―Sky Clouder―


〈幕間・二〉
「思い、白風の中に」


 


 『――――』
 頭二つ分の高低差越しに視線が交わった瞬間、両方ともが思わず目を二度三度と瞬かせた。
 人ごみに紛れてゆくその広い背中を見送ったのが、つい一時間ほど前の事。次にそれを視界に入れるのは、もう暫く先の事にな
ると思っていた。
 いや、まあ確かに、こういう可能性がゼロってわけは無かったろう。にしても、正直珍しいと言うか、いざそんな事態に前触れ
無く直面すると、舌が巧く回ってくれないと言うか――
 「すいません、おじさん。こっちのりんご味が僕、で、こっちのグレープフルーツ味を彼にお願いします」
 「はいよ! 良かったなあ坊主、兄ちゃんにきっちり礼言っておくんだぜ!」
 ――って、ちょっと待って。確かにそのジュースはちょうど今買うつもりだったが……どうして貴方がさも当然の如く、こっち
の分のお金まで支払っているのですか。
 で、この人の事だ。相も変わらずの柔和な笑顔を浮かべながら『僕のおごりで良いよ』とか言って、渡そうとする代金をがっち
り拒むに決まってる。
 実際、今まで何度か似たような状況ででも、受け取ってくれた事は今まで一度足りとて無い。こっちがどれだけ声高に主張して
も、それを軽く受け流してしまえるだけの力量は、正直反則だろうと何時も思ってしまう。だから、言葉を継げられずに黙ってし
まう。
 「ん――どうかした、カイト? 僕の顔に、何か付いてる?」
 フォート=オーティス。……俺は、この人に勝てる気がしない。

 事の始まりは『天気も良いし、皆で食べに行こうか』と言う、レナ姉からの提案だった。折しも先日、俺たち行き付けのレスト
ラン『ヤタシ・キノマ』にて新たな定食のメニューが発表され、加えて今日の休みが丁度、皆揃って取っていたものだったのであ
る。
 ――で。当の店にて舌鼓を打った後『各自それぞれ、今日は自由行動』とレナ姉が宣告したのが、つい先程の話。それから一時
間後――つまり、今現在はと言うと、
 「――ん、っく……はぁ、――へぇ、こんな味だったんだ」
 「あれ? フォートさん、今まで飲んだ事無かったっけ?」
 人の流れから離れた街路の脇に二人揃って陣取り、先程買ったジュースを喉の奥へと送り込んでいた。
 『ヤタシ・キノマ』から出て少し歩いたところの屋台に、足しげく通っている連中が少なからずいる――そんな噂をギルドの中
で耳にして、冷やかし半分で出向いてみたのが一〇〇日ほど前。以来、懐と時間に余裕がある時、半ば習慣めいて足を運ぶように
なってしまった自分がいる。
 「近頃、あまりこの区域へは来ていなかったからね。新しい味が出ている事をチェックし忘れてた」
 「そのりんご味が出たのって、交集祭のすぐ前だったと思うよ。あの騒ぎが無ければもっと売れる筈だった、って、店のおじさ
んがぼやいてた」
 「だろうね――あの後じゃ、すぐに商売を再開して客足が戻って、というわけにも、なぁ……」
 十二分に味わった上でごくりと一つ喉を鳴らし、ジュースを飲み干す俺たち。手近に設けられているゴミ箱に連続して紙コップ
を放り込むと、フォートさんはそこで軽く首を振って、眼鏡越しの視線を周辺に巡らせ始めた。
 「――けど、来てみて正直安心した。こちらの方に、大した被害は無さそうだね」
 呟く声には、安堵の色が混ざっていた。確かにその言葉通り、俺たちが今いる箇所……ルーセスの東部周辺区域は、つい二十日
ほど前のタンストゥール襲撃騒ぎにおいて、割合被害が少なかった所である。
 あの日、かの『空の王』は、引き絞られた矢の如き勢いで南南東の方角からルーセス市街へと一直線に突っ込み、そして街の中
