―Sky Clouder―

―第2話「蒼き闇への挑戦者」(後編:2)―


〈8〉

 間断なくキャノピーにぶつかって、バシバシと鼓膜に響く音を発している雨粒。そそり立つ雲山の中に飛雲機を突っ込ませても、ねずみ色を塗りたくったような周囲の景色は一向に変化しない。分厚さを増した雲の判別は細かい色の濃淡や陰影が付かぬ事で難しくなり、晴天時に培われた経験を揺さぶって来る。
 「く……っ、相変わらず飛びにくい……」
 「ルーセス空域は比較的雨が少ないからね。慣れないから戸惑っているだけだよ、何時も通りに飛ぶんだ。平常心を失わないように」
 「あ、ああ、了解」
 すぐ後ろの臨時座席に腰を落ち着けるフォートは、離陸した時からカイトの操縦挙動を注目し、目立つ欠点をたちどころに次々と指摘してゆく。飛びにくい理由は実のところ雨だけでは無いのだが、と胸中で呟くカイトだったが、流石に口に出すのははばかられた。
 「――カイト、フォート。あんた達が今いるその辺りで、タンストゥールは迷彩器官を用いて、雲の中へと潜って行った。隠れ場所はほぼ間違いなく、数多ある『空洞穴(クラウド・ケイブ)』の中のどれか……全く、洞穴とは良く言ったものだよ」
 空洞穴――それは、雲の中に形成される雲取り場が変異したもの。通常、マテリアルのエネルギーは相互に干渉し合って雲取り場を形成する際、ある一定の距離にまで雲を離すものなのだが……稀に、雲の密度が甚だしく濃かったりすると、マテリアルと雲が半分ほど融合した状態になり、巨大な雲の塊を生み出す事となる。重層著しい雲は光を通すことなく、マテリアルの蒼い光は、その中であたかもほの暗い灯火に見えるとか。
 「雲の層がレーダーの電波まで歪めてしまうんだから、しらみつぶしに探して行くしかないんだろうね。そっちの状況、今はどう?」
 「低気圧の真っ只中だからなんだろうけど、あちこちから雨粒がぶつかって来て目視しにくい。……フォートさん、後部席キャノピー、本当に外すのかよ?」
 「全方位を見るには、生憎と邪魔になるからね。……大丈夫、限界を超えたら元も子もない。その時はちゃんと知らせるよ」
 「…………」
 心配を寄せた眉根に表しつつ、カイトは首を縦に振ると、軌道と機体の向きを修正して可能な限り平衡にバランスを保つ。その事を確認したフォートは、キャノピーを後ろにスライドさせて座席から立ち上がり――勿論、安全ベルトをしっかりと身体に巻いて――閉じていた裸眼を開いて行った。
 「――――」
 マテリアルの力を応用して作られた人口の眼――空晶義眼。半永久的な機能を備え、余程の異常がない限り『普通の眼よりも遥かに高性能』と評判の代物だったが、それを付ける事は、クラウダーとしての生命が確実に絶たれてしまう事を意味している。
 加工されたものならいざ知らず、天然のマテリアルを空晶義眼で直視した場合、双方で干渉し合う剥き出しのエネルギーが義眼を、ひいては体内神経すらも強く圧迫する事となる。いわゆる『見え過ぎる』と言う逃れ得ぬ事実が、例え特性の眼鏡をかけていても、義眼の装着者たちを空へと上がれなくしているのだ。
 フォートは今、その禁忌を破ろうとしている。マテリアルのエネルギーが微細な部分まで『見え過ぎる』のならば、その力が不自然に収束している所などが怪しむべき場所……理屈では確かにその通りなのだが、眼が潰れる危険を冒してまで、誰がわざわざそんな事をやってのけようと言うのか。――助けたい者の命と覚悟を、天秤にでもかけない限り。
 「う、く――っ、……カイト、レナ。北北西28と西17、上方角30度の南東51に、気になるマテリアルの集まりがあった」
 「オーケー、検索する。……北北西28と上方角30度の南東51は雲取り場だよ。カイト、西17へ」
 「り、了解」
 軽く呻いて眼を抑え、座席へ座り込んでそう告げるフォートと、レナのナビゲートに従って飛雲機を飛ばすカイト。マテリアルに接触し、その有機成分が雨に含有している以上、考えてみればそれが眼に入るだけでも十二分に危険と言える。つくづく、この天候が恨めしい。
 「指定ポイントに到着。……駄目だ、ここは違う。レーダーに観測出来ない程度の、作られかけの雲取り場だ」
 「ちっ――ここまで観測精度を上げても、映らないって言うのか。……カイト、フォート、次の探索地点へ」
 事前に測定していた空晶義眼の探索範囲は、状況にも前後するが、およそ半径1qと言った所。それでも、膨大な質量と体積を誇る雲からすれば、ほんの一部分に過ぎないのである。
 探索地点は、今朝の天気図と雲の状態から計算して――最低でも、約100箇所。どれほどの負担がフォートの両眼にかかってくるか、想像するだに辛い。
 「向こうが駄目なら、この場所は――ああくそ、また外れだ。……フォートさん、大丈夫なのかよ?」
 「ああ、まだ、耐えられるよ」
 顔を俯け、可能な限り負担を減らそうと、またカイトに心配をかけまいとするフォート。努めて平常を保っている言葉の響きだが、まぶたの裏側に針山を刺し込むような痛みは秒刻みで強くなる。もはや、物理的な意味でも悠長にしてはいられない。
 「――く――っ、ここも、違う、か――」
 手のひらで顔をこすって雨粒を払い、座席へ戻ろうと、フォートは腰を沈めかけて、
 「? あれ、は――」
 視界の隅に妙な光景を捉え、中腰で固まっていた。
 そこに映っているのは、雲の中に山と散在するマテリアルの蒼光。それがある程度固まっている所は、当然ながらその度合いも強く、大きくなるものなのだが……通常、光は常に放たれ続けるもの。スイッチを入れたり切ったりするように、明滅する事など無い。
 考えられる可能性としては、マテリアルのエネルギーが著しく減少してしまっているか――それとも、マテリアルの力を隠そうとする「何か」の影響が、周囲に出てしまっている為か。例えば、迷彩器官で自分の存在を隠している者などの力、とか――
 「……カイト! 下方角15度、東南東33へ!」
 「!? わ、分かった、了解!」
 突然の鋭い叫びに一瞬面食らいながらも、カイトはシプセルスを指定された地点へと飛ばして行く。気づいてみれば既に、このしらみつぶしな探索が始まってから二時間が経過。ポイントは既に、半分近くが候補より消えていた。
 「…………」
 用心を兼ねて速度を落とし、少しずつその場へと近付いてゆくシプセルス。
 「レナ、姉……レーダー、一体どうなってる……?」
 「その辺りにマテリアル云々を示す情報は、モニターに観測されていないね。……当たり、なのかい?」
 「どうやら――そう、らしいね。目を閉じているのに、義眼がさっきからぎしぎしと疼いているんだ……これ以上近付いたら、瞳が砕けてしまいそうだよ」
 びしょ濡れになった髪や服を拭う事も無く、フォートの両手はひたすらに俯いた顔を、両の瞳を覆う事に終始している。作戦本部にて高性能のナビコンを用い、色々とプログラムを試して何とか指定ポイントの解析に務めようとしているレナだったが、中々上手く行かず、困惑と焦燥をつのらせるばかり。
 ゆえに。その風景を直に見ているのは、カイト一人だけだった。
 「これが……空洞穴、だって……?」
 思わず天を仰いで、そう呟くカイト。彼の眼前に見えるもの――それはまさしく、雲の壁。
 低気圧による高速の気流が周囲を席巻しているというのに、それはまるで無風状態の只中であるかの如く、流れや動きが微塵も見られない。触れた瞬間、鋼の壁に叩きつけられそうな錯覚を思い起こすほどに、その雲はがっちりと固形化され、見分けのほとんど付かない雨雲の中において、異様な存在感を放ち続けていた。
 天に続けて地を仰ぎ、距離をおおまかに確かめて壁の周囲を旋回するカイトは、それが、いびつとは言え楕円形になっている事を理解する。この中に奴が、そしてその幼生までがいるとしたら、あたかもここは巨大な「巣」だ。
 それにしてもこの「巣」、一体どれだけの大きさを誇っているというのだろうか。目測で計るなら、頂の見えない縦は恐らく数q、横でも500mはある。以前、ルーセスを見下ろしていた入道雲の半分弱くらい――空洞穴としては最大級の代物だ。
 「……すっ、げぇ……」
 飾り気の無い、彼の素直な感嘆だった。低気圧の真っ只中、自然の力だけでこんな凄まじいものを作りあげてしまうのだから、空という場所は未だ神秘の固まりである。
 「カイト――見とれている所悪いんだが、生憎、僕の眼はこの辺りで限界のようだ。手はず通り、頼むよ」
 「了解。降下して雲外へ脱出する、フォートさんは準備を」
 操縦桿を倒して機首を下げ、雨雲の中からその下へ、降りしきる雨の中へとシプセルスを飛ばすカイト。やがてその眼下、雨粒の膜の向こう側に、蒼色を満面に湛えた海が見えてくる。
 「予定高度に到着……下のほうに船も見えてきた。降りられるよ、フォートさん」
 「よし。――カイト、後は頼むよ。君の力を、僕もレナも、そしてハルカも信じている。最後に、君自身が自分と、僕らとの絆を信じられれば――道は、必ず開いていける。頑張れよ」
 「――――、――うん」

