息を吐くフォート。彼ら三人が会話を交わしている間にも、レナのカイトに対する説教は――その
実、半分以上が彼の体調の無事を確かめるものだったが――引き続き行われていた。
 「ところで――フォートさん。さっきレナさんが言っていた『クラウダーの誓い』って、一体何のことなんですか?」
 「ああ――まあ、『誓い』って言うけど、僕たちの間のごく基本的な約束事さ。『堕ちるな、堕とすな、生きて帰れ』
……墜落は駄目、一方で勿論、他の飛雲機を故意に墜落させる事もご法度、そして飛雲機と共に無事に地上へと戻っ
て来るように……クラウダーとして生きるならばこれらの事を守りなさい、ってね。だから『誓い』」
 「遅かれ早かれ、それはペナルティって形でもっとシビアに振りかかって来るだろうけどね。……とにかく、無事
で良かった」
 そう呟くレナの言葉にも、色濃い心労と安堵を重ね、混濁させた響きが感じられた。先ほどからハルカ一人が全く
言葉を発せず、ただ瞳を泳がせて続けているのだが、恐らく胸中の感情をまだ整理しきれていない為なのだろう。
 『…………』
 顔を見合わせるシオとセーメ。交錯した二人の瞳には、揃ったかのように先ほどから幾つもの疑念が渦巻いている。
カイトの報告をこうして二度も聞き、それに対する彼らの反応を見て、漠たるその感情は今やはっきりと形を取って
いた。
 ――飛雲機の激突。しかもそんな、到底飛べるように聞こえない激突状態で、何故カイト一人だけが海へと落ちて
来たのか。どうして機体の破片が一緒に落ちて来ていないのか。
 そして。その事を何故、彼らは話題にすら上げていない――?
 「――今、何て言ったんだい?」
 冷たく鋭い声に、シオとセーメは一同の方へと向き直る。先ほどまでの心配顔は何処へやら、そこには瞳を吊り上
げてカイトを見つめるレナの姿があった。
 「アンフィプを……あのままに見捨てておけない。俺のせいで、あいつを壊してしまって……そのまま黙って見過
ごす事なんて出来ない! だから、」
 「シプセルスで上がる、と――? 馬鹿言うんじゃないよ、そんな事をして一体どうなるってんだ!」
 「――カイト。ここに来る前、僕たちはナビコンで確認した。あのアンフィプは、既に『空の彼方』へ行こうとし
ている。救う、という段階は、もうとうに通り過ぎてしまっているんだよ」
 フォートの声も、そのトーンこそあまり変化は無いものの、硬く厳しい。要領を得られぬシオ達は困惑を露わにす
るものの、彼らの間にびしびしと張り詰める緊張は否が応にも感じ取っていた。
 「あんたとハルカがやるべき事、かつ出来る事は、今回の拭えぬ大失敗を自分の心に一生刻み付けておく事だ。誰
もにその傷を消してあげることは出来ない、だけどそれは同時に、何より強い『戒め』となってあんた達を律してく
れる。だから――そこまでやるのは、もう只の自己満足でしかないよ」
 「僕もそう思うね。『依存』を抱くほど、アンフィプリオンに愛着と未練を抱いてここまでやって来た君たちなら尚
更だ。それがアンフィプにとって報いる事であり、クラウダーである事の証明だよ」
 「…………っ」
 「――それ、でも」
 ぽつ、と場に落ちた言葉は、……ハルカのものだった。
 「私やカイトのこの感情が『依存』から来るものだとしたら……きっと必要な事なんだと思う。姉さん、フォート
さん――私とカイトはやっぱりアンフィプを見届けないといけないと思う」
 「ハルカ、あんた……!」
 「単なる自己満足に終わってしまうのかもしれない、傷口に塩を塗りこむような真似なのかもしれない、それでも
――カイト、私は一緒に行きたいよ。行かなきゃいけないと、思う」
 「――――っ!」
 静かな口調に揺らぎは無い。言葉を発せぬ代わりに心のうちでずっと思考を続け、その果てに固めた決意であろう
事が推し量れる。
 言葉を紡ぎつつ、ハルカはカイトの隣へと並び、そしてきっと顔を上げてレナを見据える。二人で共に、厳しさを
変えぬ師匠の眼差しに負けないように。
 『…………』
 周囲一体を支配する、重い沈黙。緊張に押されるかのように、ごくりとセーメの喉が鳴る。その状態を保ったまま、
一秒、二秒、三秒と時間が経過し――五秒、十秒、十五秒――
 「……、……、……。……これだけ言ってるんだ、責任はあんた達が被るんだよ。そこまで甘えられても、流石に
どうにもならない」
 『――っ!!』
 「……そっか。それじゃあ、シプセルスを二人乗り仕様に取り替えないとね。――時間的に言って、ここであの機
体ならぎりぎり間に合ってしまうのが、皮肉と言うかなんと言うか……」
 短くそう告げてカイトとハルカに背を向けるレナ、見開いた眼のままで頷く二人、そしてそんな彼らを見つめなが
らフォートは苦笑と共に呟き――不意にシオとセーメへ向き直る。
 「御免ね。内輪話の口論に、君たちまで巻き込んでしまった」
 「い、いえ……。だけど、何だか随分と険悪だったような……」
 「それに――良いんですか、そんなに簡単に意見を変えて?」
 「大丈夫、気にしないで。それに、どこの誰譲りなのか、ああ言う時の二人は良くも悪くも退かないからね。こん
な時のサポートをするのも、師匠としての責任って事」
 「アンフィプ……って、確か飛雲機の名前ですよね。空に上がって見届ける、って、カイト達は一体何を……」
 「言葉どおりの意味さ。飛雲機『アンフィプリオン』の最期を、二人はこれから、その眼に焼き付けにいくんだよ」
 『――――』