心部である議事堂へ激突して一旦動きを止めた。その間、腐食性のある奴の血液が酸の雨となってあちらこちらに降り注ぎ、街路
や木々を砕き、溶かし、家屋や人々に少なからぬ被害を与える事となった。
 ……もっとも、その時の俺たちには『何としても、ハルカを救わないといけない』という想いが優先してあり、中々周囲に目を
向けている余裕が無かったのだが。騒ぎが落ち着き、再びまともに飛べる頃になってようやく、近くにある飛雲機用滑走路の一本
が補修を必要としている状態に気付いたり、数人の同業者らが混乱の中で怪我を負っていた――と、耳にしたくらいのものだ。…
…誰かが命を落とした、などという話も、幸いにして聞こえて来ない。
 「フォートさんがこっちに来たのって……ひょっとして、ここらの状況を見回る為?」
 「うーん……そう、だね。ま、それが半分かな」
 言いながらも、彼は首の巡りを止めない。加えて、その場から数歩ほど移動して視点を変えてみたりと、目視出来る限りの範囲
をその瞳に収めようとしている。
 「……うん。この状態だったら――橋の向こう側にも、特に影響は残っていなさそうだね」
 「橋? ――って、この先のオリバス橋?」
 返答は軽い首肯の形で表れる。この東部区域の辺りで目ぼしい橋と言ったら、俺の知る限りでは今しがた口にした一つくらいだ。
……けれど。
 「あの向こうって確か、ずうっと住宅街が続いているばかりの区域だろ? 誰か知り合いでもいるの?」
 「知り合い――か。……そうだね、知っていると言えばそうかな」
 「?」
 先程から妙に、はぐらかされているというか、言葉の肝心な部分が濁されていると感じる。何かしらプライベートに関わる事な
のか――と邪推した刹那、「そうだね……知っておいてもらうべきかな」なんて言葉が、俺の頭上から降って来た。
 「カイト。もし、この後何も予定が無ければ、ちょっと僕に付き合ってもらえるかい?」

 フォートさんの往き筋を一メートルほどの距離を保って追いかけ、俺の身体は舗装が行き届いたオリバス橋の欄干を進んでゆく。
ここ数日の『白晴』は温かな陽気を街中に降ろし、緩やかな風が橋下の河川敷や川面を撫でて、外出するにはこれ以上無いくらい
の好天を生み出していた。
 「…………」
 ――ふと、僅かではあるが昔の事を思い出す。俺がこの人を……フォート=オーティスという人間を直に名前で呼び始めたのは、
一体いつの頃からだったろうか。
 ハルカとパートナーの関係を結び、レナ姉に率いられて、ルーセスの街に初めて入ったのがC.R二五九年の空天季八十日。そ
の日俺は、当時名前だけは知っていたレナ姉の婚約者を、見上げた先の視界に初めて納める事となった。
 初めまして、カイト=レーヴェス君――その声を聞き、顔を見て、「本当にレナ姉の選んだのがこの人なのか?」と、今思えば
随分と失礼な第一印象を持った記憶がある。同時に、そんな人に対しての接し方や距離感というものが今ひとつ把握できず、結果
として共同生活の最初の頃は「オーティスさん」と苗字で彼の事を呼んでいた。
 眼鏡の奥で光を放つ空晶義眼(ヘテロクロミア)は基本的に優しい色を湛え、声音や態度、それらをひっくるめた人柄には人を
安心させてくれる柔らかさがある。良い人に違いは無いが、レナ姉とでは吊り合うのに苦労しそう……等と言う印象は、しかし、
そう日を重ねず変化していった。
 ハルカに対しての、ナビパートナーとしての教え方。その高い技術レベルから紡ぎだされる、意見の的確さ。勿論俺もまた、講
義や実践の最中で見過ごした部分は残らずきっちりと指摘され、不明な部分は分かるまで教え込まされた。レナ姉の指導とはまた
別種の厳しさを受けていく中で、彼の人柄に否応無しに触れる事となり、そして気付けば前述の第一印象は何処へやら、という感
じだった。