 ぎぃ、と言う船体の軋みが、幾重にも連なって風の中に消える。
 時を刻むごとに強まって行く風は白波を海面の至る所に生み出し、大小様々な船を、音を立てて揺らし続けていた。その様をよくよく見てみれば、一つ一つの詳細な形状までもが千差万別であり、職種の混合が容易に見て取れる。
 「そろそろ、姿を見せる頃だよね……」
 「ああ――連絡が正しければ、多分この辺りに……」
 そんな中において。漁船の甲板上で、雨雲をじっと見つめている二人――シオとセーメの姿があった。
 彼らが今現在その身を預けているのは、自分達の持つ小型船ではなく、漁師組合の所有物でも特にランクの高い大型船舶。その周囲にも嵐の中を優々と渡っていける船や軍船がずらりと並び、数十分前よりある程度定められた範囲を巡回し続けている。
 と、
 「――っ! 兄貴、あれ!」
 叫びと共に空の一点を指差すセーメ。彼女の視線の先にいるのは――あたかも、光無き雨の中にぽっかりと咲いた明色の花。遠目にも分かりやすい、白色基調のパラシュートを広げ、ゆっくりと海面に向かって降下していく、フォートの姿であった。
 「皆、見えたぞぉっ! あそこだぁっ、降りて来てる!」
 シオの叫びは、各々の船を一斉に動かす合図となる。漁師達と両国の軍が協力して創り上げられた船団は、落下して来たフォートを回収し、陸に戻る時間すら惜しんで一刻も早く義眼治療を施す為のもの。加えて、これから始まるタンストゥールとの戦いで、万一誰かが海へと落下して来た際の救助も兼ねている。シオ達兄妹も、動体と静態の視力を買われ、こうして作戦の一端に参加しているのだった。
 「フォートさん一人って事は……本当に、あそこにいるんだよね。カイトが――そして、ハルカさんが」
 「信じられない……って言うか、あんまり信じたくないけどな。つい昨日、同じテーブルで俺たちと飯を喰っていた二人が、今、この上で命を賭けて戦っているなんて」
 「ねえ、兄貴――大丈夫だよね? 折角、カイトやハルカさん達と仲良くなれたのに――まだ、満足な御礼だって出来てないのに。あたし、また二人に、皆に会いたいよ」
 「……ああ。俺もだよ」
 不安を瞳の中に滲ませ、問いかけるセーメの頭を、くしゃりと優しく撫でるシオ。彼らを乗せた漁船は、波によって生まれる揺れにも臆する事無く、全速力でフォートの元へと向かって行く。

 ほぼ同時刻、彼らの上空を一隻の艦が飛んでいた。
 作戦遂行の為、国王権限によって空洞穴付近へと向かうリンコドン。使用可能なシーフィアスとパイロットを乗せ、シプセルスのEマテリアルを補給するという任務を帯びて。ルイン達をその内へと迎え入れんが為に、雨雲の中を突き進んで行く。
そして……交集季五十七日、午前十一時丁度。一旦速度を落とし、シプセルスを無事に収容したリンコドンは、再度全速前進。空洞穴への進攻を開始する。
 ――蒼き闇の洞は、ただ静かに挑み来る者達を迎え入れていた。