 ――午後六時三十五分。太陽が水平線の彼方へとその身を隠し、空を覆う雲はごく一部の紅色を残して、蒼夜の帳
に包まれている。
 「しっかり捕まっていろよ、ハルカ。『ウィング』、展開っ!」
 その只中を、大きな光の翼を携えて飛ぶシプセルスの姿があった。『ウィング』の力によって増幅した速度のままに、
流線型の飛雲機はぐんぐんと高度を上げ続けてゆく。
 「カイト、角度はそのままで。到着までには恐らく十分も無いだろう――繰り返すけど、責任は他の誰でもない、
あんた達が負う事になるんだからね」
 「――うん」
 ハルカ、次いでカイトの頷き。既に風の収まった外界からは、左右に裂かれて流れる雲とエンジンの駆動音、そし
て絶え間のない振動が五感に伝わってくる。言葉を発する者は誰一人いない。
 「…………」
 操縦席の時計表示が四十分を指す。後、五分。
 ――私たちがナビをしてやる、何かしら異常を感じたら即効で戻って来い――呆れ顔を浮かべながらも、そう言っ
て自分たちを送り出してくれた二人の師匠。
 ――納得出来るようにけじめを付けて来たら良いさ、帰ってきたらまた色々と魚料理を教えてやるよ――フォート
から事情を聞いた後、表情に不安を浮かべつつも笑顔で支持してくれた漁師の兄妹。
 ここにはいないそれぞれの顔を思い浮かべながら、そしてこれまで辿ってきた道程を脳裏に思い返しながら、カイ
トとハルカはひたすらにじっと前を向き続ける。その先にある光景を幻視する。
 「カイト、ハルカ――そろそろの筈だ。どうだ、見えるか?」
 「…………」
 白い雲の中、きら、と何かが蒼い光を放っていた。マテリアルのそれとほとんど同じ光点だったが、それなら他の
マテリアル群と離れ、動いたりしている筈が無い。

