―Sky Clouder―



 

――白き星に生きる全ての者たちよ、ゆめゆめ空からの恩恵を忘れる事なかれ。

 この星に生まれ行く汝らは、その各々が海や陸に生まれ、育ちしも、果てに還る場所はあまねく空である。

願わくば。空晶の蒼き加護が永久に我らの同胞に降り注ぎ、この世界の尊き繁栄とならん事を。――



                                                           (――R=F=ヴェンマット訳「白天録……セルナスの神話」より、冒頭の言葉を抜粋)




 『白き星』の空を、機械仕掛けの翼が飛ぶ。
 常日頃より、その表面積の大部分を分厚い雲が覆っている世界――名を、セルナス。途切れる事無く広がる広大な雲海を、数多の『雲取人(クラウダー)』が縦横無尽に切り裂き、駆け抜けてゆく。
 雲の内部に生まれ、無数と形成される、万能有機エネルギーの集積体『スカイ・マテリアル』。それを見つけ出し、採集し、時には激しい争奪の果てに勝ち取って、地上へと持ち帰る事が彼らの役目である。 
 決して容易いものでない仕事を成し遂げる為、地上から常に周辺一帯の情報を送ってくれる『ナビパートナー』と、己が手足となる専用小型飛行機『飛雲機(クラウドプレーン)』に信頼を置き、彼らは空と地上を絶え間なく往復する。
 百年を優に超える歴史が紡がれていく中で、クラウダーにまつわる数多の伝説や英雄譚が生み出されており、それらの一つ一つに眼を輝かせる子供は決して少なくない。

 大陸北部に位置する、海沿いの中規模市街『ルーセス』。この静かな街の一角にも、クラウダーという世界に足を踏み入れた少年が一人、仲間達と居を構えている。
 かつて飛雲機を駆っていた両親の姿を見て成長し、その雄々しさに憧れて日々の訓練に明け暮れる、未だ職歴半年に満たない十七歳の新米クラウダー。
 今日もまた、彼は練習用の機体に乗り込み、街の上空へと上がって行く。相棒のナビパートナーと共に必死に羽ばたき、今はまだ霞みも見えぬ頂を目指す。
 だが。その内に抱える心は、現状に対する戸惑いと焦りを隠せない。感情の揺らぎをなるべく押し殺し、少年はただひたすらに、飛雲機の操縦桿に神経を尖らせる。そして、目の前で流れ行く光景をじっと見据えて、スロットルを吹かしにかかり――