〈9〉

 「…………」
 人造聴覚を刺激して来るのは、妙に不規則な心拍音。泥濘の底から引き上げられた意識を研ぎ澄ませ、徐々に感覚を鋭敏化させる。
 これは――自分が聞いているこの音は、不規則、なのではない。三つの心臓の鼓動がごく近くにあるため、重なって聞こえていたのだ。
 一つは巨大、二つは同サイズの小さなもの。人間のそれである事は疑いようも無い。
 「――――」
 神経と体内機器の損傷を確認した後、セティルは自分の四肢と五感が働くか確かめてみる。聴覚は言わずもがな、視覚と触覚も、確認したところ大きな異常は無い。両手足も、ほぼ意思の通りに動いてくれるが――一番の問題は、左腕。肘の関節から先を辿ってみると、そこには、接続箇所の故障によって腕にがっちりとくっ付いたハープーンがあった。いまだ銛の形を保ってはいるが、外壁のあちらこちらが崩れた無残な姿を晒しており、動かす事は期待できそうに無い。
 方々に流れ出ていた、物を溶かすあの鮮血は、既にその大半が流れ落ちているようだった。真下に見える大きな穿ち傷も、血液が凝固して黒ずみに覆われている。
 「……私、は――」
 そうだ――段々と、霞の中だった記憶も詳細に戻って来た。カイトとハルカ、そして二人の元にやって来た兵士に命じて、乗用車の中より王女を助け出してもらっていたのだ。
 タンストゥールの落下場所がよりにもよって王女の控えている大使館だと分かった瞬間には、背筋に怖気が走った。悪い事にこいつの速度も凄まじいものだったから、館内でどれだけの混乱があったかは想像に難くない。そのせいで避難が遅れてしまったのだろう――視界がぐるんと引っ繰り返ったのは、そんな事を考えていた瞬間。
 何故、という疑問が頭をよぎる前に、タンストゥールは一つ大きく動くと、そのまま一気に浮上。雲の中へと潜った辺りで、上にいた自分は一時的に気を失っていた。続けざまの衝撃が、耐えられる負荷を一時的に超えてしまったのだろう。
 「…………」
 この先の考えは、出来るなら外れて欲しいと思う。悪い予想など単なる杞憂に終われば良いと、そう考えている。……だが、こいつがあの時、頭を向けていた方向は。その口を空けて、飲み込んでいたように見えたものは――
 「姫、様……」
 ――聞こえて来る心音は、三つ。一つは、自分が磔となっているこの巨躯……タンストゥールのものに相違ない。ならば、もう二つは誰のものか。逡巡する事暫し、セティルは上下の歯を噛み締めると、一つ呼吸をしてまぶたを閉ざす。
 そして――姫様、と声に出さず、心音の方向に呼びかけてみた。数秒の間隔を保って、二度、三度、四度――
 「(……セティル? セティル、そこにいるのね?)」
 紛れも無いルインの言葉が、それに反応して返って来る。彼女ら二人の身に付けている、マテリアルの力を用いた思念通信機――ルインは耳元のピアス、セティルは体内埋め込みという形の――による、肉声を必要としない会話だった。
 「(姫様――ああ、やはりこの中に……!)」
 「(それだけじゃないわ。私の傍らに今、ハルカがいる。外傷こそないけれど、早くここから出さないと危ない)」
 「(ハルカまでが、そこに……。危ないとはどんな様子なのです? 応急手当ならば、私からの指示でも何とか――)」
 「(ううん、そういった類じゃない。私達を包んでいるこの膜からマテリアル越しにタンストゥールの思念が流入して、彼女の精神に干渉し続けているの。さっきからずっと、悪夢にうなされているわ。……お祖母様の名を、呼び続けてる)」
 「(…………)」
 出来る限り堪えたつもりのセティルだったが、歯噛みを隠し通せた自信は無い。心当たりを辿っていけば、どのような悪夢に彼女が苛まれているか嫌でも予想が出来てしまう。
 「(私たちはこうして思念が繋がっているから、干渉は防げているけど……セティル、貴方のほうでは何とか出来ない?)」
 「(この状態では流石に難しいですね。こいつが何とか眼を覚まして外に飛び出してくれれば、対処のしようもあるのですが――)」
 彼女の思念はそこまで言葉に変化し、そして唐突に遮断される。タンストゥールが大きく身じろぎした、と思った瞬間、真下の巨躯より放たれる雰囲気が急激に実態を備えたのである。こんな状態でも話す事は不可能ではないが、結果としてどちらかに危険が及んでは元も子もない。
 「こいつ――目覚めた!? 一体どこへ――ぐぅっ!」
 慌てて身構えたセティルの全身を、刹那、加速による衝撃が襲う。暗黒にも似た闇の只中で、その端々を仄かに照らす蒼光が次々に後方へと流れて、数多の線と化して行く。
 それが続く事数秒――徐々にではあるが雲の層の薄いところへ移動しているのだろう、視界が白み始め、
 「!」
 一瞬、そこに鏡でもあるのか、と眼を疑い――そしてそれを、タンストゥールをモデルに作られた戦艦、リンコドンの姿だと確認する。瞬間、セティルの思考を席巻したのは、安堵の感情などでなく「まずい」という言葉。お互いが近すぎる――この視界の悪さでは、避けられない!
 「――っ!」
 離れろ、と言う彼女の叫びは、二つの巨物の激突が生み出す凄まじい音によって、完全に掻き消されていた。
 衝撃が走り、リンコドンの見目麗しい艦首が圧力に負けてぐしゃりと歪む。丁度それは、タンストゥールの身体がリンコドンの頭部に圧し掛かっているような体勢。双方が前進し、なおかつリンコドンが直前で舵をきって下を向いた為、正面衝突は避けられたようである。
 と――閃く光、連なる爆音に震動。リンコドンの両翼に設けられた大口径主砲が連続で火を噴き、ゼロ距離の上斜方射撃を奴の腹部へと叩き込んだのだった。
 悶絶の叫びを上げ、思わず飛びすさるタンストゥール。その隙を付き、後退を始めて闇中へ姿をくらまし始めるリンコドン。
 「――――――――っっ!!!!」
 怒りにまみれた咆哮を上げ、空の王は自分を傷つけた存在を追って進み始める。その進路上を狙って次々と放たれる主砲だが、タンストゥールを遮る壁としてはいささか不十分の感が否めない。これではまるで、闇の中でかえって自分の位置を知らせているようなもの――
 「(……誘っている……そうか、こいつを雲の外に!)」
 セティルの予想を裏付けるが如く、速度を上げる両者の周囲は明度を増す。気付けば、僅かの間に雲の層が薄くなり始めていた。
 だが――互いの距離が縮まる時間は、雲を出る時間よりも速い。
 「っ!」
 巨躯の背中にて、銛を伝ってくる震動に苦悶するセティル。再びタンストゥールがリンコドンに体当たりを喰らわせた事で、がぎり、という艦の歪みがあたかも悲鳴のように聞こえて来る。
 と。そんな轟音の隙間を縫って、びゅん、という鋭い風切り音が響く。一体何だ、と周囲を見回すセティルの視界に現れたのは、ハープーンの壁面へと突き刺さった太い糸。距離的には彼女の頭上約1メートルといった所だろうか。
 「あれは――」
 タンストゥールは、前方のリンコドンに気をとられており、背中で行われている一切の動きは分からぬ模様。それを確認したセティルは、軽く跳躍して限界まで身体を曲げ伸ばし、交差させた両足にその糸を挟んで手元へと引き寄せる。
 注視してみてそれが、ハープーンとコロナトゥスを繋ぐ時にも使ったワイヤーだと分かる。なら、この先にいるのは――
 「(……シーフィアス? 誰だ?)」
闇の中で見えぬ相手に、通信を投げかけるセティル。ウィンチにしろ何にしろ、マテリアルのエネルギーを通すものの両端に然るべき機器を接続すれば、不完全でも通信が可能となる。とは言え、それらを流石に生身の人間の脳に埋め込むわけにはいかないから、手紙の如く固定化されたメッセージが主流になってくるのだが。
 セティルの思念に反応して返ってきたのも、そう言った形でしたためられた、固定の通信文だった。
 曰く――こちら、シーフィアス、ロバート機。今、このウィンチを隊長は持っていると思われるが、その膂力を持って銛に突っ込んでおいて貰いたい。雲の中に待機しているシーフィアス数機で、一気に引っ張ってそこから救い出す――との事。
 「…………」
 僅かな逡巡を行った後、セティルは自分の中でメッセージを固定化し、そしてワイヤーへと通した。雲の向こうにいるシーフィアスが、それを受け取ってくれる事を願って。