 ――つーか。ちょっと考えてみれば、あのレナ姉としっかり二人三脚で共同生活を送れているという時点で、ただ単に『良い人』
だけ、なわけが無かったんだよなぁ……気付くのが遅すぎだ、俺。
 「…………」
 「――カイト?」
 かけられた声に顔を上げてみると、フォートさんが自分の数歩手前で足を止め、こちらに怪訝な表情を向けていた。……どうも、
無意識のうちに考えに浸って、眉間に皺を寄せていたらしい。
 「あ――御免、何?」
 「着いたよ。ほら、この店だ」
 言葉に伴い、傾けられる彼の視線。その先を追従してみると、周囲の家屋群に紛れるかのようにして、小さな軒先がぽつりと一
つ、街路にその門戸を向けていた。
 小物屋『ルフラウツ』――掲げられた木造の看板にはそう刻まれているのだが、正直これは、注意を向けていなければ通り過ぎ
てしまいそうな代物だ。看板文字のきちんとした筆致や、注意してみれば細かいところにまで手が入っている装飾――それら一つ
一つの落ち着いた感じは良いのだけど、はっきり言ってそのどれもが全然目立とうとしていない。人目を惹かず、その為のアピー
ルなど行わず、そしてそんな状況をただ有るがまま受け止めているような印象ばかりが残ってしまう。
 ……俺一人だったら、とてもじゃないが見つけられている自信は無い。ここの周囲が揃って住宅街ばかりであり、橋の手前に広
がる商店街を見慣れてしまった今では、尚更だ。
 「さ、入ろうか」
 と歩き出したフォートさんに、俺も僅かに遅れて追いすがる。そのまま入り口のドアを押し開け、頭上に飾り付けられたカウベ
ルの音を聞きながら、俺たちは店内へと入っていった。
 「――――」
 外見からなんとなく予想を付けてはいたが、果たして相違なく、店内の規模は何ともこじんまりとしたものだった。木造の内壁
に沿う形で数段の棚が設けられ、その上に所狭しと値札つきの商品が並べられている。
 見れば、壁を伝うその棚は入り口の直前まで伸びており、それが歩けるスペースの少なさをより強調させていた。狭さゆえの圧
迫感こそ感じはしないが、注意して進まないと棚に肩をぶつけてしまいそうになる。
 と、
 「いらっしゃいませ……と。どうぞ、ゆっくり見て行って下さい」
 店の奥、カウンターの向こうから聞こえて来た声には、年老いた男性特有の響きがあった。正面に顔を向き直すと、豊かな髪と
髭が白色に彩られた老顔が一つ。木製の椅子に腰掛けているその人は――何故か、瞳を小さく見開いてこちらをじっと見つめてい
た。
 「……ほう。久しいな、君だったか」
 「ご無沙汰しています、ラベルトさん。その節はどうも」
 ――成る程。この方、俺じゃなく、そのすぐ前に立つフォートさんを見ていたというわけか。そんな事を思った刹那、頭上から
「アル=D=ラベルトさん。ここのご主人だよ」と小さく降って来る声。自己紹介するように、と言う言外の促しに従い、俺は慌
てて背筋を伸ばし、頭を下げる。
 「あ――初めまして、カイト=レーヴェスです。フォートさんの所で、今、お世話になってます」
 いささか硬い自己紹介。それに対し「や、これはご丁寧に」と応じてくれた言葉には、それを優しく解きほぐしてくれるような
柔らかさがあった。……フォートさんに相通ずるものがある、と思う。
 「店主のラベルトです、どうぞよろしく。……オーティス君、彼が例の新人ナビくんなのかね?」
 「いえ、彼はクラウダーの方でして。主にレナが色々と教えてくれているので、僕は彼の相方指導に専念しています」
 そこで一度言葉を区切った後、フォートさんはちらと店内に視線を巡らせて「あの騒ぎで、こちらに何か影響は?」と、店主―
―ラベルトさんに尋ねかける。その声音には不安と気遣いの色が如実に表れており、第三者である俺でさえも心情の予測は難しく