・Story‐1st・
「雲取人の少年」




〈1〉


 「――高度下げて、カイトぉっ!!」
 鼓膜の奥に突き刺さる、耳に馴染んだパートナーの叫び。刹那、凝り固まっていた少年の意識は正常なものへと引き戻され、代わって無意識の
内に身体が危機回避の動作を行っていた。
 「う、わ――!」
 とっさに手中の操縦桿を殴りつけるように押し倒すと、高度を下げた機体のすぐ上を、後方の雲塊より飛び出して来た二つの機影――飛雲機が
かすめて過ぎ去って行く。それらは彼の視界の中で暫しくるくると踊り合った後、ある程度の距離を経た所で下方に広がる雲海へと入り、そして姿と気配を消した。
 「あ……、危なかった……」
 「って――もう、どっちが! ねえ、私の声や警告シグナル、きちんと耳に入ってたの?」
 操縦席の傍らよりスピーカーを通って聞こえて来る、耳に馴染んで久しい声。彼のナビパートナーである少女、ハルカ=ベルンストが、通信機の向こう側で溜め息を吐いているのが分かる。
 「今のにしても、わざわざ向こうにコース回避してもらったんだよ? 『アンフィプ』に乗っているからって、こんな親切が何度も続くわけ無いんだからね」
 「うん……悪い。前との距離を気にし過ぎて、つい躍起になってた」
 咎めの台詞ではあれど、その声音からは、こちらに対しての不安と心配が如実に滲み出ていた。御免、ともう一度小さく謝罪して、カイト=レーヴェスは高度を先程と同じに戻し、前方へと改めて視線を移す。
 そこには、彼の師匠であり、ハルカの姉でもある女性――レナ=ベルンストの飛雲機『アンフィプリオン』が、操縦者の腕による違いをこちらにまざまざと見せ付けて、巨大な壁の如くそそり立つ雲の合間を淀みなく飛行していた。
 カイトの操る蒼色の機体と彼女の操る朱色の機体、色違いの両機の性能はいつもの通り全く同じである。離陸時にストックしていたエンジン燃料用のマテリアル――『E(エンジン)マテリアル』の数も、双方の間で変わらない。
 だと言うのに、幾ら必死になっても追いつくことが出来なかった。Eマテリアル一つを強制燃焼させて、速度を一時的に引き上げる〈ブースト〉機能を用いても、距離をわずかに縮めるのがやっとだった。
 そして、これもまたいつも通りの工程。カイト機の燃料が早々に危険区域を示し、雲取り場から地上へと戻らざるを得なくなって――一日の訓練が終了する。
 ハルカのナビに従い、周囲に他の機体がいない場所で旋回して、帰路へのコースをたどり始める。その途中、パリン、パリンと軽い破砕音が、両の鋼翼より彼の耳に届いていた。
 雲の中から弾き出されたり、飛雲機がぶつかり合う最中でこぼれ落ちた、わずかなスカイ・マテリアルの欠片や粒子。それらが機体の両翼に激突して霧散し、機内に張り巡らされた極細の特性パイプを通って機体保管庫(ストッカー)へと吸収されて行く際の、クラウダー達にとっては本来、仕事の成功を表す快音だった。
 ――余計な慰めなんか、欲しくないってのに。悔しさと情けなさを入り混じらせ、心中にネガティブな言葉を巡らせるカイト。
 と、
 「危ないところだったね。怪我、どこも無いかい?」
 ハルカと似通った、だが一オクターブ程低い声が、機体の駆動音を縫って通信装置から聞こえて来る。レナがカイトの傍らに朱機を寄せて、閉ざしていた回線チャンネルを開いたのだった。
 「うん。……向こうに、避けてもらった」
 「そっか。――思うようにマテリアルが取れないからって、こんな外れの場まで出張るかね、普通」
 連中も必死って事か、とレナ。とは言え、それでカイトの犯したミスが帳消しになるわけではない。カイト自身もそれを分かっているゆえ、「御免、心配かけた」と、レナに通信を投げかけた。
 「ま、取りあえず、小言と反省会は後ね。無事で何よりだったよ」
 分かれば良し、とばかりに頷き、レナは機体を加速させて、雲の中へと飛び込んで行く。その後ろ姿に未だ追い付けず、その術すら満足に見出す事の出来ない少年は、空の只中で一人きりになってようやく――
 「……くっ!」
 ぎり、と音が立つほどに、強く強く歯をきしませる。先程の失敗と、それに加え……忘れようもない今朝の出来事を併せて瞳の奥に浮かべて、カイトは寄る辺の無い白色をただじっと見つめ続けた。