 ――四十五分。気づけばシプセルスはとうに雲の広がる領域を突き抜けており、二人の視界には闇の夜空と遥かな
雲海が広がっていた。片や例の光点はと言えば、もはやその正体を目視できる距離にまで追い縋っている。
 『――――』
 それは――半壊した、しかし紛れも無い、カイト達の操っていたアンフィプリオン。胴体のあちこちが無残に剥ぎ
取られ、翼は片方が無い。プロペラも動きを止めており、傷にまみれた蒼のボディは痛々しさも露わな姿だった。
 そして。そんなアンフィプリオンを暖かく包み込むかのように、蒼い光が球形となって機体の周囲を取り巻いてい
た。
 「――追いついたよ、レナ姉、フォートさん」
 「マテリアルに包まれてる……これで、アンフィプは……」
 「そうだよ。あんた達の目には、形こそ保っているように見えるだろうが……其処にあるのは、もうアンフィプじ
ゃない。マテリアルと同化を始めている、アンフィプの亡骸なんだ。『空の彼方』へ行こうとしているんだ」
 何かの原因で著しく損傷し、操縦者の手を離れた飛雲機が墜落をしなかった場合――その果てにあるのが、この形
である。
 そもそも飛雲機というものは、それ自体がマテリアルとの接触を絶えず繰り返している存在であるため、その影響
を何よりも強く受けている、と言う事が出来る。ゆえに、それを制御する者の喪失、内部に保管したマテリアルの量、
突風などによる一時的な過度の急上昇――そう言った条件が揃う時、飛雲機全体にマテリアルの力が伝播し、さなが
ら一つの巨大なマテリアルとなってしまうのである。
 天然のマテリアルが持つ浮力は、それが多くなればなるほど周囲のマテリアルに次々と干渉し、そして際限なく相
乗される。それこそ、世界に働く重力すら振り切ってしまうほどに。
 カイトとハルカの操っていたアンフィプリオンは、さらに高度を上げつつやがてその形を維持出来なくなり、いず
ればらばらに分解して溶け消えて行く事だろう。そして数多のマテリアルへと還元され、いつかどこかの飛雲機に回
収される。
 カイトとハルカにとって、それは紛れも無い『罪』の証だった。どんな形であれ飛雲機の手を離してしまい、そし
て地上に返す事が出来なかった……それは、クラウダーやナビとして、空に生きる者として、その身に刻み付けられ
て拭えぬ『罪』であり、『責』である。
 「俺とぶつかったあの飛雲機も、プロペラが動いていなかった上に誰も乗っていなかった。……きっと同じように、
どこかで手を離してしまったんだ……」
 「私たちのせいで――御免なさい、アンフィプリオン」
 通信機から「そろそろ機体の限界高度を超えるよ」と、フォートの声が届く。それを耳に入れたカイトとハルカは、
顔を見合わせ、同時に頷き――
 「っ!」
 共に頭上のキャノピーを開け放ち、そしてアクセルを踏んだ。
 シプセルスが、光の中のアンフィプリオンへと近づいてゆく。二人揃って何をする気だ、と言うレナの叫びは、吹
き抜ける風音の只中へと流れて消えてしまう。
 「絶対にもう、繰り返さない、から――だから、せめて!」
 「私たちに強く誓わせる『戒め』を……! どうか、お願い!」
 そして。機体を傾けるシプセルスの座席より、二人は力の限り手を伸ばす。上昇を続ける両機体は、程なくして、
シプセルスの限界高度にまで近付き――

 ――そして。一時間も経つ頃、遥か上空で動きを止めたアンフィプリオンは、さながら繭のような蒼光の球体内で
……ゆっくり、ゆっくりと融解を始めてゆく。折れた翼も、カイトやハルカが付けてしまった大小の傷も、機体に穿
たれた大きな穴も、……何もかもが、マテリアルそのものへと変化しながら溶けて行く。

 その日、日付が変わる頃。夜空の遥か彼方より、世界を埋め尽くす雲海の一端へと……かつては飛雲機の姿だった、
蒼光の雪が降り始めていた。

〈5〉

 「……さっきからずっと、何を考えているのかしら?」
 隣から聞こえて来た妻の言葉に、ガルは窓の外に向けていた視線を戻して苦笑する。彼女の声の響きと言い、その
顔に浮かべている意味ありげな微笑みと言い、こちらの思考を看破しているだろう事はよういに見て取る事が出来た。
 「――流石に、聡いな」
 「何年貴方と連れ添っていると思って? 昨日の再勝負をまだ引きずっているなんて、余程印象が強かったのね」
 「乗っていたアンフィプリオンを『空の彼方』に送った、とは聞いていたが――それを吹っ切るのではなく、己へ
の強い『戒め』として乗り越えるとはな。カイト、そしてハルカ……欲を言えば、もう少し見ていたかった」
 そうしてきちんと名前を呼ぶようにまでなったものね、とレドゥア。ガルが自分の同業を名前で普通に呼称するの
は、その力を正式に認めた証である。
 窓の外にある景色は、そのほとんどが白一色。雲の中に設けられた航路を、彼らを乗せてルーセス発のリガレクス
は突き進んで行く。
 ――その只中に。ガルは、昨日……交集季九十五日に行った勝負事を思い返していた。
 「…………」
 ギルドを経由して彼らの滞在する宿舎に届いた「もう一度、勝負を申し込ませてください」と言う、カイト、そし
てハルカからの手紙。暫しの思案を経てガルとレドゥアは承諾の意を込め、返信の文を出した。
 ルールは前回と同じ、一時間の雲取り勝負。ただし今度は、サルディノが参加しない、純然たる一対一の戦い。結
果、シプセルスが二五七st、そして――ウォルバウムが、六七四st。
 「……抑えられた、か」
 先日の勝負では存在しなかった、二〇〇stの開き。それは、以前と同じく両機が競り合った際、たった数回では
あるが、シプセルスがウォルバウムを同じコース上において抜かせず、抑えきってしまったと言う事実に由来してい
る。最も勝負に集中するあまり、シプセルスもマテリアル採取を怠ってしまった為、前回とほぼ同じ結果に終わった
のであるが。
 「いや、全く――面白い」
 込み上げて来る笑いを口の端に滲ませて、ガルは呟く。己が飛雲機を失った事、それを糧にして得たあの成果――
発展途上ではあるが、然るべき年月で腕を上げていけば、あのクラウダーとナビはさらなる成長を見せてくれるだろ
う。レナ達が彼らをどのように育てて行くか、親友であるレーヴェスがそれを聞いてどんな顔をするものか、興味は
尽きない――
 「――ここに来た事は、収穫だったな」
 「そうね。また折を見て、この街を訪れてみましょうか」
 ガルとレドゥアがそのような会話を交わし、座席横の窓から外界に視線を向ける間にも。リガレクスは、刻々とル
ーセスの街を離れて行く。