なかった。
 昼食の後、珍しく俺とフォートさんが鉢合わせした理由はこれだ。フォートさんはこの『ルフラウツ』があの騒動でどうにかな
ってしまっていないか、それを確かめる為にここまでやって来たのだ。で、その途中にたまたま俺を見かけてジュースをおごり、
ここまで連れて来た……と。
 「いやいや、ほとんど無かったね。元から客足もそう多くないのだし、今日まで相も変わらずのんびり構えさせてもらっている。
……心配してくれて、有り難う」
 「そうですか――なら、良かった」
 言葉に混じる、大きな安堵の溜め息。肩まで上下したところを見ると、知らず知らずのうちに大分緊張していたらしい。後ろで
見ていてそれがはっきりと分かるのだから、尚更だ。
 「それで今日は、何かお探しの品はあるかね? 気に入ったものがあれば、遠慮なく言ってくれ」
 はい、と短くフォートさんが応じ、会話はそこで一旦終了。店内を歩き出した彼の背を目で追いかけて、俺も足を一歩踏み出し、
 「――ここを、教えておこうと思った」
 唐突にそう告げられて、続く筈の動きを止めていた。
 「初めてこの街にやって来て、あちこちを回っていた時に、偶然このお店を見つけてね。ラベルトさんにも色々と良くして貰っ
たし、街の事を始め、少なからぬ事を教えて頂いた。君も気に入ってくれたら嬉しいと思って、ここまで付いて来てもらったんだ」
 「ふぅん……じゃあ、ここってレナ姉も気に入ってるの?」
 問いかけに対する回答は、それが口から出るより先に、横に振られる首の形で見せられる。
 「まだ教えてない。――正式な夫婦になるまで、彼女には秘密にしておく予定だよ」
 「え?」
 「だから……出来ればカイトにも、レナやハルカには内緒にしておいて貰えると、僕としては有り難いかな」
 そう呟いてこちらを振り向いたフォートさんは、その顔全体に苦笑を貼り付けている。自分の言葉に我ながら呆れるよ、と、眼
鏡の奥の義眼には声無き言葉までが透けて見えていた。
 「いや、そりゃまあ別に、否定する理由は無いけど――なんで?」
 「まあ――平たく言えば、一種のこだわりかな。彼女への贈り物を探す時、気付くとここの品物を頼ってしまっている事が多く
てさ。きちんと二人での暮らしが出来るようになった時、自分への区切りを一つ付けようと考えている」
 「それが種明かしの時、って事か……ふぅん」
 まあ、その気持ちも分からないではない。事実、先程から視線をちらちらと動かして商品の幾つかに目配せをしているのだが…
…陽光を受けて光を放っている容器とか、いかにも丈夫そうながらすっきりとコンパクトな印象に納まっている小物入れとか、成
る程レナ姉への贈り物として納得な品物が目を引く。
 彼女だったら『何をつまらない事気にしているんだか』とか何とか言って、あからさまに呆れたりしそうだが……男として、何
時までも軽々しくこのお店に頼ってばかりもいられない。そんな心情と「ここでなら良い物を選べる」というもう一つの心情が葛
藤しているのが、今現在のフォートさんなのだろう。
 ――と。そこまで考えたところで、新たな疑問を口に出す俺。
 「……そんな場所を俺に教えて、良かったの?」
 先述の理由は打算的な部分を加えたものだったが、ラベルトさんとの会話やフォートさんの表情、言葉の響きなどは、彼にとっ
てここが紛れもない大切な場所である事を教えてくれている。そういった所を、果たして俺如きが知ってしまって良かったのかど
うか。返答は、一拍の間を置いて告げられた。
 「君だから、教えたんだ。余計なおせっかいかもしれないけど……あの子に何か贈りものをする時、役立てるんじゃないかって
ね」
 「? あの子?」