 「とうとうおいでなすったよ。『いい加減、レナと一緒に帰って来い』ってさ」
 開口一番、その響きは冷たく硬い。ぴん、と言う音を立てて、緊張の糸が朝食の時間を迎えた食卓全体に張り詰める。
 「姉さん……じゃあ、その手紙って……」
 「そうだよ、ハルカ。親父からだ」
 座り慣れたソファから腰を上げ、やや乱雑にくくったブラウンの長髪をがりがりと掻きながら、レナは立ち尽くす妹に封筒から取り出した便箋
を渡す。受け取る刹那、肩の辺りまで緩やかに広がるハルカの髪がびくりと跳ね、本人の胸中に走る驚きと緊張を如実に映し出していた。
 「『絶対に見つけて来るから』って、あんたまで家を飛び出して来て、気づいてみたらそのまんま半年だもんね。あの親父殿にしては、良く今
日まで待っていてくれたと思うよ」
 「それで、君の方はどうする気だい?」
 柔らかく落ち着いた声での問いかけは、彼女のナビパートナーである縁眼鏡の青年、フォート=オーティスのものだった。柔和な表情を先ほど
より保ち、手馴れた動作でテーブルの上に布巾をかけながら彼は言葉を続けていく。
 「君という人間が、単に親の命令一つで大人しく引き下がる……とは、とても思えないんだけど?」
 「あのね、どれだけ昔の話をしてるんだか。クラウダー稼業の方はともかくとしても……事の引き際は、これでもきちんと心得ているつもりだ
よ」
 「そんな……ちょっと待てよレナ姉、まさか諦めるつもりなのかよ!? 今の暮らしも、爺さんの願いを叶える事も、まだ、始めて半年しか―
―」
 「『まだ』? 違うね、『もう』だ。交集季に入ってから、今日で二十日目――あれからもう二〇〇日が経ってしまったんだよ、カイト」
 彼の名を最後に含んで、鋭い眼光と共に放たれたレナの言葉。静かな響きにもかかわらず、それは、カイトの叫びを途中でぴしゃりと断絶する。
 加えて。まるで生まれ落ちた静寂に助勢をするかのように、部屋の一角に設けられたラジオから、口調を沈ませたレポーターの声が聞こえてき
た。
 「――はい。こちらルーセス海域上空、巨大積乱雲の直下です。あの惨たらしい悲劇から丁度三年が経った今も、この旅客艇『リガレクス・R
二七型』より、追悼の花を雲の中に投げ込む人は後を絶ちません。あの事故で亡くなった人々の遺族達は、未だそれぞれの心に負った深い傷を癒
す事が出来ず……」
 『…………』
 「……全乗員四百名中、生存者はわずか四十五名。未曾有の大惨事となってしまった『リガレクス・R一四型爆発事故』は、これからも長きに
渡って語り継がれ、人々の心に残って行く事でしょう。近頃では、あの事故以来天空に浮かび始めた巨大積乱雲を、あれこそは彼らの魂が変化し
た物だ、と声高に告げる人まで……」

 そう。気付いてみれば、もう既に半年が経ってしまったのだ。
 三年前――C.R二五七年にレナとハルカの祖父母を何の前触れも無く巻き込み、結果として祖母一人を天の彼方へと連れて行ってしまった、
大型旅客艇『リガレクス』の爆発事故。
 必死の海域捜索においても遺体どころかその遺品すら見つけられず、ひたすら頭を下げる王国の役人達と、彼らに何も言わず、ただ床上で塞ぎ
込む、魂の抜けたかのような老人――祖父の、普段からは想像も出来ない姿が、孫である姉妹二人の網膜に焼きついている。
 そして、その口をついてふと出た言葉があった。『あいつは空の上で、わしを待っておるのかもしれん』と言う、一種遺言とも取れる呟きが。
 それを、当時のカイトは聞いた。丁度クラウダースクールの卒業試験を見事クリアして、舞い上がっていた事もあるのだろう。『それなら俺が、
空の中から婆さんの形見を見つけてきてやるよ』と拳を握って息巻いた。幼少の頃より遊んでもらい、学ばせてもらった恩を返したいという思いもあった。親から受け継いだ飛雲機もあるし、何よりクラウダーとしての己が力を試したいという好奇心も混ざっていた。