 『ぐぁっ!!』
 外壁から直に伝わってくる揺れと衝撃は、シールドを張っていたコロナトゥスの比ではない。リンコドンの防御がいかに優れているとは言え、この苛烈なぶつかり合いはそう何度も何度も繰り返していられない。けん制の為、組み合った瞬間に叩き込んでいるゼロ距離の主砲も、艦にとってはダメージ増幅の一因となる事をまぬがれなかった。
 「くっ――空洞穴の外までは!?」
 「後二五〇メートル、もう少しです!」
 アーティスの声とオペレーターの声は、周囲を飛び交う叫びと悲鳴の中、さながら怒鳴りあいをしているかの如きものだった。声量を限界まで張り上げ、喉を枯らし、同時に耳に神経を集中させてきちんと情報を拾わねばならない。
 「…………!」
 それだけの事を頭に叩き込みつつ、彼女はタンストゥールからも決して目を離そうとしない。持てるエネルギーを全て後退の為に使い、諸々の機能も使用できなくなっている以上、頼れるのは自分を始めとした人間自身の力だ。ここで恐れるな、決して眼を背けるな。その先には、敗北しか待っていない……!
 「来ます!」
 「――、方向12へ、俯角10度!」
 ぶつかり合う寸前、艦体をロールさせると同時に艦首を斜め下に向け、正面衝突を回避。刹那、艦橋が割れるかと思えるような激しい揺れが、乗員達を容赦なく襲って行く。交差する叫びに連なって、乗員の数人が座っていた椅子から投げ出されていた。
 「くっ、主砲発射! ――皆、もう少しだ、耐えろ!」
 勢いによって前方の机に思わず倒れ、顔面をしたたかに打つアーティスだったが、痛みをこらえてその場に声を通らせていた。刹那、
 「後30、20、10――抜けました! 洞穴外です!」
 報告の後を追うかのように、リンコドンの視界モニターから闇がさらに白んで行く。もはやそれは、洞穴内に重なった雲が備えられる明度ではない。完全に、外へと抜け出たのだ。
 「よし、全速後進を続けつつ、主砲とシールドの用意を! ロバートからは報告が来ている、確認と集中を怠るな!」
 指示に続いて、アーティスはその場にいる全員に聞こえるよう、声を張り上げて宣言する。
 「――ここでタンストゥールを討ち、王女ら囚われの者たちを救う! 決着をつけるぞ、総員尽力せよ!」