 ――同時刻。その地点から数十キロと離れた雲取り場において。
 「コース、2―6―1―9! 立て直したら、そのまま4―7―8を飛んで! 他の飛雲機の風に煽られて、マテ
リアルが集まり始めてる!」
 「了解っ!」
 操縦桿を振り回すと同時に機体を加速させた刹那、カイトの全身を衝撃が突き抜けていく。分厚い壁のごとくぶつ
かってくる風の流れ、外へと向かって働く遠心力、そして意識や感覚を呑みつくさんとする暴力的な重圧などをぎり
ぎりの所で耐え凌ぎ――シプセルスは、ハルカの指定されたコースへとその機体を飛び込ませていた。
 「く――っ、――次!」
 額から滴る汗を拭う事も無い。ひたすらに歯を食いしばって操縦桿を操作、決して機体の動きを途切れさせない。
マテリアルから次のマテリアルへ、蒼い光が繋ぐ道を鋭角なる翼が駆け抜けてゆく。
 「ちょっとずつではあるけど――良くなって来ているね」
 「ああ。もう少し見定める必要はあるけど、『依存』状態は抜け出せたと言って良い」
 そんな二人の様子を、フォートは隣接するナビコンから、レナは少し距離を置いたサルディノの機上から見守って
いる。アンフィプの最後を見届けた折から、彼らの訓練は当初の予定通り――あくまで、アンフィプでのラストフラ
イトを経た、と言う形で――次のステップへと滞りなく進んでいた。
 全てが万事順調、などとは勿論言えないし、その挙動にはまだまだ拙い部分が多い。だが、一日一日、確実に訓練
の成果を積み重ねている。至らなかった部分を改善し、努力し、少しずつではあるが確かな経験を自分たちのものと
している。
 「私たちが考えているより――案外、師離れって早いのかもね」
 「……有り得る、ね。その時は、素直に祝ってあげよう」
 「――うん」
 一抹の誇らしさと寂しさが、そんな会話の中に織り交ぜられていた。だがそれも一瞬、気を引き締め直すと、レナ
はサルディノを飛雲機群へと飛び込ませて行く。

 ――カイトとハルカ、それぞれにあてがわれた個人部屋。その窓際に各一つずつ、五日前までは無かったやや小ぶ
りのガラス瓶が置かれている。その中に入っているのは、かつて二人が共に操り、そして空の彼方へ去っていった飛
雲機の、小さく砕かれた破片。
 それを見る度、彼らはあの日の事を思い、そして失敗を繰り返さぬ事を遥かな空へと誓う事だろう。『戒め』を糧に
して、これからも前を向いて、真っ直ぐに走り続けて行く事だろう。待ち受けている幾多の困難に直面し、膝を屈し
ても、その度にきっとまた立ち上がっていく事だろう。

 ――セルナスの空を舞う、若き翼の物語。
 それはかくして、世界に絶え間なく広がる白き雲のごとく、どこまでもどこまでも続いて行く――


                                                                              ――第三話……了



 



第3話前編へ     第4話前編へ

創作ページへ

inserted by FC2 system