 その結果――半年後の姿が、これである。
 自分の力を過信し、扱いを誤ったひよっ子は、最初の一歩であまりにも痛烈な失敗を犯す事となる。猛省の期間を経た後「決して投げ出す事無く、ありったけの努力を尽くしきる事」と「どんな事態に陥ろうとも必ず生還する事」を絶対の条件に、当時既にベテランのクラウダーとなっていたレナに師を仰ぎ、胸に抱いた志を同じとするハルカとパートナーを組んだ。次いで、彼女もフォートに教えを乞う事となった。
 だが、自分だけが思ったように上達せず、一つ一つは小さな焦りが、積もり積もって今まで培われた経験や決意などを削り取って行く。そしてそれがまたミスを生むという、一度陥ったら容易に抜け出す事の出来ない悪循環に、何時しかカイトは陥りつつあった。
 諦めたくなど無いし、また、自分の祖父も同然である人の願いを破るつもりも毛頭無い。だが、半年前確かに身体全体にみなぎっていた、ある意味無鉄砲さとも取れる自信が、自分の中から少しずつ消え始めているのは確かだった。

 重苦しい雰囲気を引きずった朝食が終わると、昼の休憩と軽食を挟んで、マテリアルの採集を兼ねたいつもの訓練。そして、先程のニアミスの一幕へ至る。
 飛雲機用に造られた街の公共滑走路に着陸し、機体にブレーキをかけながら、今更ながらにカイトは、心を苛立ちと悔恨で満たす。
 ……少なくとも。地面へと降りた先に、仁王立ちで待ち構えているレナの姿を視界に納める瞬間まで、彼の穏やかでない心中は、その事に対し
てざわざわと波打ち続けていた。


〈2〉


 セルナスの空は、白い。
 通常なら『晴天』として扱われる天気でも、全体面積で青空が二割弱、もし四割を超えれば一見に値する貴重な風景と化す。本来であれば、大
きく途切れる事の無い雲海に遮られて太陽光が絶対的に不足する環境の筈だが、様々なエネルギーの原料となるスカイ・マテリアルの蒼光を通る
過程で、光の量が増幅されたり様々な有機物が付与されたりする為、この世界で生きる者たちにその類での不自由は存在していない。ちなみに、
その実用性や普及度、形状ゆえ、スカイ・マテリアルは一般的に『マテリアル』や『空晶』、はたまた『空の宝石』などと銘打たれている。
 セルナスの夜は、蒼い。
 天高く昇った月がその光を地上へと放つ過程で、雲内に含まれたマテリアルの湛える光に反射、混合される。その結果として、雲で覆われた闇
の中にうっすらと青い光を投げかけ、地上を照らし出す形となる。
 クラウダーや飛雲機、マテリアルと同じ、全世界の共通用語の一つにして、夜の晴天を意味する『蒼晴』。この日の夜は、まさにそんな形を以
って、緩やかに更けようとしていた。

 天窓より蒼光が差し込む、飛雲機の格納庫。そこには、あたかも眠っているかのような静けさを伴い、蒼色と朱色のアンフィプリオンが佇んで
いる。そんな二機の間を縫って、奥へと進む影が一つ。
 ゆっくりとした……と言うよりも、むしろ、どこかためらいを内に秘めているかのような足音が、天井高い格納庫内へと響いて消えて行く。
 足音の主であるクラウダーの少年は、それでもふらつく事無く、奥へ奥へと真っ直ぐに歩みを進めた。そして、布で覆い隠された、二つの巨大
な鎮座物の前で足を止め――
 「………っ!」
 その一方の布を掴むと、力を込めて一気に引き落とした。
 蒼光の下に姿を現したのは、一機の飛雲機だった。あたかも鋭い矢じりか或いは槍の穂先の如く、すらりと長細い流線型のフォルムを備えた、
素人目にも「美しい」と感じられる機体。その後方より伸びる両翼と末尾に取り付けられたプロペラが、先述のイメージをさらに強調させている。
 だが、仮にこの機体をセルナスで生きる者が眼に留めたならば……例え、幼い子供でさえも……その形には思わず首を傾げてしまう事だろう。
 飛雲機とは本来『雲の中に入り、そこに生まれ出でるマテリアルを採取』する為に造られた代物。ゆえに、原型となった一般的な小型飛行機に
は「雲内の気流や無数の水滴、他の飛雲機との接触も考慮した頑強さ」と「マテリアルを多く採取し、持ち帰る為の保管庫の設置・肥大化」の二
大コンセプトが念頭に置かれ、専用の改造が施される事となった。結果としてそれらの形状は、総じてどこかしらずんぐりとした、かつ、ごつご
つとした硬質なものになっているのが常である。
 その点で言うならば。今、カイトの見上げる先にある飛雲機は、あまりにも飛行機としての容姿を備えすぎていた。それは、明らかに『マテリ
アルを採取する』事よりも『空を飛ぶ』事を優先させた形状だった。
 ――彼の両親によって全くの一から創り上げられた、この世に二つとない、蒼いボディカラーと銀のラインカラーが眩い飛雲機。
 その名をUnf―〇〇一『シプセルス』……〈空飛ぶ魚〉、と銘打たれていた。