 「――準備は出来てるね?」
 「ああ。けど、リンコドンも随分無茶をするよな……ダメージ覚悟で、あいつを外に引きずり出すなんて」
 「実際、被害が艦のあちこちに出ているみたいだしね。さて、次はあんたの番だよ」
 「…………」
 「あらかじめ言っておくけど、ちょっと無茶させるかもしれない。けれど、必ず……必ず、最適なコースを弾き出して届けるから。良いね、どんな状況になっても絶対に諦めるんじゃないよ」
 「ああ」
 発進を告げるアナウンスが響き、前方の壁が重い音を立てて開かれて行く。鉛色の空から、吹き込む風に乗って雨粒が発進口に侵入し、パタパタとキャノピーを叩き始めた。
 「行くぞ――シプセルス、テイクオフ!」
 向かい来る雨を切り裂いて、空飛ぶ魚は今、リンコドン下方部より勢い良く飛び出して行く。その向かう先には、怒りに狂う空の王。
 「―――――――――っっっ!!!!」
 雲の壁を吹き飛ばし、その残滓を纏いながら躍り出るタンストゥール。と――その前方を、かつてその牙から逃れ得た、奇妙な翼の小魚が飛んでいる。
 だが今現在、その口の中は、子供に与える為の餌を溶解中。下手に飲み込んでしまえば意味を成さない。ゆえに、その牙は勿論、口を開ける事すらも封じられている。
 ――それでも、なお。あたかも何かの妄執に取り付かれたかのごとく、タンストゥールは雲に紛れたリンコドンを探す事無く、真っ直ぐにシプセルスを追いかけ始めていた。
 「……っ!」
 ブーストを吹かせ、シプセルスは速度を上げる。一回り小さくなったとは言え、後方から絶え間なく叩きつけられる威圧感は、微塵も損なわれる事がない。
 「4―3、6―4、2―1―3―9! 2―1、8―3―4!」
 通信機から聞こえるレナの声は、さながら速射砲の如し。コースの決定にも一切の迷いや淀みは無く、寧ろカイトが必死にくらいついていくという状況だった。機体を即座に反応させなければ、いかに適したコースであっても乗り遅れてしまいそうになる。本当にこれが数年間ナビゲートを離れていた人間なのか、という疑問は、操縦の過程でたちまち反射行動の渦に飲み込まれていった。
 軌道の著しい変化は、後方のタンストゥール、そしてその背でワイヤーを腕に巻き付けたセティルの視界にも入ってくる。
 「……レナ、だな」
 普段こそ冷静沈着だが、その分必要に迫られた時は、ためらいも遠慮も無くとことん無茶をする。親友のナビに振り回されているであろう若き弟子の苦闘ぶりを想像して、悪いとは思いつつ、胸中での苦笑を禁じ得ないセティル。
 と、ワイヤーを伝って彼女に届く「作戦開始、可能か否か」のメッセージ。どうやらこちらの考えを了承してくれたらしい、と考え、彼女は「OK」の返事を返して待機する。
 その数秒後――ガン、と全身を貫く、腕からの衝撃。伸ばされるままになっていたワイヤーのウィンチがロックをかけ、そして一気に巻上げを始めたことの合図だった。
 「ぐ、くぅ……っ!」
 メキメキと耳障りな破砕音を立てて、肩関節の辺りから機械の腕が引きちぎられてゆく。痛覚神経を遮断出来無い事に恨めしさを覚えつつ、彼女は左腕の力を抜いたままにする。下手に力を込めて踏み止まろうとすれば、それこそちぎれてしまうのは身体のほうだ。
 意識を、保て――このまま、この、まま――
 「っ!」
 ばきぃ、と言う音が聞こえた、と思った瞬間、それはあっという間に遠くなり、代わって全身に浮遊感が宿る。左腕を犠牲にした彼女の身体は、ようやっとタンストゥールに突き刺さっていた銛を解き放たれ、シーフィアスの数機から伸びたワイヤーにぶらさがる格好となっていた。
 「6―3―5―2! カイト、『ウィング!』 1―8―2―9!」
 レナの通信――『ウィング』の展開。それは、セティルを奴から引き離す事に成功した、と言う意味。了解、と強く頷いたカイトは『ウィング』を展開させて速度をさらに上げ、指定されたコースを直進。後方のタンストゥールも、そのうち追いつく事が分かっているのか、同じように真っ直ぐシプセルスを追いかけてゆく。
 「――来ました!」
 その様子をじっと観察し、気を窺うリンコドンの乗員達。彼らは、シプセルスとタンストゥールが通り抜けるコースのちょうど真上、約20メートルを離れた雲の中にいる。80メートルという巨体から考えれば、そう難しくなく気配で気付きそうな距離の筈だが――それはまさに、タンストゥールの持つ迷彩器官を、リンコドンもまた備えているという事の証だった。
 「伊達にあの艦は貴様をモデルにしていない……身をもってそれを思い知れ、タンストゥール。そして、姫様たちをこちらへと返してもらうぞ……」
 セティルの言葉は雨の空に溶け、誰にも聞こえる事は無い。そんな彼女を追い越す形で、シーフィアスが彼らの後を追いかけて行く。

 リンコドンの真下を、ウィングを展開させたシプセルスが通り抜ける。一瞬の後、タンストゥールもまた、
 「――斉射!」
 瞬間、苛烈極まる勢いで幾つも幾つも轟く砲撃。狙いは正確に、それは文字通り殺傷の雨となって、空の王へと突き刺さる。頭部、両の胸ひれ、尾ひれ――そして、背びれとその付近、未だ突き刺さったままの巨大な銛へと。
 加速と回転の付いた、巨大砲弾タイプのセラサルム。それは、何度も何度も命中するうち、銛をタンストゥールの体内へ押し込み、そして爆発を起こす。結果、その体内にて破片が飛散し、内臓を次々に傷つけ、引き裂いて行く事となったのである。
 絶叫を伴う苦悶で、速度と勢いは減少。隙が生まれたところに、今度はシーフィアス残存部隊のセラサルムによる砲撃。一発一発をチャージし、背中に穿たれた穴に爆裂エネルギーの塊を連続して放り込んでゆく。
 開かれた口は別のシーフィアスに切り裂かれ、同時に下あごや喉の部分にも砲撃が浴びせられる。文字通り蜂の巣状態となったタンストゥールは、飲み込めない口内の異物を――苦痛のあまり、空中へと吐き出していた。
 「! ルイン王女!」
 「ハルカぁっ!」
 白濁色の球体を、待機していたシーフィアス群、そしてシプセルスが回収に向かう。シプセルスの後部座席に突っ込まれていた長大な正方形ネットを空中に排出し、その四隅を一機ずつが片翼に連結させるという、あたかも空中曲芸のような手順を取って、ゆっくりと落下して行く白球をキャッチに向かう。
 一見すると突拍子も無いやり方だが、ネットのそれぞれ四つ端には純度の高いマテリアルが装着されており、雲の只中に出せば空中に浮いて広がる仕組み。一端に飛行機や飛雲機を扱えれば、後は単純にタイミングの問題のみだった。

 「――――――…………」
 長く尾を引く、王の叫び。断末魔と言っても良いだろう。
 力を失い、癒せぬ傷を負った巨体が、ぐらりと傾き、そして落ちて行く。雲の中へと、消えて行く。

 「……や、った……?」
 「――ああ。どうやら、そうみたいだね。奴の反応が消えていこうとしているよ……それだけダメージと流血が酷いって事さ」
 レナの言葉に反応して、身体の中に張り詰めていた緊張が一気に解き放たれる。大きく息を吐いていると、二人を連れて早くリンコドンへ戻るんだ、というレナの諌めが聞こえて来た。
 「了解、このままシーフィアスと編隊飛行を続ける。……中が濁っていて見えないけど、二人とも大丈夫かな?」
 「――っと、ロバート機から通信が来た。『姫は思念通信によって無事を確認、ハルカも精神の消耗はあるが命に別状は無い見込み』……ははあ、セティルが一緒なわけだ。生きているね、みんな」
 そう呟くと、レナは大きく身体を伸ばし、椅子の背もたれに体重をかけた。ぎし、という微かな響きは、作戦本部から起こった歓声の中でたちまち掻き消される。
 「船のほうからは、フォートの義眼も何とか大丈夫、って報告が来てたよ。……お疲れ様、カイト。ハルカを病院に送ったら、その後でゆっくり休もう」
 「そうだね――賛成」