 妙に引っ掛かる言葉に対して、黙考する事暫し。自分の思考が対象へと辿り着くのに、そう時間はかからなかった。
 ……ついでに言うと、自分の顔に赤みが差している事に、嫌でも気が付いていた。自然、照れ隠しも手伝って、眉根を寄せた半
眼で眼前の兄貴分を見つめる形となってしまう。
 「フォー、ト、さあぁぁぁん……」
 「あ、あはは……いや、まあその、御免。――けどね、君たち二人の事を応援したい、って思っているのは、紛れもない本心だ
よ」
 後半の言葉が不意に真剣味を帯びた事で、色々と胸中に浮かんでいた恨み言が表出のタイミングを失う。
 「さて。色々と話し込んじゃったけど、僕はこれから少し中を見て回る事にするよ。ラベルトさんとも話して、レナへの贈り物
を決めているさ」
 「あ、そうか――何か探す、って言ってたんだっけ」
 「うん。あの騒ぎでは、つくづく彼女に心配をかけてしまったからね。その感謝を示す為に、今日もまたこの店の力添えを頂こ
うと思っている」
 確かに、言われてみればその通りだ。今でこそ語り草となっているあの騒動は、まかり間違えばレナ=ベルンストから幾人も親
しい人を、最愛の存在を奪っていたかもしれなかった。ハルカが連れて行かれたとき、俺も暫くは放心し、レナ姉の言葉でようや
く立ち直ったのだが――たった一人の妹が命を落としたかもしれないと知った彼女は、それでもなお気丈な振る舞いを保っていた。
僅かな可能性を信じ、皆が無事に戻って来る事を願い続けていた。
 ……同じ状況に放り込まれたとして、同じ行動が出来る自信は、正直俺には無い。
 「……強い、よね――レナ姉」
 「そうだね。強くて優しくて、立派だ。でも時折、『そうあらねばならない』と自分に言い聞かせて、無茶をする事がある。…
…少しでもその心を和らげてあげられるなら、その為の方法や手段があるなら、僕はその為に力を惜しまない」
 最後の一言には、今日聞いた彼の言葉の中で、最も強い響きが込められていた。殊更に口調が変化したわけでは無いのだけど―
―その奥底に垣間見えた力は、今の俺が到底及びもしない程の強さに満ちている。
 「…………」
 刹那、胸の奥底でざわりと小さな波紋が立った。その要因は同姓としての眩い羨望であり、尊敬であり――そして、小さな嫉妬。
 「……どうして、そこまで……」
 この人は、はっきりと自分の思いを口に出す事が出来るのか。恥じらいや気後れを感じさせず、ごく自然に、自分の想い人への
気持ちを表出させられるのは、何故なんだろうか。俺には出来ない事を、どうしてこの人は、こうもあっさりとやってのけてしま
うんだろうか。
 ……分からない。幾ら考えても、適した言葉が出てこない。その事実が、忸怩たる胸中の思いをより一層空転させて行く。
 「――――」
 そんな状態だったからだろう、唐突に放たれた言葉を全く意識していなかった。視線で問い返してみると、フォートさんの口か
ら「大丈夫」の三文字が出て来て、俺の鼓膜から心へ入り込んでゆく。
 「焦ることはないよ、カイト。レナと出会う前は僕にも分からなかったし、彼女を好きになったら、それこそ不安が山のように
生まれて来た。……冗談抜きで、僕も同じだったんだ」
 嘘を付いているわけではないだろうけど――そんな時代のこの人を全く知らない俺としては、いささか信じがたい話ではある。
 「色々考えた。僕なんかが彼女を幸せに出来るのか、って思いも生まれた。……けど、彼女が『貴方の眼の光が好きだ』って言
ってくれた時、それまでの悩みは全部吹き飛んでしまったよ」
 ――なんとなくだが、その辺りのエピソードはハルカから聞いた記憶がある。当人は恥ずかしがっているのか、それとも別に話
す事でも無いと思っているのか、こっちが切り出してみても適当にはぐらかすばかりだったが。