 「ぁ……」
 格納庫の入り口側から聞こえてきた、小さな驚きの声。カイトが振り向いたその先には、ハルカの姿があった。
 彼女はこちらへと近付きつつ、話しかけてくる。
 「シプセルスが……。カイト、ひょっとして?」
 「うん。レナ姉が、説教と拳骨の後『悠長に訓練している時間も無いし、前倒しで明日から予定を一つ繰り上げる』ってさ。……ったく、あん
なに凄みを効かせなくたって良いだろうに」
 苦笑と溜め息交じりの返答。だが、眼前の少年が脅されたからと言って簡単に自分を曲げる人間で無い事を、幼馴染でもある少女は人一倍理解
している。
 「スクール時代からずっとアンフィプに乗って来て、多少は感覚が身に染みついている筈だし……後は自分の力と心で、恐れをきちんと克服出
来るかだ」
 「一気に難しくなる、って事だよね。大丈夫?」
 「心配するな……って言いたいところだけど、正直、自分でも分からない。もしも、なまじ速度を出した時に身体がこいつを受け付けてくれな
かったら、って考えると、物凄く恐いよ」
 だが、そう呟く少年の手は、既にシプセルスを覆っていた布を離し、拳を強く握り締める形のまま。その視線もまた、ただただ眼前の機体を見
つめて、決して反らそうとしない。
 姿勢を保った状態で、今度はカイトがハルカに問いかける。
 「ハルカこそ、こんな夜更けにどうしてここへ?」
 「私? 何だか寝付けなくて、外の空気を吸おうと出てみたら、カイトが格納庫へ入って行くのが見えて、ね。私も実は、義兄さんに怒られて
た事、ずっとひきずっちゃっていてさ」
 「フォートさんに?」
 少なからず意外、という顔で、彼女に向き直るカイト。
 「うん。今朝のあのニアミス、実は隣にいた義兄さんの方が先に気付いて、知らせてくれたんだ。下手をすれば、カイト、洒落で済まされなか
った」
 御免なさい、とハルカは頭を下げ、言葉を続けていく。
 「あの二機が後ろから来てる事、それぞれが通って行くコースと速度の予想……私、明らかに読みを誤ってた。飛雲機の性能や感覚を未だ掴み
きれずにいて、その結果、カイトを危険に晒した。こうやってコンビを組んでから半年も経っていて……今更そんなの、きちんと分かっているべ
き事、だったのにね……」
 「いや――そんな」
 喉まで出掛かっている筈の言葉は、しかし、いざ口にした途端安易な慰めでしかなくなって、余計に彼女を傷付けかねない。カイトの口が噤ま
れると同時に、嫌な沈黙が場にのし掛かってくる。
 知らなかった。気に病んでいるのは自分だけだと、上達していないのは自分一人きりだと思っていた。彼女はただ順調にナビとして腕を上げ続
け、一人置いて行かれていると何時しか思い込んでいた。
 幾ら焦りに追い立てられていたからと言って、彼女の事を……特に、ナビとしての状況について、自分はろくに考えようともしていなかった…
…。
 「ハルカ……」
 「姉さんも義兄さんも、口癖みたいに言ってるよね。『クラウダーとナビは、お互いを心から信じられる、確とした絆を持っていないといけな
い』って。これじゃあ私たち、全然……まだまだ、だね」
 顔の俯き加減に比例するかのように、声のトーンは沈んでゆく。そんなハルカにかけるべき言葉を見つけられず、カイトの脳裏は瞬く間に、無
様にばらけた文字の山に占拠されてしまう。
 「…………」
 自分は今、この少女に対して何をすべきなのだろうか。一体、何をしてあげられるのだろうか。
 飛雲機を駆って空を飛び、腕を上げ、雲の中から祖母の遺品を見つけ出す。……けど、その前に、それ以前に、やるべき事は。パートナーであ
る彼女に対して、自分が出来る事は――
 「あは……御免ね、変な事言っちゃって。明日から難しくなる事だし、気合入れ直して行こうね。じゃ、お休み」
 適当に笑って場を濁し、きびすを返そうとするハルカ。
 瞬間、
 「――っ!」
 ほとんど塞がっていた喉の隙間から、感情に押し出されるがままに、一つの言葉が滑り出ていた。
 「……え?」
 耳朶を打たれた少女の足が、身体が、ぴたりと止まる。
 言った彼自身すら驚くような言葉だったが、撤回はしない。もう一度胸中で可能な限り整理し、心を決めて口にする。
 「一緒に飛ぼう……って、言ったんだ。こいつなら……シプセルスなら、それが出来るから。ひょっとしたらそれで、何か新しいことが掴める
かもしれない。……だから!」