 リンコドンの後部収容口が開いて行く。編隊飛行でシプセルスは、前を飛ぶシーフィアス二機に続いて、隣接する機と共に着艦を、

 ――その時。艦が、揺れた。
 『っ!?』
 ぞわり、と全身に鳥肌が立ち、咄嗟にエンジンを再始動。振り返るとそこには、もはや見慣れてしまった巨大な暗黒が、
 「――――っ!」
 まずい――閉じる、間に合わない――!!

 リンコドンの直下より、身体の内をずたずたに引き裂かれ、外側もぼろぼろにされながらも、タンストゥールが最後の力をもってミサイルの如く突撃。後部の機体収容口にその牙を突き立て、噛み砕いたそばから力任せに引きちぎって行く。
 急いでエンジンを始動させるリンコドン。巨体が一旦離れ、無残にも半壊したその場に――シプセルスと、白球の半分の姿が無い。
 何とかシーフィアスから抜け出し、渦巻く強風に煽られながら、恐る恐る球の残り半分へと近付いて行く兵士たち。彼らの眼が映し出した光景は、

 「――そんな」
 レナの声は、作戦本部の中で渦巻く声に打ち消される。ただし今度は歓声でなく、戸惑いや混乱が生み出す喧騒の声。
 ――カイトが、そして……ハルカが、飲み込まれた?
 ナビのレーダーを、またもや奴の血液が妨害したのか。だから、死んだという確認を怠った。後で出来れば良いと思って、だから、安心していた――その結果が、これだと言うのか。
 何で――どうして、どうしてこんな――
 「……く……そぉっ……」
 血が滲むほどにぎりぎりと、震える拳が握られる。噛み締める歯が砕けそうなほどの力で軋み出す。シプセルスの反応は、今や眼前のレーダーから完全に消失していた。

〈10〉

 「……、……ぅ……」
 眼を開くと、誰かの輪郭。数回ほどぱちぱちと瞬きを繰り返して、徐々に焦点を合わせてゆく。
 「――ハルカ――ハルカ、おい、聞こえるか? 大丈夫か?」
 「……え……、……カイ、ト……?」
 ああ――確かにカイトだ、見間違えようも無い。ぺちぺちと頬を叩かれているが、流石にもう眼は覚めている。そうだ、幾らなんでもこれは悪夢なんかじゃ――
 「――っ!!」
 唐突だった。瞳が見開かれ、瞳孔がすぼまるや、鋭く喉を鳴らしてハルカがカイトに抱き付いてきたのである。
 「な、ハ、ハルカ……!?」
 「カイト――あいつだ、あいつなんだ! あいつ、あの時からずっと怒り続けて、狂い続けて、悲しみ続けている……でもそのせいで、お祖母ちゃんは、お祖母ちゃんは――」
 「ハルカ、おい、落ち着け! ハルカ、ハルカっ!」
 声の調子にただならぬ雰囲気を感じ、その身を引き剥がすと、カイトは名を呼びながらがくがくと彼女の肩を揺さぶる。必死にそれを繰り返す事数度、彼女はようやく落ち着きを取り戻していた。
 「はぁ、はぁ……、……わ、私……」
 「……良かった、正気に戻ったみたいだな。大丈夫か、立てるか?」
 「え、あ、うん。……ねえ、ここ、って――?」
 カイトの手を借りて立ち上がり、周囲を見回すハルカ。
 そこは、高い湿度と温度、そして仄かな生臭さを備えた、光少ない広大な洞窟だった。見回してみれば壁という壁は粘液に覆われており、そこに生まれた裂け目からは赤色の水が流れ出て――いや、その不透明度と鼻を突き刺す匂いは、間違いなく血液のそれである。
 「――って……この場所、まさか!?」
 「ああ、あの野郎の中だな。本当なら今頃、胃酸のプールに放り込まれている筈だったんだろうけど……あれのお陰で助かった」
 と、周囲を指差すカイト。二人が足場にしているものや周囲に散在しているものは、先程シプセルスと一緒に飲み込まれた、大小様々な人工の合板だった。
 「リンコドンの収容口を俺たちと一緒に飲み込んだから、その合板が傷付いてささくれ立った場所に刺さったんだ。で、流れがせき止められて……。シプセルスも危ないところだった」
 そう言うカイトの視線が向いたところには、シプセルスが半分引っ繰り返った状態で倒れている。見たところ、翼も折れておらず、飛行に関わる重度の異常は見られない。
 「損傷しているのは――あれは『ウィング』の安全ロックか。何とか飛ぶ分に影響は……って、ハルカ?」
 「…………」
 シプセルスの元へ歩き出そうとするカイトだったが、振り返ってその場に立ち尽くす彼女の姿に、また先ほどの発作なのかと動揺を覚える。唾を飲み込み、用心を期すと、少年はゆっくりと歩みを戻して、
 「――ねえ――カイト。『リガレクス事故』の詳細、覚えてる?」
 「え……」
 唐突なハルカの言葉に、思わず硬直してしまっていた。
 勿論忘れようも無い。カイトにとってもハルカにとっても、大切な人を失ってしまった忌むべき惨事であり、それにまつわる先月の一件だってある。ゆえに事故の詳細もまた、気付いてみれば脳裏にがっちりと染み込んでいる状態だった。
 「艇内のEマテリアルが暴走し、制御不能に陥った事による、空中での大爆発。細かい分析の結果、航路の途中に発生していた嵐の中でマテリアルに強大なエネルギーの干渉が行われたと考えられる……」
 「うん――私、夢の中でその光景をずっと見せられていた。タンストゥールは私たちを膜に包み込むと、頭の中に、自分が経験したマイナスの想いや感情を流し込んできたんだ。リガレクスに乗っていた人たちの叫び、お祖母様とお祖父様の涙、そして……タンストゥールの放った、断末魔が」
 「――な――?」