 「僕の場合は、ほんの少しのきっかけだった。その下地として、偽り無い自分の想いがあった。……だから、同じように、とは
言わないけど……きっと君にも、分かる時が来る。大丈夫だよ、カイト」
 「――――」
 頷かなかった。と言うか、軽々しく頷けなかった。
 フォートさんだって、それを期待しているわけではないのだろう。くるりと踵を返して足を進めるその出で立ちからは、既に彼
が店内の物品選びに集中し始めた事が見て取れる。
 「……ふぅ」
 ――ああ。やっぱり、今の俺ではこの人に勝てる気がしない。
 意識せぬまま口から飛び出た小さな溜め息には、自分でも判別がつかないほど、様々な感情がごちゃごちゃと渦を巻いていた。
 
 店内をうろつき始めてから、数分が経過する。――数多ある商品の中から『それ』に眼が留まったのは、本当に何の気なしだっ
た。
 高さ三センチ程度の、手の平サイズに収まってしまうようなガラスの小瓶。それが二つ――いや、一対となって、ビニール袋に
入れられている。
 「…………」
 表面に模様があったり、きらびやかな装飾がされていたりするわけではない。俺がその小瓶に眼を惹かれ、そして離せなくなっ
た原因は――ガラスの、色だった。
 「……へぇ……」
 注意を払ってビニール袋を手に取り、瞳に近づけてみて、ガラスに混ざっているその色をまじまじと見つめる。……透明さを損
なうこと無く、しかし確かにそこには、スカイ・マテリアルと同じ蒼色が配合されていた。
 加えて――いつも空へと上がり、見慣れているからこそ分かる。絵の具などで適当に出したものとは違う、本当にマテリアルの
それと遜色の無い蒼。製法に関しては想像しづらいのだが、手抜きして出来るようなものでない事は明白だ。
 「――――」
 反射的に、ちらりと値札へ眼を通す。……並んでいる数字の意味を理解するのと、自分の手が上着ポケット内の財布へ伸びかけ
ている事に気付いたのは、ほぼ同時の事だった。
 「え、……っと」
 その時になってようやっと己の行為を省み、掌に妙な汗がじわりと浮かんで来る。一体何をやっているんだ、俺は――という自
問が幾度と無く身体の中を跳ね返り、止まぬ反響を続けていく。
 付けられている値段は、予想よりも安い。手持ちの懐具合と相談しても、悪い答えは返ってこない。……でも、買ってどうしよ
うと言うんだろう。いや、考えがまるっきり無いと言えば嘘になるけど、それにしたって切り出し方が分からない。第一、今の今
までそんな事をやった記憶が無いから、どうすれば良いのか全然――
 「…………」
 酷く長かったような、でも同時に、凄まじく短かったような、数秒間。ただただ俺は、その場に硬直を続ける事となる。
 そして――しっかりと手中の物を握り締め、落とさないように注意して、身体の向きを転換する。その先には、間違えようも無
い店のカウンターがある。椅子に腰掛け、フォートさんと談笑を交わすラベルトさんの姿が見える。
 一歩踏み出し、床を踏みしめた時の僅かな軋み音が、早鐘のような心臓の鼓動に不思議と重なっていた。

 「――さて、と」
 後ろから聞こえていたドアベルの音が不意に遮断されて、店の扉が閉まりきった事を告げる。『ルフラウツ』の中で過ごした時
間はおよそ一時間弱、家々の間から見える空は相変わらずの好天を浮かべていた。
 「わざわざ付き合って貰って有り難う、カイト。……いやほんと、ラベルトさんと話していると、どうにも長くなってしまって」
 「そんなの、別に気にしてないよ。話を横から聞いてたり、改めて店の中を見回っているだけでも、充分に時間は潰せたからさ」
 「そう言ってくれると助かるよ。――で、君が買ったのが、それなわけだね」