〈3〉


 格納庫内に設けられている設備や機器を操作し、二機のアンフィプリオンを脇へと移して、シプセルスの進路を空ける。同時に、機体後方のカ
バーを外して簡易シートと固定ベルトを突っ込み、設置。さほど労せずして、一人乗りが常道である筈の飛雲機は、世にも珍しい二人乗りの機体
へと変化していた。
 場所から言って、予備のマテリアル用機体保管庫かと考えられていた、機体操縦席の後方にあるスペース。だが、こうして座席をきちんと嵌め
込んで固定出来る事と言い、やや離れて全体像を見回してみた時の感じと言い、カイトにはどうも、これこそが本来の用途であるような気がして
ならなかった。
 ハルカもそれを察したのだろう、「カイトのおじさんとおばさん、二人でこれに乗っていたのかなあ……」等と呟きが聞こえて来る。
 やがて、それぞれの準備は完了。Eマテリアルの残量を確認後、シプセルスは離陸体勢へと移行する。
 「夜でも『雲取り』(マテリアルの採取)を行っている奴らはいると思うし、簡単な飛行コースを選ぼう。シートとベルト、本当に大丈夫か?」
 「うん、恐いくらいに。幾ら強く引っ張っても、びくともしないよ」
 「そうかい、だったら安心だ」
 ……間違えようも無い、レナの声だった。それも、習慣でつい電源を入れていた、通信装置の向こう側から……!
 「レ、レナ姉っ!?」
 「やぁ、二人ともご苦労様」
 「って、義兄さんまで一緒に!? ど、どうして――」
 尋ねようとして、それが愚問である事を二人はたちまち自覚する。少し考えてみれば、格納庫内の設備を使ったり、機体をいじくったりしてい
た時の音は、決して小さくなかった筈。幾ら気を付けていたところで、限界と言うものはある。
 「ハンガーからの音に気付いたときは一瞬泥棒かとも思ったけど、起動用キーと専用知識の両方無しで設備が簡単に動くとは思えないからね。
こっそり中を覗いてみたら、あんたらがシプセルスにくっついていた、と」
 「雲の中に入らなくても、夜の闇は危ないからね。こっちでナビは行うから、安心していいよ」
 「え――あれ? 姉さん達、私達を止めようとしてるんじゃないの?」
 「ん? ああ、まあね。あんた達が悩んだ末に行き着くなら、これが妥当な行動になるかな、って思ってた所だしさ」
 「うん。気をつけて行っておいで、二人とも」