 ……その日。リガレクス・R一四型は、オルザリス王都ラムーニアを飛び立ち、南へ下って国の各街を巡った後、東方へと進んで海上へ至り、北上、ラティメリス国はルーセスへ向かう――と言う「長い航路時間の中で快適な空の旅を楽しむ」というコンセプトを重視した飛行を行っていた。
 だがその途中、南の海上にて突発的に発生した熱帯低気圧と接触。機体への損傷が心配されたが、そのようなものは確認できず、リガレクスは何事も無かったかのように飛行を続けて行く。
 そして。次の日の早朝に、リガレクスは海上で爆発する。全乗員四百名中、生存者はわずかに四十五名。……だがそこには、確認される事の無かった犠牲が存在していたのだ、とハルカは言う。
 「それが――嵐に巻き込まれ、群れからはぐれたタンストゥールの稚魚。きっと、リガレクスの姿を母親だと思ったんだよ」
成魚の巨大さに反して、タンストゥールの稚魚はごく小さく、生後一ヶ月でもせいぜい数センチから十数センチ。そんな存在が、人の眼でも確認できないような細かい傷から艇内に潜り込んだとしても、決して有り得ない話ではない。スクール時代の受け売りではあるが、その事例だってゼロではないのだ。
 「そこにあったのは、彼らの餌であるマテリアルの塊。けれど……タンストゥールは、稚魚を育てる献身が半端じゃない生き物。カイトも習ったよね?」
 「成魚がまずマテリアルを大量に摂取し、丁寧に噛み砕いて、それを少しずつ子供に与えて行く……でないと――って、そんな!?」
 「そうだよ。彼らの体内成分はマテリアルのエネルギーを増幅し、その容量が増加するからこそ、際限なく巨大になってゆく。だから、満足に身体が出来ないうちに餌の過剰摂取をしようものなら――」
 「大量のマテリアルが、暴走、制御不能に……? け、けど、それとこいつがどう関係して――」
 そこまで口に出したところで、カイトは思考の歯車に引っ掛かりを感じる。そもそもこのタンストゥールは、稚魚に餌をあげる為、ルインとハルカを空洞穴へとさらって行った筈ではなかったか。そんな状態の雌がたった一匹、わざわざ安全な筈の群れを離れてこんな所へやって来る事自体、甚だしく妙だ。仲間もいないし、自分から人間や飛雲機を襲うメリットだって何一つ無いと言うのに――
 「――探しに来たんだよ、子供を」
 カイトの表情からその思考を読み取ったのだろう、口を開くハルカ。
 「姿を消した子供を捜し、群れから離れてさまよい始めていた所に――あの雲の爆発で、マテリアルが大量に、そして広範囲に飛び散った。こいつは、それを辿ってルーセスにやって来たんだ。同時に、そこに込められていた子供の断末魔の悲鳴に触れて……力と思いが、歪んで、増幅されて……」
 しかも、タンストゥールは周囲のマテリアルも一緒くたに、大量に飲み込んでいった。そうして恐らく、狂化する過程で思考と記憶が激しく混濁し、「子が死んだ」事を理解しつつ「子の為の餌を獲る」という、矛盾した行動に繋がっていったと言う事だろう。
 ――その歪みを、ハルカは目覚めぬ夢の中で何度も何度も見せられたと言うのか。しかも外部から無理やり押し付けられて、その中には祖母の最後までが――
 「ハルカ……」
 「う、ぐ……っ、……カイト、このタンストゥールは、シプセルスを狙ってる。『あの魚こそが自分の子を殺した存在だ』って、凄まじい量の敵意が叩き付けられている……」
 そこまで呟いて悪夢の内容を思い出したのか、声を震わせて涙をうっすらと滲ませるハルカ。しかしまったく、酷い濡れ衣もあったものだと思う。
 「記憶や思考は、細かい所で混ざり合ったり入れ替わったりしてるみたいなんだ。こいつをこのままにしていたら、きっと他の飛雲機や飛行機も無差別に襲い出すよ」
 「くそっ……、とにかくここを出ないと話にならないな。もし俺たちの事を気にして外の攻撃が滞っていたら、眼も当てられない――」

 カイトの予想は半分ほど的中、という所だった。作戦の参加者達が二人の事を気にかけていなかった、と言えば嘘になるが、しかし。
 「くぅ……っ、あの小僧――ろくな経験も無しに、こんな化け物から逃げ延びていたというのかっ!?」
 ロバートが操り、セティルが同乗しているシーフィアスに、満身創痍の状態でありながらもタンストゥールが追いすがろうとしている。先ほどの奇襲に続くリンコドンへの襲撃をロバートが咄嗟に遮り、その結果としての逃走劇だった。
 体制を何とか立て直している陣営だったが、シプセルスに速度でどうしても劣り、ナビにも頼れないシーフィアスでは、逃げつつ反撃のコースを取る事は甚だ困難。奴の速度が落ちているとは言え、味方の元へ満足に近寄れない。
 「ロバート、私が速度を落としているのでは……!?」
 「馬鹿言わないで下さい、だからって降りられないでしょう! あの速度で奴の身体や下の海に叩きつけられたら、その身体のダメージでは耐えられません!」
 ガギィン、と、機体の翼をかすめるようにして牙が鋭く打ち鳴らされる。満足に反撃に移れない以上、彼らにできるのは全力をもって逃げる事だけであった。