 言いつつ、フォートさんは俺が懐に抱く紙袋へと視線を投げかける。……改めて意識をすると、いかにも「大事に抱えています」
な感じが満点で、恥ずかしさを禁じ得ないのだが。
 「ん――うん、まあ。……フォートさんも、目当ての物、買えたみたいじゃない?」
 「ラベルトさんに助言を頂いた上で、だけどね。以前からプレゼントしたい、って思っていたものだから、良いのがあって本当
に良かったよ」
 そんなフォートさんもまた、包装を施された紙袋を手中にしっかりと携えている。先程、カウンター脇からちらりと見えたそれ
は、確か……小ぶりのブックカバーか何かだったと思うのだが。
 「カイトは、これからどうする?」
 「流石にこんなのを抱えたままで、街に遊びには行けないよ。一度家に帰って、それからまた考えるつもり」
 「だね。じゃ、一度戻るとしようか」
 帰路を進み始めるフォートさん、そしてその背中を追いかけて行く俺。……視界に映りこむ彼の大きな背中は、あまりにも平然
と何時もの通りに――闇雲に追うのみでは決して届かないような、厳然たる雰囲気を纏って存在している。
 「――――」
 その背を真っ直ぐに目指しているのか、と問われれば、安易に頷く事は出来ない。だけど、ああいう風に誰かを想う事が出来た
なら……なんて、ふと考えに耽る時がある。恥や外聞で眼を背けず、気負う事無く素直に、ごくごく自然に自分の心を伝え、感謝
の意を表すこと……それが叶うならば、自分の好きな人達を、今以上に大切に出来るのではないか。今日の一軒に限らず、フォー
トさんの挙動を見ていると、そんな思いを胸に抱く事があるのだ。
 が、いざやってみようと実践しても、中々思うようには身体も心も動いてくれない。だからこそ、そんな自分を不甲斐なく思っ
たり、筋違いと自覚していても嫉妬の念を覚えてしまったりする。
 いつもだったらそこで、もやのかかった思考が答えの出ない堂々巡りを始めてしまうところなのだが――刹那、フォートさんに
店の中で告げられた「大丈夫」の三文字が、じわりと胸に溜まったしこりを和らげてくれた。
 仮に、その言葉を直前に聞いていなかったら。あの時、小瓶を抱えた自分の足は、恐らくカウンターに向かっていなかったと思
う。
 「――っ、……フォートさん」
 目の前の背中に、小走りで足を進める。距離を詰め、少しだけ横に動いて肩を並べると、顔を上げて彼と視線を交錯させた。
 「?」
 色々な言葉が脳裏を駆け巡る。幾つものパターンが生まれては消失して、それが何度も繰り返されて……その果てに、
 「――えと――あの、……店の事、有り難う」
 ……真意を伝えるにしては、語句も強さも、あまりに乏しい言葉だったと思う。それに対するフォートさんの反応は、
 「――ああ、僕も君に教えられて良かった。ハルカにきちんとそれを渡せる事、祈っているよ」
 何時もの通り、ごくごく自然に。眼鏡の奥から、小さな微笑を返してくれた。

 ――その時は本当、想像もしていなかった事だけど。この小さなガラス瓶の中に、これから一体何を入れたら良いだろうか――
そんな些細な悩みごとには、程なくして一つの回答が導かれる事となる。
 さらに、加えて言うと。ハルカにこれを渡す時にどれだけ緊張し、舌の呂律が回らなくなってしまうか。それでもちゃんと受け
取ってくれた彼女の笑顔が、「ありがとう」の一言が、どれだけ眩くて素敵なものだったか――勿論、この時の俺に微塵も分かろ
う筈が無い。

 ――言葉の端から滲み出た想いは、白き世界を巡る風に抱かれて。街を歩く新米クラウダーの姿を、際限なく広がる空が上空よ
り見守ってくれていた――

――幕間・二……了


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