 オレンジ色の回転灯がまばゆい光を放ち始め、次いで、飛雲機の出庫を示すサイレンが構内に響き始める。そのうちに、ゆっくり、ゆっくりと
車輪が回り始め、シプセルスは格納庫より、外の機体専用道路へと移出されて行く。
 そして、一分もせぬうちにその鋭翼は公共の滑走路へ。離着陸を行っている機体が周辺にいない事を確かめて、……加速する。
 Eマテリアルが燃焼され、エンジンが、次いで機体後方に設けられたプロペラが本格的に回り出す。離陸用ブースト起動を示す蒼色の飛沫が機
体の後方へと飛び散って消え――やがて二人乗りの飛雲機は、勢い良く地上を蹴って浮き上がり、刹那を待たずに離れて行った。

 「シプセルス、離陸成功。通常飛行に移ります」
 「了解。現在、雲は前方の積乱晶含雲と上空の層晶含雲。例の巨大雲も、相変わらずご健在。天候は『蒼晴』、降水確率5パーセント。風は少
しあるけど、雨の心配はほとんど無い」
 「カイト。君の読み通り、夜でも『雲取り』を行っている機体が、北西60に2と、東北東45に3。結構離れてはいるけど、注意しておくよう
にね」
 「了解。じゃあ、少しの間飛んで来るよ」
 ナビゲートコンピュータ――通称ナビコンを介した通信は、一旦そこで切れる。それを合図に肩の力を抜くと、レナはふう、と大きく息を吐き、
大仰にその背を椅子にもたれさせていた。
 「お疲れ様。どう、久々のナビ気分は?」
 「あー、駄目。何年もやってないと、えらくブランク感じるよ。完全に飛ぶ事が身に付いちゃったからなー……」
 「いやいやどうして、ナビコンの操作も通信もしっかりと様になっていたよ? 昔を思い出した」
 「うーん……今更褒められてもねぇ」
 保護者同士としての顔を見合わせ、二人は微笑みを交わす。
 「で。どうだろう、二人とも? 何かしら掴んでくるかな?」
 「一回だけじゃ難しいよ、多分。でも、それでへこたれるような育て方はしてないと、自負してはいる」
 あんたもそうだろう?と、フォートに問うレナ。微笑みの形に縁取られた口元と眼鏡の奥にある瞳が、彼の答えを語っていた。
 「とりあえず一歩前進、と見るべきかな」
 「ん。まあ、焚きつけはしたが、自分からあれに乗れたんだ……全てはこれからだよ。今のあいつらの為なら、親父殿の言葉も聞けるし、家だ
って継げる」
 「……そっか。もう、覚悟は……」
 「うん。今まで十分過ぎるくらいに、色々と好き勝手やらせてもらったからね……しがらみだらけの中で生きる覚悟は、自分の中で固まってい
るつもりだよ」
 レナの呟く『つもり』が、単に言葉の通りなのか、それとも言葉とは裏腹な確定事項なのか――フォートという青年には、彼女が僅かに変化さ
せる口調で、その判別が容易だった。今朝の「事の引き際は心得ているつもり」の『つもり』も、今のそれも、明らかに、後者のニュアンスを浮
かべている。
 「喜んでお供させて頂きます、レナ=ベルンストお嬢様。未だ不肖の身ではありますが、このフォート=オーティス、喜んで力になりましょう」
 「こら、茶化すな。けどさ、今になって言うのも何だけど、婿養子ってのは色々と気苦労が絶えないと思うよ? 下手すりゃ親父の二の舞だ」
 「でも、お義父さんはちゃんと来た。そして、君やハルカの親になった。ならきっと、僕だって大丈夫さ。何より、僕のそばには君がいてくれ
るんだから」
 「…………」
 言葉を失って暫しの後、馬鹿だね、とレナは微かに苦笑を浮かべる。軽く肩をすくめつつ、前方のナビモニターに視線を戻し――
 「――あれ?」
 声と共に、彼女は眉を潜める。後方から画面を覗き込んだフォートも、胸中で疑問の声を上げていた。
 「何だ、あいつら。随分と高い所、飛んでるな?」
 「もう、アンフィプで到達出来る最高高度を超えているね。流石はシプセルス、と言うべきなのかな」
 「しかし、あの巨大雲の下か。なんかコース的に、風に流されてるような気が……。……って、おい、ちょっと……」
 レナの声に険しさが加わり始める。ルーセス空域の状況を三次元で映すモニター画面には――急角度のまま高度をさらに上げて、画面外へ消え
ていこうとしている、シプセルスを示したマーカー。その動きの意図は分からぬが、少なくとも降下する気配は微塵も読み取れない。
 「ちょ――ま、待て!」
 通信を点けるやいなや、レナは声を張り上げてマイクに叫ぶ。それに続いたフォートの声も、厳しく鋭い響きを纏っていた。
 「馬鹿、何やってる! 上がりすぎだ、高度下げろ!」
 「二人とも、通信の範囲外に出てしまう! 戻って来るんだ!」
 数秒の沈黙を挟んで、帰ってきたのは……雑音にまみれ、耳を澄まして漸く聞き取れる、小さな声。
 「…あ…、見つ…た…、……かっ……かも…れない、…だ!」
 「姉……、……ートさん、御免! け…、…う、少しで……!」
 「!? おい、一体何を言って、」