 『…………』
 飲み込まれてから、今現在に至るまで――ハルカの目覚め、そしてタンストゥールにまつわる話も聞いたと言うのに――意外なほど、身体の中は揺れや傾きが少ない。あの状態で動いていない、という事は無いだろうから、何かを追いかける過程で直線のコースを飛び続けている、と考えるべきだろうか。
 「――ベルト、大丈夫だな?」
 「うん、幾ら引っ張ってもびくともしない。でも、こんな場所でなんて……『ウィング』の力も、制御しきれないんでしょ?」
 「確かにな。けど、やるしかない」
 現在のタンストゥールが全長80メートルだから、その中で胃よりも前の位置……恐らく、30か40メートルといったところだろう。飛雲機では、一秒と経たずに駆け抜けてしまえる距離――せめてこのまま、道が真っ直ぐである事を祈るしかない。
 「Eマテリアル、燃焼……エンジン回転数、上昇。……ハルカ、しっかりシートに身体をくっ付けていろよ」
 「理論上では――可能、なんだよね。……帰れるかな、私たち?」
 「ああ、帰れるさ。あの事故の因縁を、ここで全部振り切って……俺たちは、空に帰るんだ」
 「そう、だね。……、カイトっ!」
 ハルカの叫びは、飛雲機の下をうねり出し、伸縮を始める床に対してのものだった。壁に出来ている凹凸や方々の板が、少しずつ、だが秒刻みで勢い強く、前後にスクロールを始めているのが分かる。
 「――ちっくしょお、胃に運ぶつもりかよ! ハルカ行くぞ、舌を噛むな!」
 「うん!」
 「シプセルス、エンジン全開! 『ウィング』、展開っ!」
 叫びと同時に、カイトは手元にあるレバーを押し進め、ウィングを軌道。両翼の翼より、さらなる蒼色の光翼を出現させる。
 瞬間、二人の全身に気絶すら許さぬほどの衝撃が叩き付けられていた。速度ゼロからの、ウィングを用いた文字通りのロケットスタート……それは彼らの予想を超える力で、シプセルスをあたかも見えない巨大な手で張り飛ばしたかのように、前方へと追いやって行く。
 制動を御しきれず荒れ狂う機体を、カイトは必死になって抑え付け――瞬間、ガクンと速度が落ちる。見ると、内壁から突出していた出っ張り一つに翼の先端が引っ掛かってしまっており、
 「ん、な、ろぉ――っ、停まってなるかあぁぁ――――っっ!!!」
 力任せに操縦桿を振り回し、速度を落ちないようアクセル全開で、機体を思いっきり旋回させる。視界が慌しく天と地を入れ替え、あちらこちらの壁を擦って行き、半ばコントロールを失いかけるシプセルスだったが、カイトはそのまま、タンストゥールの体内をひたすらに突っ走って行く。ただひたすらに、真っ直ぐに前を向いて。帰るべき場所である、空へと戻る為に。
――光が見えるまでの時間は、ごく短かった。

 旋回をしながら狭い空間の中を高速飛行、というシプセルスの飛行は、普通に考えて無茶極まる暴挙でしかない。だがこの時、体内の痛みに苦悶して激しく暴れまわるタンストゥールの中は、器官のあちこちが収縮し、歪曲すると言う状況。まともに飛んでいた場合、短い間ながらどれだけの部分で翼を引っ掛け、或いは身体の奥へと弾き返されていたか分からない。
 そして、同時に。全方位に渡って拡散した『ウィング』の力は、そんな器官や壁に接触するそばから、高マテリアルの密度をもって次々にそのことごとくを切り裂いて行く形となる。
 身を内より刻んで行く光の刃に、幾度と無く絶叫の咆哮を上げるタンストゥール。身をもだえさせる最中、口を閉じて頭部を僅かに下げた事が、その命運を決する事となる。
 「カイト――前が!」
 「突っ込むぞ、ハルカ! 衝撃、備えろ――――っ!!!」

 優に音速の半分すら超える速度で蒼翼を纏った飛魚は、その身体を細くとも屈強な槍として。既に正常な思考回路の焼ききれていた脳漿を、その歪んだ精神ごと貫いて行く。
 ズグボォ、という轟音を上げ、タンストゥールの頭部から巨大な穴を穿って……蒼い光と傷にまみれたシプセルスが、そこから勢い良く飛び出して来た。

 断末魔の声は短く。今度こそ完全に空の王はその命を尽かせ、遥か下へと墜落して行く。数分後、遠くに控えていた船の一艘が、海面に立つ巨大な水柱を確認した。
 ――交集季五十七日、午前十二時十五分。戦いの終わりを、相も変わらず降りしきる雨が、静かに見届けていた。

 ――雨はその日から三日三晩止むことなく降り続け、ルーセスの街と空を全域に渡って洗ってゆく。特に空は降雨の間、誰も上がる事無くただただ静寂が支配し、これまでに行われた激戦の跡を全て安寧へと洗い流そうとしているかのようだった。

 ルインを始めとしたオルザリスの者たちは、助け出された礼もそこそこに、帰国の途に付く事と相成った。「今回の事で働いてくれた兵士たちに、休息を与えたい」と言うのがその理由であり、また、ぼろぼろになってしまったセティルの修理もオルザリスの治療設備のみで可能だとの事。
 手厚い礼をしたためた彼女からの手紙がカイト達に届くのは、その日からもう少し後の事である。

 ――そして。雨の上がった四日目、クラウダー達は規制の解けた空へと、我先に上がって行く。飛雲機群の中には、レナの操るサルディノ、そしてカイトの操るシプセルスの姿もあった。
 「シプセルス、通常飛行に移る」
 「サルディノ、通常飛行へ移行する。……フォート、瞳の具合はどう? もう痛まない?」
 「ああ、暫くは眼鏡が必須だけど、大丈夫。……カイト、ハルカ、レナ……本当に良かったよ、こうしてまた皆で飛べて」
 「本当に、そうだね……。……あ」
 カイトの視線の先には、数隻の漁師船が集団を作って海を突き進んでいた。その後方に、二つの人影を乗せた小型の船が見える。
 「あれは……シオに、セーメ」
 「二人が見えたの、カイト? そう言えばこの前、街でセーメちゃんに会ったよ。無事に帰ってきた事を祝したいから、また近いうちに魚を持って遊びに来ます、だってさ」
 「そりゃ良い、またあの子たちの手料理が食べられるって事だね。……よし、んじゃあ久々の雲取りだ。皆、気合入れていくよ!」
 『了解っ!!』

 飛雲機はさらに高度を上げ、そしていつも通りの白雲の中へ。そんな中でカイトは、自分達の前に立ちはだかったあの巨大な影を、一瞬、雲の只中に幻視していた。
 一つ軽く深呼吸をすると、操縦桿をぐっと握り直す。気合いを改めて注入し、雲取りへと向かって行く。ハルカもまた、隣の師より指導を受けつつ、ナビコンからの情報に神経を集中させる。
 ――自分の未だ預かり知らぬ世界、住むべき場所において知る必要のある恐怖と闇。そして、そんな場所と付き合い続けて行く為に、真に必要なものは一体何なのか。
 少年と少女は、今はただ目の前の世界を学び続ける。一人前への道は、雲の中を進むが如く、未だにその果ても道も見えない、遠き、遠きものだった。



――第二話……了



後編:1へ
  / 幕間:2へ

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