 ――ブツリ、と。嫌な断絶音が、ひどく大きく、響く――

 『っっ!!!』
 二人の行動は素早かった。離陸の準備を整える為にレナは身を翻し、同時にフォートがその背中に叫びをぶつける。
 「待つんだレナ、『サルディノ』で! 整備とチェックは終わっているから、アンフィプよりも速く追える!」
 「了解! フォート、負担かける事になるけど、お願いね!」
 簡潔な応対を交わし、レナが脱兎の勢いでナビルームを飛び出して行く。それと同時に、フォートは隣接するもう一台のナビコンに電源を入れ、
簡単な操作を行うと、縁眼鏡を外して裸眼を露わにし――マテリアルと全く同じ光を湛えた、蒼き義眼で二台のモニターに視線を定める。
 「……く、ぅ…っ。レナ、行けるかい……?」
 「えっと……、……よし、準備完了、これから滑走路へ向かう。……フォート、耐えられなくなったら、いつでも止めて良いからね。『空晶義
眼(リア・クロム)』の使用負荷って、下手すりゃ脳にくるんだから」
 「大丈夫、我慢出来るさ。それに、一度使うとしばらくは使えなくなるし……今のうちだけでも、ね」
 『空晶義眼』と呼ばれる、マテリアルの力を応用したその義眼は、片目一つだけでも両目と寸分違わぬ像の焦点を結ぶ事が出来る。フォートに
はそれを用いる事で、二台のモニターに映る異なった画面を脳内で一つに統合、理解出来るという特技を備えていた。
 が、それは本来、人間には見る事が出来ない範疇の視界。特製の眼鏡を通さない視覚情報は、結果として彼の神経に大きな負担をかける事にな
ってしまう。
 「とにかく、さっさと連れ戻してくるから。……よし――サルディノ、行くよ!」
 レナの声と共に滑走路を飛び出す、先程まで布の掛かっていた、オレンジカラーの複葉飛雲機。彼女とフォートがアンフィプリオンを雛形に改
造、設計を施した、本来レナの操る高性能機『サルディノ』が、その軽やかな挙動によって、今、蒼色の闇の只中へと突っ込んで行く――




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